デルフィの谷間を白く染める夜明け前の霧の中、特殊部隊基地の射撃訓練場には早くも人影があった。カナミ・ツキシマ——通称カナと呼ばれる少女は、まだ暗い空を見上げながら、今日の気象条件を確認していた。
湿度は平年より高く、北からの風は微弱ながら一定の方向を保っている。これなら長距離射撃の練習には適している。カナは慎重にHK417スナイパーライフルの状態を確認していく。母から教わった銃器整備の手順が、彼女の指先に染み付いていた。
「おはようございます、カナさん」
スポッターを務めるミハイル曹長が、測距機材を手に現れる。赤みを帯びた顔の中年の軍人は、デルフィ特殊部隊でも指折りの射撃指導官だった。通常、十六歳の少女が軍事訓練に参加することなど考えられないが、カナは特別な存在だった。ギリシャ特殊部隊初の女性司令官として名を馳せる月島エレナの娘。その肩書きは、祝福であると同時に重圧でもあった。
「本日は六百メートルでの集中射撃訓練です。風速計の値に注意して」
ミハイルの声が朝靄に吸い込まれていく。カナはチークピースに頬を寄せ、スコープを覗き込んだ。望遠レンズの中で、遠方の標的がゆっくりと揺れている。
「風速2.3メートル、北北西から」
カナは黙って頷く。銃身を僅かに左に振り、風による弾道のずれを計算に入れる。母から教わった弾道計算の公式が、頭の中で自然と展開されていく。
大気の状態、風向き、地球の自転による影響——それらすべての要素を加味した瞬間、引き金に添えられた人差し指がゆっくりと力を込めた。
Bang.
最初の一発が、朝靄を切り裂く。その音が谷間に反響する前に、カナは次弾、そして次の弾を送り込んでいく。五発の銃声は、まるで規則正しい心拍のように空気を震わせ、最後の一発が標的を捉えるまでにわずか3.75秒。
「見事です」
ミハイルは双眼鏡を下ろしながら、感嘆の声を漏らした。標的中心にはわずか3センチの集弾群が刻まれている。それは訓練生の記録というより、むしろ熟練の狙撃手の腕前だった。
「やはり、エレナ司令官の御息女は違いますね」
その言葉に、カナは形式的な微笑みを返すだけだった。幼い頃から積み重ねてきた訓練。それは確かな力となって彼女の中に宿っている。しかし同時に、その力の使い道に確信が持てないでいた。
朝食を挟んで、午前の訓練は近接戦闘へと移る。レイカ中尉との対峙は、いつも緊張感に満ちていた。元イスラエル特殊部隊の女性指導官の動きには、常に予測不能な要素が含まれていた。
「始めなさい」
号令と共に、二人の動きが交錯する。カナの動きには無駄がない。それは幼い頃から叩き込まれた基本動作の数々が、完璧に体に染み付いている証だった。しかし今日のレイカは、その完璧さにどこか不満げだった。
「止めなさい」
突然の声に、カナは動きを止める。レイカの鋭い眼差しが、彼女を射抜くように見つめていた。
「あなたの動きには迷いがある。何を恐れている?」
その問いに、カナは答えられなかった。技術は確かに完璧に近い。しかし、その奥にある何か——自分でも説明できない空虚さを、レイカは見抜いていたのかもしれない。
昼食時、基地内の食堂は異様な静けさに包まれていた。普段は将校たちの談笑で賑わうテーブルも、今日は深刻な表情ばかりが目立つ。エレナの姿はなく、参謀たちとの緊急会議が続いているという。
「最近、司令官の様子がおかしいと思いませんか?」
若い兵士の囁き声が聞こえてくる。確かに母は、ここ数週間、明らかに様子が変わっていた。深夜まで研究所に籠もり、帰宅しても机に向かったまま、わずかな睡眠を取るだけ。その姿は、研究に没頭していた父の最後の日々と、不気味なまでに重なって見えた。
カナは食堂の窓から、遠くデルフィの町並みを見つめた。古代からの遺跡と現代建築が混在する風景の中に、一際目を引く白亜の建物があった。デルフィ市立美術館——カナの密かな逃避行の目的地である。訓練の合間を縫って、カナはそこで別の世界を垣間見ていた。
デルフィ市立美術館に足を踏み入れた時、カナは一瞬たじろいだ。訓練で鍛え上げた体は、この静謐な空間では場違いに感じられたからだ。「神々の眼差し」と題された特別展の会場には、古代ギリシャ美術の数々が並んでいる。
展示室をゆっくりと巡る中、一枚の壁画の前でカナの足が止まる。紀元前5世紀のアンフォラに描かれた「アルゴス・パノプテスの目覚め」。全身に散りばめられた目を持つ巨人の姿に、カナは現代世界の影を見た。
新ユーラシア連合が開発した量子監視システム「スヴャトヴィト」。かつてのロシアから中央アジアにまたがる広大な領域で、すべての電子通信を監視するそのシステムは、まさに現代のアルゴスと呼ぶべき存在だった。父が最後に関わっていた研究も、このシステムへの対抗技術だったのではないか。
