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第2話「七日間の狂気」

後に「七日間の狂気」と呼ばれることになる悲劇は、新ユーラシア連合の軍事研究施設から始まった。


量子技術とバイオテクノロジーの融合により開発された生物兵器ヒュブリスは、人間の感情制御中枢に作用する特殊な兵器だった。その効果は残虐なまでに巧妙で、感染者の猜疑心と攻撃性を極限まで高める。特に知性が高く、強い意志を持つ者ほど感染しやすい性質を持っていた。つまり、世界の指導者層を標的とした戦略級生物兵器だったのだ。


最初の感染は、世界経済フォーラム開催の前日に起きた。研究施設での日常的な維持管理の過程で、保管容器の劣化による微量の漏出が確認された。しかし研究員たちは、その僅かな漏出を軽視してしまう。彼らは、ヒュブリスの感染力があまりにも強く、微量でも致命的な影響を及ぼすことを理解していなかったのだ。


視察のために施設を訪れていた連合大統領は、その最初の犠牲者となった。通常は温厚で知られる彼が、翌日の世界経済フォーラムで突如として激昂し始める。西側諸国への威嚇的な発言は、明らかに普段の彼とは異なっていた。しかし、その場にいた誰もが、それを単なる外交的な駆け引きだと解釈した。


二日目、感染は国際会議に出席していた各国首脳へと広がっていた。制御不能となったヒュブリスは、空気感染という形で、まず知性指数の高い者から影響を及ぼしていく。優れた判断力を持つはずの指導者たちが、逆にその知性ゆえに最も早く理性を失っていった。


三日目には感染は世界中のエリート層に拡大していた。軍事施設では高級将校たちが独断専行を始め、研究機関では所長クラスの科学者たちが狂気じみた実験を主張し始めた。指揮系統は崩壊し、世界中で緊張が高まる。


四日目、最初の核ミサイルが発射された。新ユーラシア連合の潜水艦から発射されたその核弾頭は、すでに正常な判断力を失っていた連合軍上層部の命令によるものだった。目標は人口密集地ではなく軍事施設。それは皮肉にも「理性的な」判断のように見えた。しかし、それは連鎖の始まりに過ぎなかった。


五日目には世界の主要都市の多くが機能を停止していた。通信網は寸断され、物流は完全に麻痺。軍事施設である私たちの基地にも、怯えた避難民が押し寄せてきた。その中には、すでにヒュブリスに感染したエリートたちの姿もあった。彼らは皆、自分たちの判断こそが正しいと主張し、互いを疑い合っていた。


母は事態を把握していた。だからこそ、彼女の表情は日に日に暗さを増していった。人類が生み出してしまった制御不能な兵器が、皮肉にも創造者たち自身を破滅へと導いていることを、彼女は理解していたのだ。


デルフィ基地の地下シェルターは、戦火を逃れてきた避難民で溢れかえっていた。六日目の未明、アレクシス少佐が私を裏口から執務室へと導いた。普段は禁止されている経路だったが、彼は無言で進む。


