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1章…第12話

「…なん、ですか?」


「いえ…ありがとうございます!」


手を取られたのがそんなに意外だったのか、裕也専務は少し背中をそらし、私から距離を取る仕草をしてみせる。


でも、そんなことどうでもいい…!



「お母さま…!私もおうどん煮るの、手伝います!」


裕也専務の手をパッと離し、私はスキップせんばかりの勢いで、キッチンの会長夫人のところへ行った。



「無邪気で可愛いなぁ…」


後ろで会長の嬉しそうな笑い声が聞こえて…少しやらかしたかもしれないと思う。


そうだ…私は嫌われないといけなかった。




伝統うどんを前に冷静ではいられない私は、その後もやらかしてしまった。


会長夫人とキャッキャ言いながら、うどんの具を準備し、4人分の麺を器に盛ってつゆをかける。


「舞楽さんはお料理上手なのね?」


「いえ…生きるのに必要だっただけで…」


それは本当だった。

両親を突然亡くして多額の借金を背負い、慎ましく生きるしか選択肢がなくなった私に、節約料理は必須だったから。



麺を入れ、つゆを入れた上に、きゅうりの輪切りと固いままのお麩、梅干しとナルト、という伝統うどんお決まりの具材を添えて出来上がり。


テーブルへは、お手伝いさんが運んでくれた。…つゆをこぼして高級絨毯にシミを作る失敗からまぬがれ、ホッと胸をなで下ろす。


おいしくて懐かしい味に、私はお代わりまでしてしまい…嫌われるどころか会長夫妻の笑顔を誘ってしまった。





「舞楽さん、1人でもぜひ遊びに来てね。あなたともっとお話したいわ」


「ありがとうございます。今度は…1人で、来ます!」


島うどんをたらふく食べ、帰ることになった私たちを、会長夫妻が名残惜しそうに見送ってくれた。


「土産のお酒に合うつまみを用意しておくから、また近いうちにな?」


「はい!ありがとうございます」





車に乗り込むと、早速裕也専務に言われた。



「…結局、すごく好かれてしまいましたね」


「すいません…」


「まぁ…遊びに来いとは言っても、私経由で誘われるわけですから、うまく断っておきます」


「はい…よろしく、お願いします」



深く、後悔した。


はじめから、これは偽装婚約だってわかっていたのに、あんなに会長夫妻を喜ばせてしまった…


そしてもうひとつ、気になることがあった。


「あの…私の身の上については何も聞かれませんでしたが…」


大歓迎も意外だったが、2人とも私のことをあまり聞かなかった…

大企業の跡取り息子の婚約者、どこの馬の骨か、それは詳しく聞かれると思っていたのに…



「それなら心配ありません。聞かれたら私がうまく答えますから。それより…」


赤信号で車が止まり、裕也専務がこちらを向いて続ける。



「…投稿するんですか?」


「え?」


「うどん。しきりに写真を撮ってましたよね」


「あ…あれは、伝統うどんは本当に貴重なので、つい撮ってしまっただけです」


さすがに裕也専務のご実家に行って食べたものを、SNSに投稿するつもりはない。

場所が何処かなんてわからないだろうけど、どこでどうやって判明するかわからないから。


「そうですか。でも貴重なうどんなら、投稿するのもいいと思いますけどね」


「え?いいんですか?」


「私は投稿しますよ」


「あぁ…」


じゃあ、私は投稿するな、ということか。


「で、どの写真を投稿するんですか?」


「え?…でも、同じような写真ばかりだし、誰かに気づかれたらマズくないですか?」


「別に。会社関係とはまったく繋がってませんから、問題ありません」


到着したアパートの前、裕也専務の車がスッと止まった。

降りる前に、撮った写真の何枚かを裕也専務に見せた。


「私はこの角度からの写真を投稿しますね」


わかりました…とうなずく専務に、思いついて聞いてみた。


「紹介が終わったら、あとはほとんどやることはないって言ってましたけど…」


「そうですね…もしかしたら内々で集まるパーティーへの同行など、お願いするかもしれませんが…」


裕也専務はチラリと私を見て続ける。


「週末、たまに会いましょう。それなりの空気感を作っておかないと、バレたら厄介ですからね」


「…はい」


素直に返事をして車を降り、走り去る車を見送りながら頭を下げた。


…が、次の瞬間、たった今別れた裕也専務からメッセージが来た。



『車を見送って、頭を下げないこと。やってることが完全に部下です』


運転しながらメッセージを打ったのか?…器用だけど危ない。


『すみません…気をつけてお帰り下さい』


返信して、すぐに届くスタンプ。

えぇっ?スタンプ?


…裕也専務が使うスタンプっていったいどんなものなんだろう?


部屋に入ってから確認すると、怠そうなニワトリが大きくピースしてる動くスタンプ。


「わぁ…意外に可愛い…」



これでほとんどの任務が完了した…

私はフローリングとは名ばかりの板の床にゴロンと横になった。


少しだけ感じる寂しいような気持ち…


「でも週末はたまに会いましょうって言ってた…」


ひとりごとを言った瞬間、携帯が鳴り響いてハッとした。



「う…っ」


画面に映った名前を見て、妙にドキドキして、恐る恐る着信を繋げる。


「…も、もしもし?」


「…舞楽!今から行くから、絶対逃げないで待ってろよ?」


「えぇ…っ!ダ、ダメだよ。今は、というか、この先少なくとも半年はここへ来ちゃダメ」


「なんだそれ?」


バタン…という音がして、玄関を出てしまったのかと慌てる。


「私が行く!私が行くから…聖はそこで待っててよぅ!」



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