目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第5話

会長というのは、裕也専務のご両親のこと。


「あの…偽装、婚約者…ですよね?」


確認のために繰り返すと、専務は片方の口角だけをつり上げる、意地悪な笑顔を見せる。


「…どちらでもいいんですけどね?」


「…いえ、あの」


どこまで本気なのか…なんて考えてしまう。

はじめて会ったに近い私が、裕也専務の婚約者なんて…偽装がつかなければ卒倒してしまう。



「まぁ、どうぞ食べて下さい」


言われてテーブルの上を見て、その美味しそうな創作料理に改めて目を見張った。


いただきます…と言って、海老の鬼車カサゴ焼きのアーモンド揚げから箸をつける。


確かに少し歯ごたえのある料理だな…と思いながらも、あまりの美味しさに涙腺が緩む。



「…美味しいです…!」


「…大丈夫ですか?」


料理が美味しくて涙ぐむ人を見たのは初めてだったのか、裕也専務が不思議そうに眉をひそめた。

そんなことで泣く人がいるとは思わなかったのだろう。


でもいるんだ。ここに私という人が。



「お料理が美味しすぎて…この先も泣くかもしれませんが、専務のお話とは無関係ですので、どうぞ続けて下さい」


そう説明すれば、呆れたような顔になった裕也専務。



「会長に仕組まれつつある政略結婚を回避するには、将来を誓い合う人が必要なんです」


「そう…なんですか?」


…海老の鬼車カサゴ焼きのアーモンド揚げ、ものすごく美味しいけど、専務の分は残しておいた方がいいのか迷いながら返事をする。



「会長は、私に決まった恋人がいるなら、政略結婚は断っていいと言いました」


「あ、はい…」


…迷ったけれど、一品料理として頼んだものは、ひとくち程度残しておくことにする。



そしてコース料理の何から食べ始めようかと迷いながら、手前のひとくち料理から箸をつけた。



「そこで、君の出番です」


「…私…?」


ふんわりとした淡雪みたいなソースがかかった料理を口に運びながら、またその美味しさに悶絶するように首を傾げて目を閉じてしまう…



「片瀬さんを私の婚約者として会長に紹介し、政略結婚を回避して、結婚式までは少し時間をかけます。その間に私の政略結婚の相手も、誰か別の男と結婚するでしょう」


「…はい」


「そしたら君の任務は完了。残念ながらお別れしたということにして、片瀬さんは晴れて自由の身です」


…味わって食べていたら、話も終わったらしい。



「どうですか?引き受けてもらえますか?」


「えっと…」


あまりに美味しくて8割聞いていなかったとは言いにくい。



「お料理がとても美味しくて…ですね…」


「…すぐに結婚すると両親に紹介して、半年でスピード離婚に計画を変えますか」


「…えっ?」


驚く私に、専務はゆるりと意地悪く笑う。


お願いして同じ話をもう一度してもらい、やっと理解した。  




「あの…それは、私の副業の罰、ということでしょうか?」


罰にしては変だし個人的なことに引っ張り出されてる感じ。



「今、罰にしては変だし個人的なことに巻き込まれている…と思ってますね?」


図星すぎて、ちょっと視線が泳ぐ。

専務は私が頼んだ久保海山を手に取ると、自分のグラスに注ぎ始めた。



「お忘れですか?…」


「…え?」


「あなたがあのいかがわしいクラブで副業をしていたという罪は、私しか知らないんですよ?」


「ちょ、ちょっと待ってください。あのクラブは、いかがわしくないです。…そんなこと言ったら、専務もいかがわしいお店に行ってることになっちゃいますよ…」


「…だまらっしゃい」



とにかく、私が専務の婚約者役を引き受けて会長ご夫妻に挨拶に行き、結婚式を楽しみにしているふりをすれば、副業の罪は帳消しになるということだ。


専務が飲んでしまったので、久保海山の残りはあと3/1ほど。 

はじめの遠慮はどこへやら、残りをすべて自分のグラスに注いでから、専務に疑問をぶつけた。



「裕也専務、本物の恋人はいらっしゃらないんですか?」



「…それは、この話に関係あります?」



いや、おおいにあるだろう。

恋人がいて、偽装とはいえ婚約者になりすます女がいたら、とんだトラブルの幕開けだ。



「恋人がいようがいまいが…結婚しようが離婚しようが、そんなものは下らない…汚れた制度と約束でしかない」



なんだか…聞いてはいけないことを聞いたような気がする…。


それなのに私は、なんと言っていいかわからなくて、またつまらないことを口走ってみる。



「あの…秘書課の全員が、というか女子社員のほとんどが裕也専務のファンなんです。ですから偽装婚約者なら、私よりずっとうまく演じられる人は、山ほどいると思いますけど…?」


「…まだわかならないのですか?」


「…え」


「私は君の悪事を知るただ1人の人間なんです。それこそ私次第で、君の会社人生など、どうにでもできるってことですよ?」 


「…脅し…?」


「そうです」


ニッコリ微笑む専務。

室内の明かりの加減で、彫りの深い顔に美しい陰影を作ってる。


「それに、私に惚れられては困るんです。時期を見て、キッパリ別れる運命なんですから」


笑顔なのに、どこか冷たさを秘めた声。返事に困っていると、裕也専務が意外なことを話し出した。



「君の副業を知ってから、少し調べさせてもらいました。2年前にご両親を亡くしていますね?」


調べた…と聞いて、なぜ幼なじみの名前を知っているのか、納得した。


「はい…両親とも一人っ子で、付き合いのある親戚もいませんでした。だから私は、天涯孤独というやつです」


「だったら話が早いですね。挨拶はうちの両親にだけ行けばいいと」


そこで、私は一応打ち明けておいたほうがいいと、正面から専務を見た。


「…実は私、亡くなった両親が残した借金がありまして。禁止されていた副業をしていたのも、それを返済するためだったんですが…」


「それならもう解決していますよね?昨日野菜柄のハンカチにくるんだアレで」


「…え?」


思い出した。

昨日、専務がテーブルに置いた札束5冊。


合計500万円。


「婚約者として私の両親挨拶に行き、政略結婚を無事回避することの…報酬です」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?