「興味深い作品ですね」
静かな声に振り返ると、端正な顔立ちの中年男性が立っていた。
彼は、深い知性を湛えた眼差しでカナを見つめている。
「この美術館の、館長です」
「ご存知かもしれませんが、アルゴス・パノプテスは、ギリシャ神話に登場する“すべてを見通す者”です」
「百の目を持ち、その半分が眠っていても残りは目を開け続け、決して見張りを怠ることがなかった」
「神々でさえ彼の監視から逃れることはできなかったと言われています」
館長の言葉に、カナは母から聞いた警告を思い出す。量子コンピュータとAIの融合がもたらした第三次量子革命。その技術は人類に計り知れない恩恵をもたらしたが、同時に新たな脅威も生み出していた。
特に警戒されているのは、新ユーラシア連合の極秘プロジェクト『ヒュブリス』。人間の感情そのものを制御しようという、前代未聞の生物兵器開発計画。その名は古代ギリシャ悲劇における「傲慢」を意味する言葉から取られていた。
情報部の報告によれば、連合軍は既に人体実験の段階に入っているという。実験対象となった兵士たちの間で、異常な攻撃性や猜疑心の増大が確認されている。さらに不気味なことに、知性が高く意志の強い者ほど、その影響を受けやすい傾向があるらしい。
館長の言葉が、展示室の静寂を破る。
「目というのは、ただ見るためのものではありません。監視とは権力の証であり、誰かが常に見ているという事実が、人々の心を縛る鎖となるのです」
カナは再び壁画を見上げる。アルゴスの百の目は、今も変わらず彼女を見つめ返していた。その視線の先に、カナは人類の新たな危機を見た。完全な監視と制御を目指す者たちの野望が、世界を取り返しのつかない方向へと押し流そうとしている。
夕暮れの基地に戻ると、朝とは異なる緊張が空気を震わせていた。警備の配置が通常の二倍に増え、装甲車両が正門付近に展開している。銃を構えた兵士たちの姿勢からは、只ならぬ事態が起きていることが読み取れた。
カナは基地の裏門から忍び込むように敷地に入った。彼女の特権は、ある程度の行動の自由を与えてくれる。しかし今日は、その特権さえも通用しないような異様な雰囲気が漂っていた。
「カナさん」
声をかけてきたのは、母の副官を務めるアレクシス少佐だった。いつもは穏やかな表情の彼の顔が、今は深い影を宿している。制服の襟元は乱れ、額には疲労の色が滲んでいた。
「母は...エレナ司令官は?」
「まだ会議です」
その言葉には、普段の敬意とは違う、切迫した響きがあった。
「先に帰っていてください。今日は...複雑な状況なのです」
アレクシスは言葉を選びながら続けた。その様子は、何か重大な事実を隠しているようにも見えた。カナは黙って頷いたが、足は自然と会議が行われている建物の方へ向かっていた。
二階には、かつて父が使っていた研究室がある。デルフィ研究所に移ってから使われていないその部屋は、埃を被った機材と古い書類で満ちていた。しかし、この場所からは会議室の様子を窺い知ることができる。カナは父から教わった古い暗号解読の技術を思い出しながら、通信機器を操作した。
断片的な会話が、ノイズ混じりに聞こえてきた。
「新ユーラシア連合の動きは...」
「バイオテクノロジーの軍事転用...」
「『ヒュブリス』の実在確認...」
「感情制御システムの実験段階...」
それぞれの言葉が、重い意味を持って響いてくる。特に『ヒュブリス』という言葉は、美術館で見た展示の意味を一変させるものだった。古代ギリシャ悲劇における人間の傲慢さを表す言葉が、今や人類の新たな脅威として具現化しようとしている。
会議室では、母の姿が窓際に立っていた。普段の凛とした佇まいは変わらないものの、その肩には見えない重圧が乗っているように見えた。
机の上に散らばる書類の中から、一枚の古い写真が目に入る。デルフィ研究所での集合写真。父と母が並び、幼いカナを抱いている。その背後には「Project ARGOS」の文字。そして写真の隅には、父の走り書き。
「真実は時に、最も見えやすい場所に隠されている」
カナは写真を手に取った。父の文字には、何か切迫したものが感じられた。まるで、未来の誰かに向けてのメッセージのように。
夜が深まり、基地の明かりが一つ、また一つと消えていく。しかし、司令部の会議室の灯りは消えることがなかった。カナは月明かりの中、父の残した言葉の意味を考え続けた。
美術館で見た古代の目は、現代の監視の目へと形を変えて世界を覆っている。そして今、人類は新たな段階へと踏み出そうとしていた。感情さえも制御しようとする『ヒュブリス』の影が、世界を覆い始めている。
デルフィの夜空には、いつもより多くの星が瞬いていた。その光は、人知れず蠢く暗い予兆を、静かに見守っているようだった。