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第4話「記憶の絵筆」

東都美術館の裏手に回り込んだ時、マリア・マヴリスは周囲を慎重に確認した。使われなくなった搬入口の扉は、一見すると完全に施錠されているように見える。しかし、彼女は迷うことなく壁面の特定の位置に手を当て、何かの装置を操作した。


金属の軋む音とともに、扉が内側に開いていく。マヴリスに促され、暗がりへと足を踏み入れる。古い蛍光灯が不規則に明滅する通路を、二人は黙って進んでいった。


空気が変わった。湿った土の匂いに混じって、油絵具の香りが漂い始める。


「この地下空間はね、もともと戦時中の美術品疎開用の防空壕だったの」


マヴリスの声が、薄暗い空間に響く。


「その後、地下鉄工事の際に偶然、さらに深い地下空間が見つかったわ。地下水脈が作り出した自然の洞窟が、こんなに広大な空間を生み出していたなんて、誰も想像していなかったでしょうね」


階段を降りていくごとに、遠くから人の声が聞こえ始めた。そして、最後の一段を降りた時、カナは思わず足を止めた。


そこには、想像を超える光景が広がっていた。


広大な地下空間は、古い非常灯と手作りのLEDライトで程よく照らされている。壁には無数の絵画が掛けられ、空間のあちこちに彫刻が配置されていた。人々は思い思いの場所でイーゼルを立て、粘土を捏ね、木材を削っている。


「私たちの美術館へようこそ」


マヴリスの声には、静かな誇りが滲んでいた。


一番奥で制作を続ける老婦人の姿が、カナの目を捉えた。白髪を一本の房に束ね、深いしわの刻まれた顔で、しかし凛とした佇まいでキャンバスに向かっている。


「あの方が篠田千代。戦後日本を代表する女流画家だったわ」


マヴリスは静かに説明を続けた。


「制御チップとの相性が極めて悪く、重度の精神障害を引き起こしたの。安楽死の対象とされる直前で、私が救出した」


篠田の筆の動きには、年齢を感じさせない力強さがあった。カナは知らず、その仕草に見入っていた。


空間の別の一角では、金属を削る音が響いていた。がっしりとした体格の男が、鉄の塊から形を掘り出していく。その手には、爆発の瞬間を永遠の形に留めたような彫刻が握られている。


「火山正志さん。かつては実験的な彫刻で話題を呼んだ芸術家です」


マヴリスは静かな声で説明を続けた。


「破壊と創造の境界を探求し続けた人物です。ただ、ある展示会での事故をきっかけに、表舞台から姿を消してしまった」


火山は黙々と作業を続けながら、時折できあがった作品を見つめては首を傾げている。その眼差しには、何か深い後悔と、新たな可能性への期待が混在しているように見えた。


マヴリスは静かに続けた。

「あれは五年前のことです。六本木での個展『創造の瞬間』。火山さんは爆発の瞬間を彫刻として定着させようと、特殊な技法を開発していました」


展示会の最終日。会場には多くの観客が詰めかけていた。火山は自信作となる大規模なインスタレーションの準備を整えていた。それは爆発の瞬間を、特殊な樹脂で封じ込める画期的な作品になるはずだった。


「私たちは皆、彼の情熱を信じていました」

マヴリスの声が僅かに震える。

「誰もが、芸術の新しい地平が開かれると」


しかし、予期せぬ化学反応が起きた。展示室に轟音が響き、飛び散った樹脂の破片が観客を襲う。幸いにも死者は出なかったものの、数名が重傷を負った。


「俺は...ただ美しいものを作りたかっただけなのに」

事故の後、火山はそう呟き続けたという。

「爆発の瞬間には、この世のすべての可能性が詰まっている。その美しさを、人々と分かち合いたかっただけなのに」


火山は全ての責任を取り、展示会は中止された。彼は芸術界から姿を消し、誰とも連絡を取らなくなった。しかし、その後も密かに制作は続けていた。より小規模に、より慎重に、しかし決して爆発への探究を諦めることはなかった。


「地下美術館に来た時、彼は憔悴しきった様子でした」

マヴリスは遠い目をして続けた。

「最初は『もう彫刻は作れない』と言っていました。でも、ここで新しい仲間と出会い、少しずつ制作を再開していった。ただし、もう大きな爆発は使いません」


火山は黙々と金属を削り続けている。その手の中で、鉄の塊は徐々に生命を帯びていく。破壊の痛みを知る者だからこそ見出せる、新たな創造の形があった。


「私たちは皆、何かを失って、ここに辿り着いた」

マヴリスはそう締めくくると、次の案内へと歩き出した。


残された火山の手元で、新たな彫刻が静かな輝きを放っていた。それは爆発の激しさを内包しながらも、どこか深い安らぎを湛えている作品だった。


地下美術館の生活は、驚くほど規則正しく営まれていた。地下水が流れる音が、まるで遠い海の鼓動のように響いている。空気は常に湿度が高く、壁には細かな水滴が光を帯びて輝いている。温度は年間を通して十八度前後。


壁に並ぶ絵画の数々は、それぞれが物語を持っていた。近代画から古典まで、時代も様式も異なる作品が、この地下空間で奇妙な調和を見せている。油彩の香りと地下水の匂いが混ざり合う空気の中で、作品たちは静かに眠りについているようだった。


共同の作業場では、朝から夜まで誰かが制作を続けていた。粘土を捏ねる音、キャンバスを叩く筆の音、木材を削る音。それらが重なり合って、特有のメロディーを奏でている。時には誰かがピアノを弾き始め、その音色に合わせて創作が始まることもあった。


