夜明け前の地下美術館は、独特の静けさに包まれていた。地下水の滴る音が、遠い鼓動のように響いている。カナは父から譲り受けた腕時計を確認した。午前五時。かつての訓練と同じ時間に、体が自然と目を覚ましていた。
作業場に向かう途中、マヴリスが声をかけてきた。
「これを返しておくわ」
差し出されたのは、母から託された絵筆だった。
「この筆には、とても深い歴史がある。大切に使いなさい」
その言葉には、何か特別な意味が込められているようだった。柄に刻まれた「東都美術館 D-7749」という文字が、薄明かりに浮かび上がる。
篠田の作業場は、すでに明るく照らされていた。老画家は早朝から制作に没頭している。キャンバスには、夜明けの情景が描かれつつあった。地下水脈が作り出す洞窟の壁に、かすかな光が差し込む瞬間。画家は、この暗闇の中にも確かな光を見出そうとしていた。
カナは絵筆を取り出したものの、使うことをためらっていた。その様子を見た篠田は、柔らかな表情を浮かべる。
「大切な方から受け継いだ筆なのですね」
老画家の声には、どこか懐かしさが混じっていた。カナが黙って頷くと、篠田は静かに続けた。
「絵筆というのは不思議なものです。使い手の想いを吸い込んで、また次の世代へと語りかける」
その言葉に、カナは母の最後の表情を思い出していた。
「さあ、その筆で描きなさい。大切な方の想いを受け継ぐことは、時として勇気のいることです。でも、その一歩を踏み出さなければ、何も始まりません」
篠田の言葉には、何か深い意味が込められているようだった。その眼差しの奥に、遠い記憶が揺れているのを、カナは感じ取っていた。
昼食時、マヴリスが作業場を訪れた。彼女の視線が、カナの描きかけた絵に留まる。
「健一さんと研究所で働いていた頃、エレナが私に絵を見せてくれたことがあるの」
マヴリスの声は静かだった。
「決して上手とは言えない絵。でも、そこには確かな真実が刻まれていた。軍人としての彼女からは想像もつかない、繊細な美しさがね」
カナは驚いて顔を上げた。厳格な母が誰かに自分の絵を見せるなど、想像もできなかった。
「エレナは数年前、日本とギリシャの防衛協定の会議で東京に来た時、この美術館を訪れたと聞いています」
篠田は、さも他人事のように言葉を継いだ。
「たしか、幼い頃にデルフィ美術館で出会った日本人の画家を探していると」
マヴリスは意味ありげに篠田を見つめた。しかし老画家は、何も語らない。
「エレナは、その画家から譲られた一本の筆を大切に持ち続けていたそうよ」
カナの手の中の筆が、かすかに震えた。
「さあ、午後の実技に移りましょうか」
篠田の声で、場の空気が変わる。今度の課題は、光と影の関係を学ぶことだった。一輪の白い花に、様々な角度から光が当てられていく。
「絵を描くということは、ただ目の前の物を写し取ることではありません」
篠田は、カナの前に置かれた花を指さした。
「この花を見てごらんなさい。光の角度が変われば、同じ花でもまったく違う表情を見せる。影の濃さは、光の強さを物語り、花びらの重なり方は、その生命力を表現している。絵を描くということは、観察するということ。目の前のものが持つ本質を理解することなのです」
カナは黙って頷いた。
「芸術における観察とは、世界を理解するための扉なのです。この花一輪にも、宇宙の摂理が隠されている。光と影の関係は、存在するものすべての関係性を表している。それを見抜く目を持つこと。それが芸術の第一歩です」
老画家の言葉は、単なる絵画の技法指導を超えて、世界の見方そのものを説いていた。
カナは、母から受け継いだ筆を握り直した。観察すること。それは世界の真実に触れること。その理解が、少しずつ彼女の中で形を成していく。
午後の作業は、夕暮れまで続いた。地下水の滴る音だけが、三人の女性を繋ぐ物語を静かに見守っていた。