母の執務室は、いつもと様子が違った。机の上の書類は跡形もなく、キャビネットは空っぽで、壁に掛かっていた表彰状も外されている。


「五分です」


アレクシスは時計を確認しながら、短く告げた。


「物資輸送の偽装で、ヘリを一機用意しました。時間厳守でお願いします」


エレナは窓の外を見つめたまま、静かに私を待っていた。机の上には一通の封筒が置かれている。


「お前には、生き延びてもらう」


母の声は、普段の張りを失っていた。


「でも...」


制止するように、エレナは手を上げた。基地の外では、時折銃声が響いている。


「これ以上の説明は危険だ」


そう言って母が差し出したのは、一本の絵筆だった。使い古されたそれは、どこか見覚えがある。


次の瞬間、基地全体に警報が鳴り響いた。


「敵襲です!」「正門が突破された!」


廊下を走る足音と怒号。エレナは立ち上がり、制服の襟を正した。


「時間です」


アレクシスの声が、緊迫を帯びる。


母との別れの言葉は、交わせなかった。エレナはただ、強く私を抱きしめ、背中を押した。その手が震えていたことを、私は決して忘れない。


地下通路をアレクシスと走る。頭上では激しい銃撃戦が始まっていた。彼は無線を通じて状況を確認しながら、時折立ち止まっては周囲を確認する。


「物資輸送用格納庫まであと200メートルです」


アレクシスは淡々と状況を説明するが、その声には焦りが混じっていた。格納庫に着くと、すでにヘリのエンジンは始動していた。パイロットは訓練で何度か見かけた若い兵士。彼もまた、黙って私を迎え入れた。


ヘリが上昇を始める中、基地が炎に包まれていくのが見えた。装甲車両が炎上し、銃撃戦の閃光が暗闇を切り裂く。私は手の中の絵筆を強く握りしめた。それが何を意味するのか、まだ理解できていない。


暁の空に昇るヘリの音は、戦場の喧騒にかき消されていった。


成田空港に降り立った時、日本はすでに戒厳令下にあった。灰色の空の下、自衛隊の装甲車両が滑走路を巡回している。検疫官たちは完全防護服に身を包み、到着した人々を厳重に検査していた。


「ヒュブリス感染の疑いのある者は、即座に隔離します」


スピーカーから流れる日本語が、ここが故郷を離れた異国であることを痛感させる。私の偽造された書類は、アレクシス少佐の人脈を通じて用意されたものだった。両親を地中海での事故で失った日本人留学生。その設定に、どこか痛ましい真実味があった。


最初の一週間は、政府指定の隔離施設で過ごした。四角い小窓から見える東京の街並みは、私の知る世界とはあまりに違っていた。放送事故で途切れがちなテレビからは、断片的なニュースが流れてくる。新ユーラシア連合の崩壊、各国首脳の死亡確認、避難民の大量発生——。


そして、ある朝のニュースが私の心を凍らせた。


『緊急報道です。世界各国で新型管理システム「アルゴス」の導入が検討されています。このシステムは、かつてデルフィ研究所で開発された量子制御技術を基盤としており——』


画面に映し出されたロゴを見た瞬間、私は息を呑んだ。それは父の研究室で見た設計図と酷似していた。Project ARGOS。父、月島健一が最後に取り組んでいたプロジェクトである。


隔離施設を出た後、叔父を名乗る男性が私を迎えに来た。彼もまた、アレクシスによって手配された接触者の一人だった。東京郊外の古びたアパートに案内された私は、そこで徐々に日本の現実に触れることになる。


街は確実に変わりつつあった。スーパーマーケットの棚は半分が空っぽで、通りには自警団が巡回している。人々は互いを疑う目で見つめ、知性の高い者ほどヒュブリスに感染しやすいという噂が、社会の分断を深めていた。


そんな中、アルゴスの影響力は日に日に増していった。各国政府が次々と導入を表明し、その技術的完璧さを称賛する声が溢れ始める. しかし、私には違和感があった。父が本当に目指していたものは、この管理社会だったのだろうか。


夜になると、テレビでアルゴスの解説番組が放送された。「感情による混乱から人類を解放する画期的なシステム」。父の写真が紹介される度に、私の中で何かが軋む。デルフィで母が最後に託した絵筆の意味が、少しずつ見えてきたような気がした。


叔父を名乗る男性は、夕食時にぽつりと言った。


「月島博士の遺志が、ようやく実を結ぶということですかね」


私は黙って箸を動かし続けた。父の「遺志」——その言葉に、どこか大きな違和感があった。窓の外では、またしても緊急車両のサイレンが鳴り響いている。


その夜、久しぶりに満天の星空が見えた。しかし、それは穏やかな夜の訪れを告げるものではなかった。通信衛星が次々と機能を停止し、世界は新たな闇の中へと沈もうとしていた。


人類は選択を迫られ、そして父の開発したシステムが、その選択肢として世界を覆い始めていた。しかし、これは本当に父の意志なのだろうか——その疑問が、私の心を深く締め付けていた。

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