食事の準備は、当番制で行われていた。水耕栽培の野菜を収穫し、限られた食材で工夫を凝らした料理を作る。その過程さえも、ある種の創造活動のように見えた。調理場からは、時折誰かの笑い声が漏れ聞こえてくる。


古い地下鉄の車両を改造した居住区は、まるで迷路のような構造をしていた。壁には住人たちが描いた壁画が連なり、狭い通路にも絵画や彫刻が所狭しと並んでいる。


教室の隣では、誰かがピアノを弾いている。即興の演奏に合わせて、子供たちが歌を口ずさむ。その光景は、この地下空間が単なる避難所ではなく、確かな生活の場として機能していることを物語っていた。


給水設備の保守を担当する古参の配管工は、かつて大手ゼネコンで働いていたという。彼は複雑な配管システムを見つめながら、時折思い出し話に花を咲かせる。

「この施設の設計には、明らかに軍事的な考えが入っています。非常時の避難経路が巧妙に組み込まれているんです」


夕暮れ時になると、共同の食堂に人々が集まってくる。そこでは世代も、元の職業も関係なく、芸術について熱心な議論が交わされる。時には激しい意見の対立も起きるが、それもまたこの空間の豊かさを示していた。」


「私たちは、お互いの技を交換して生きているのよ」


案内役を買って出た年配の女性は、かつて看護師だったという。今は地下共同体の医療を担当している。その傍ら、誰かが描いた絵を眺めることが、彼女の密かな楽しみだった。


昼食時、共同の食事スペースに集まってきた人々の会話に、カナは耳を傾けていた。物々交換の話題が多い。野菜との交換に誰かが編んだセーター、修理の代価として描かれた絵、医療の見返りに作られた彫刻。芸術作品もまた、等価な価値を持つ品として扱われていた。


「この場所で暮らすようになって、私は初めて気付いたの」


昼食を共にしていた篠田が、静かに語り始めた。


「芸術は特別なものじゃない。呼吸をするように自然に、私たちの日常に溶け込んでいるものなのよ」


午後になり、マヴリスは古い資料室へとカナを案内した。そこには戦前からの美術品カタログや、修復記録が無造作に積まれている。その中から、彼女は一冊の古びた写真集を取り出した。


「これは、東都美術館が最後に開催した企画展の記録です」


ページをめくると、懐かしい風景写真が現れる。古い町並み、路地で遊ぶ子供たち、夕暮れの市場。管理社会が始まる前の、人々の表情がありありと写し出されていた。


「記録を残すことも、私たちの使命なの」


マヴリスの声には、静かな決意が込められていた。


「この地下で、私たちは単に隠れているわけじゃない。人間らしさの証を、必死に守り続けているの」


夕方になり、篠田の作品の前で足を止めたカナは、その絵に描かれた「春の記憶」に見入っていた。地上の光を浴びる桜並木。その鮮やかな色彩の中に、確かな生命の輝きを感じ取ることができる。


「明日から、私が絵を教えましょう」


振り返ると、篠田が立っていた。その眼差しには、芸術家としての誇りと、教え導く者としての優しさが混ざり合っていた。


「もちろん、あなたが望むのならばですけど」


カナは静かに頷いた。ここで新しい何かが始まろうとしている。そんな、予感がした。


夜になり、地下美術館の喧騒が落ち着いた頃、マヴリスは自室にカナを招き入れた。そこは美術館の一室を改造した質素な空間だったが、壁には厳選された作品が飾られていた。


「あなたのお父様とは、長い付き合いだったのよ」


マヴリスは古びた写真を取り出した。そこには若かりし日の健一の姿があった。デルフィ研究所の白衣姿で、まだあどけなさの残る笑顔を向けている。


「健一さんは、科学者でありながら、芸術への深い理解を持っていました。『科学と芸術は、真実を追求する双子の星』――それが彼の信念でした」


マヴリスは遠い目をして続けた。


「アルゴスの開発が始まった頃、彼は私にこう言ったの。『完璧な管理社会など、本当は存在し得ない。人間の心には必ず揺らぎがある。その揺らぎこそが、私たちの本質なのだ』と」


カナは息を呑んだ。それは父の残した研究ノートにも記されていた言葉だった。


「でも、上層部は彼の警告を無視しました。むしろ、その『揺らぎ』を排除しようとした。そこで健一さんは、密かに計画を立て始めたのです」


写真の中の父は、何かを見つめるように目を細めている。その視線の先には、まだ見ぬ未来があったのかもしれない。


「そして、あなたのお母様――エレナとの出会いが、彼の決意を固めたのでしょう」


マヴリスは懐かしむように微笑んだ。


「芸術を愛する軍人という、一見矛盾した存在。でも、その矛盾にこそ、人間らしい美しさがあったのです」


マヴリスは立ち上がり、棚から一冊のスケッチブックを取り出した。


「これは、エレナが残していったものです」


開かれたページには、幼いカナの素描が並んでいた。練習の合間に眠る少女の姿。本を読む横顔。銃を手入れする真剣な表情。それらの絵には、母の優しい眼差しが込められていた。


「エレナは言っていました。『完璧な兵士を目指すことと、人間性を失わないこと。その両立こそが、私の使命』とね」


その言葉に、カナは胸が締め付けられる思いがした。母が自分に課した訓練の意味が、今になって理解できる気がした。


「健一さんとエレナは、互いの中に己の欠けている部分を見出したのでしょう。科学者と軍人。理性と感性。相反するものの調和を、二人は体現していました」


マヴリスの声は静かに続く。


「そして今、あなたの中にもその調和が受け継がれている。それは偶然ではありません」


地下水の滴る音だけが響く静寂の中で、カナは父と母の残した言葉の意味を、静かに反芻していた。

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