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第3話「影の美術館」

アルゴスによる社会管理が始まってから一ヶ月が経過した頃、街の様子は大きく変わり始めていた。最初は任意とされていた感情制御チップの埋め込みは、徐々に強制的な性格を帯びていく。


夕暮れ時、古びたアパートの一室で私は父の写真を見つめていた。テレビニュースで流れる彼の姿は、私の記憶の中の父とはどこか違って見える。温かな眼差しで私を見守っていた研究者の父は、今や「アルゴスの創造者」として崇拝の対象となっていた。


『経済効率は前月比で30%上昇。感情による判断ミスが激減し、社会の安定性が飛躍的に向上しています』


無機質なアナウンサーの声に、私は息苦しさを覚える。デルフィ研究所での最後の日々、父は何を見つめていたのだろう。


母から託された絵筆を握りしめると、デルフィでの記憶が鮮やかに蘇ってくる。基地での訓練の合間、母は時折、遠い目をして父のことを語っていた。表面上は厳しい司令官だった母が、父の話題になると見せる柔らかな表情。そこには、私には理解できない深い想いが隠されていたように思う。


学校では「効率化教育」が始まっていた。感情を持たない教師たちは、機械的な正確さで知識を伝達する。芸術や音楽の授業は「非効率」として廃止され、代わりに「社会適応技術」という新しい科目が導入された。


「月島さん、あなたもそろそろ決断の時期ですよ」


担任の青木先生は、事務的な口調でそう告げた。机の上には手術承諾書が置かれている。


「改造手術は、人類の次なる進化への扉です。あなたのような優秀な生徒こそ、率先して受けるべきでしょう」


教室の窓から見える夕陽が、デルフィの空を思い出させる。母との最後の別れの日、基地の窓から見た夕陽もこんな色をしていただろうか。あの時、母が震える手で私を抱きしめた意味を、まだ理解できていない。


夜、アパートに戻ると、玄関に白い封筒が置かれていた。


『手術予定日通知』


開封すると、来週の日時が指定されていた。これが最後の「選択」の機会なのだろう。父の遺したシステムによって、私の感情もまた消し去られようとしている。


部屋に戻り、窓から夜空を見上げる。デルフィの夜は、いつも星が美しかった。母との思い出も、父への疑問も、この手術によってすべて消えてしまうのかもしれない。


手の中の絵筆が、かすかに震えている。それは今や、人間らしさの最後の証であり、両親との唯一の繋がりのように感じられた。母が最期に託した想い、父が本当に目指していたもの——それらの真実に、私はまだ触れることができていない。


手術予定日まで、あと五日。私の意識は、次第に混濁していく。記憶の中で、父と母の姿が重なっては消えていく。やがて私からも、この想いは失われてしまうのだろうか。答えの見えないまま、時計の針だけが容赦なく進んでいった。


手術当日の朝は、不思議なほど穏やかな空気に包まれていた。病院の待合室で、私は静かに周囲を観察していた。


感情制御チップの埋め込み手術を待つ人々の多くは、疲れ切った表情を浮かべている。家族を手術で失った後、残された者たちは深い喪失感から立ち直れないのだという。それは改造手術という「選択」に追い込まれる、最も残酷な形だった。


「もう話が通じない。あの人は、私の夫じゃない」

「息子の目が、死んでる」

「これ以上、耐えられない」


囁かれる言葉の端々に、人間性を失った家族との生活に対する深い絶望が滲んでいた。


「月島カナさん」


呼ばれた名前に、私は小さく息を吸い込んだ。これが最後の朝になるのだと思うと、不思議な静けさが心を満たす。前日までに、必要な準備はすべて整えていた。


「手術の前に、所持品をすべてお預かりします」


看護師は事務的な声で告げた。その瞳には、かつて存在したはずの慈しみの色が見当たらない。私は黙って荷物を差し出した。その中には、もう大切なものは入っていない。


手術室は予想以上に明るく、無機質だった。天井からは大きな無影灯が私を見下ろし、壁には父が開発したというアルゴスのロゴが掲げられている。


「麻酔を始めます」


医師の声が響く。点滴から薬液が流れ始める音が聞こえた。意識が遠のいていく中で、私は最後に母の顔を思い出していた。


デルフィの基地で、母が私を抱きしめた時。

限られた時間の中で言葉を交わすことすら出来なかったけど、それでも確かにその温もりを感じた。


最後に聞こえたのは、機械的な声だった。


「手術を開始します。推定所要時間、2時間17分」


私の中の時間が、静かに止まっていった。


月島カナの一日は、正確に定められた時間割に従って進行する。起床から就寝まで、すべての行動が最適化されていた。


午前7時、目覚めと同時に健康状態をスキャン。体温36.7度、血圧112-74、脈拍62。すべて正常値内。制服の着用から髪型の整え方まで、効率重視の動作で完了する。


通学路は毎日同じ。他の生徒たちと同様、無駄な会話も感情の起伏もない。教室では、カナの学習効率の高さが数値として記録される。知能指数147。運動能力S級。感情制御チップ埋め込みから三ヶ月が経過し、適応度は99.8%を記録している。


放課後の行動にも明確な目的が必要とされた。図書館での学習時間は85分。運動能力維持のための基礎訓練は45分。全ての行動には、論理的な根拠が求められる。


制服の裾を正す時、指先が何かを感じ取った。布地の裏に隠された細長い物体。取り出してみると、それは一本の絵筆だった。表面には微細な刻印が確認される——東都美術館、登録番号D-7749。


カナは美術館の前に立った。「非効率施設」として機能を停止された建物は、埃を被って佇んでいる。しかし、所蔵品の返却という明確な目的の下では、立ち入りは正当化される。


施錠は簡単に解除できた。美術館の内部は、暗闇に沈んでいた。埃を被った展示ケースの中で、かつての芸術品が眠っている。


「カナ...?」


声が響く。振り返った視界に、高齢の女性の姿が映る。顔貌認証システムが起動し、データベースを検索。しかし、該当する情報は見つからない。


「まさか、手術を...」


女性の声には波形の乱れが含まれていた。感情の存在を示す指標である。アルゴスのプロトコルでは、そのような非効率的要素は排除の対象となる。


「私はマリア・マヴリス」


女性は一歩、また一歩と近づいてきた。カナの身体に警戒信号が走る。しかし制御チップは、この状況を危険とは判定しなかった。


「エレナの娘が、こんな姿になるなんて」


マヴリスと名乗る女性が、突如カナを抱きしめる。通常であれば即座に回避行動を取るべき接触だが、カナの身体は動かなかった。


「あの日、エレナは私に言ったの。もし何かあったら、カナを頼むと」


女性の声が震えている。そして、その腕の中でカナの制御チップが異常な数値を示し始めた。


「あなたのお母さんは、私の古い友人よ。デルフィの美術館で、いつも一緒に絵画を見ていた」


マヴリスはカナの手から絵筆を取り上げた。その仕草には、明確な意図が含まれていた。


「この絵筆を持っているのは危険すぎる。芸術は今や、禁止されているのだから」


暗がりの中、マヴリスはカナの首筋に手をかけた。その指先には、医療用の小型デバイスが光っている。


「少し痛いかもしれないけれど、我慢して」


瞬間的な痛みと共に、カナの視界がちらつく。制御チップの一部機能が停止し、位置情報の送信が途絶えた。そして、徐々に何かが蘇ってくる。


それは、感情と呼ばれるものだった。


「ここは影の美術館。アルゴスに追われる者たちの、最後の避難所よ」


マヴリスの声が、今度は確かな温もりとなってカナの心に届いた。

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