会長というのは、裕也専務のご両親のこと。
「あの…偽装、婚約者…ですよね?」
確認のために繰り返すと、専務は片方の口角だけをつり上げる、意地悪な笑顔を見せる。
「…どちらでもいいんですけどね?」
「…いえ、あの」
どこまで本気なのか…なんて考えてしまう。
はじめて会ったに近い私が、裕也専務の婚約者なんて…偽装がつかなければ卒倒してしまう。
「まぁ、どうぞ食べて下さい」
言われてテーブルの上を見て、その美味しそうな創作料理に改めて目を見張った。
いただきます…と言って、海老の鬼車カサゴ焼きのアーモンド揚げから箸をつける。
確かに少し歯ごたえのある料理だな…と思いながらも、あまりの美味しさに涙腺が緩む。
「…美味しいです…!」
「…大丈夫ですか?」
料理が美味しくて涙ぐむ人を見たのは初めてだったのか、裕也専務が不思議そうに眉をひそめた。
そんなことで泣く人がいるとは思わなかったのだろう。
でもいるんだ。ここに私という人が。
「お料理が美味しすぎて…この先も泣くかもしれませんが、専務のお話とは無関係ですので、どうぞ続けて下さい」
そう説明すれば、呆れたような顔になった裕也専務。
「会長に仕組まれつつある政略結婚を回避するには、将来を誓い合う人が必要なんです」
「そう…なんですか?」
…海老の鬼車カサゴ焼きのアーモンド揚げ、ものすごく美味しいけど、専務の分は残しておいた方がいいのか迷いながら返事をする。
「会長は、私に決まった恋人がいるなら、政略結婚は断っていいと言いました」
「あ、はい…」
…迷ったけれど、一品料理として頼んだものは、ひとくち程度残しておくことにする。
そしてコース料理の何から食べ始めようかと迷いながら、手前のひとくち料理から箸をつけた。
「そこで、君の出番です」
「…私…?」
ふんわりとした淡雪みたいなソースがかかった料理を口に運びながら、またその美味しさに悶絶するように首を傾げて目を閉じてしまう…
「片瀬さんを私の婚約者として会長に紹介し、政略結婚を回避して、結婚式までは少し時間をかけます。その間に私の政略結婚の相手も、誰か別の男と結婚するでしょう」
「…はい」
「そしたら君の任務は完了。残念ながらお別れしたということにして、片瀬さんは晴れて自由の身です」
…味わって食べていたら、話も終わったらしい。
「どうですか?引き受けてもらえますか?」
「えっと…」
あまりに美味しくて8割聞いていなかったとは言いにくい。
「お料理がとても美味しくて…ですね…」
「…すぐに結婚すると両親に紹介して、半年でスピード離婚に計画を変えますか」
「…えっ?」
驚く私に、専務はゆるりと意地悪く笑う。
お願いして同じ話をもう一度してもらい、やっと理解した。
「あの…それは、私の副業の罰、ということでしょうか?」
罰にしては変だし個人的なことに引っ張り出されてる感じ。
「今、罰にしては変だし個人的なことに巻き込まれている…と思ってますね?」
図星すぎて、ちょっと視線が泳ぐ。
専務は私が頼んだ久保海山を手に取ると、自分のグラスに注ぎ始めた。
「お忘れですか?…」
「…え?」
「あなたがあのいかがわしいクラブで副業をしていたという罪は、私しか知らないんですよ?」
「ちょ、ちょっと待ってください。あのクラブは、いかがわしくないです。…そんなこと言ったら、専務もいかがわしいお店に行ってることになっちゃいますよ…」
「…だまらっしゃい」
とにかく、私が専務の婚約者役を引き受けて会長ご夫妻に挨拶に行き、結婚式を楽しみにしているふりをすれば、副業の罪は帳消しになるということだ。
専務が飲んでしまったので、久保海山の残りはあと3/1ほど。
はじめの遠慮はどこへやら、残りをすべて自分のグラスに注いでから、専務に疑問をぶつけた。
「裕也専務、本物の恋人はいらっしゃらないんですか?」
「…それは、この話に関係あります?」
いや、おおいにあるだろう。
恋人がいて、偽装とはいえ婚約者になりすます女がいたら、とんだトラブルの幕開けだ。
「恋人がいようがいまいが…結婚しようが離婚しようが、そんなものは下らない…汚れた制度と約束でしかない」
なんだか…聞いてはいけないことを聞いたような気がする…。
それなのに私は、なんと言っていいかわからなくて、またつまらないことを口走ってみる。
「あの…秘書課の全員が、というか女子社員のほとんどが裕也専務のファンなんです。ですから偽装婚約者なら、私よりずっとうまく演じられる人は、山ほどいると思いますけど…?」
「…まだわかならないのですか?」
「…え」
「私は君の悪事を知るただ1人の人間なんです。それこそ私次第で、君の会社人生など、どうにでもできるってことですよ?」
「…脅し…?」
「そうです」
ニッコリ微笑む専務。
室内の明かりの加減で、彫りの深い顔に美しい陰影を作ってる。
「それに、私に惚れられては困るんです。時期を見て、キッパリ別れる運命なんですから」
笑顔なのに、どこか冷たさを秘めた声。返事に困っていると、裕也専務が意外なことを話し出した。
「君の副業を知ってから、少し調べさせてもらいました。2年前にご両親を亡くしていますね?」
調べた…と聞いて、なぜ幼なじみの名前を知っているのか、納得した。
「はい…両親とも一人っ子で、付き合いのある親戚もいませんでした。だから私は、天涯孤独というやつです」
「だったら話が早いですね。挨拶はうちの両親にだけ行けばいいと」
そこで、私は一応打ち明けておいたほうがいいと、正面から専務を見た。
「…実は私、亡くなった両親が残した借金がありまして。禁止されていた副業をしていたのも、それを返済するためだったんですが…」
「それならもう解決していますよね?昨日野菜柄のハンカチにくるんだアレで」
「…え?」
思い出した。
昨日、専務がテーブルに置いた札束5冊。
合計500万円。
「婚約者として私の両親挨拶に行き、政略結婚を無事回避することの…報酬です」