カナは授業を終え、自室に戻る途中で足を止めた。日が落ちた地下美術館の通路は、普段より湿っぽい空気に包まれている。上を見上げると、滴る水の量がいつもと違うことに気がついた。
薄暗い通路の照明に照らされた天井には、細い亀裂が蜘蛛の巣のように走っているのが見えた。それは昨日までなかったはずのものだ。立ち止まって見上げているのは、カナだけではなかった。通りがかった住人たちも、時折天井に目をやっては足早に立ち去っていく。皆が同じものを見て、同じ不安を抱えているのは明らかだった。
しかし、誰もその不安を言葉にしようとはしなかった。時折聞こえる地下水の滴る音も、いつもより重く響いているように感じられた。
次の朝、運命は牙を剥いた。
最初の轟音が地下深くから響き渡った時、カナは本能的に篠田の絵を保護しようと駆け寄っていた。しかし、老画家は静かに首を振る。
「命あっての物種よ」
その言葉が空気を震わせた瞬間、天井が崩れ落ちた。篠田の渾身の一枚は、まるで一片の紙切れのように脆く、土砂の下に消えていく。
避難は続いた。通路を埋め尽くす人々の列。誰かが持っていた彫刻が、混乱の中で床に転がる。割れた欠片が、闇の中でかすかな輝きを放っている。そこには作者の魂が、最期まで宿っているようだった。
「こちらへ!」
マヴリスの声に導かれ、人々は中央広間へと避難していく。カナは振り返った。壁一面を覆っていた絵画群が、次々と崩落の犠牲となっていく。それは美の死であり、魂の死であり、そしてこの共同体が守ろうとしてきた何かの死だった。
中央広間に辿り着いた人々の表情には、安堵と共に深い喪失感が浮かんでいた。カナは篠田に近づいた。老画家は相変わらず凛とした佇まいを保っているが、その目には深い悲しみが宿っている。
「本当にこれでいいのでしょうか」
カナの声は震えていた。
「命より大切なものなど、ないというのでしょうか。でも、この作品たちは、誰かの命そのものだったはず。魂の叫びだったはず。それを見捨てることは...」
老画家はゆっくりと腰を下ろし、携帯用のスケッチブックを広げた。その手には、今朝まで使っていた絵筆が握られている。
「私がキャンバスに向かい続ける理由を話そうか」
篠田の声は静かだが、確かな力強さを持っていた。
「芸術は、形あるものとして残ることだけが全てではない。描く行為そのものに、人間の尊厳がある。たとえ作品が失われても、その過程で私たちの内側に刻まれたものは、決して消えはしない」
絵筆が、白いページの上でゆっくりと動き始める。
「見てごらん。今この瞬間も、私は描いている。それは抵抗であり、祈りであり、そして何より、生きているという証」
スケッチブックには、崩れ落ちる天井の下で必死に作品を守ろうとする人々の姿が描かれていく。その線は震えているが、確かな意志を持っていた。
「私たちが守るべきは、目に見える美だけではない。美を生み出そうとする意志、それを理解し、共有しようとする心。その営み自体が、私たちの本質なのだ」
新たな轟音が響く。天井から砂埃が降り注ぐ中、篠田は描き続けていた。
「だから私は描く。それが抵抗であり、希望なのだと信じているから」
カナは黙ってその様子を見つめていた。命を守ることと、魂を守ること。その二つは、本当に別物なのだろうか。老画家の姿に、彼女は新たな問いを見出していた。
その時、マヴリスが戻ってきた。彼女の表情には、深い陰が刻まれている。
「地上で大規模な解体工事が始まっています。東都副都心開発計画の一環として、この一帯の建造物が次々と取り壊されている」
その言葉に、広間は静まり返った。
「さらに深刻な問題があります。当局は、この地下空間の異常な広がりに気付き始めている。防空壕や地下鉄の廃線では説明のつかない規模だと」
篠田は黙って頷いた。スケッチブックの上で、絵筆だけが動き続けている。描かれていく人々の姿。失われゆく美を必死に守ろうとする者たち。そこには、この地下美術館が守ってきたものの全てが、凝縮されているようだった。