たらふくお寿司を食べ、黒塗りの車でアパートまで送ってもらった翌朝、歯磨きをしながら昨夜のことを思い返した。
確か今日、計画の全貌を話すって言ってたよね…
私を婚約者に仕立て上げ、周りを欺こうとするのはなぜなんだろう。
…そしてその役割を、私にした理由は…?
聞きたいことは山ほどある、と思いながら、黒いストレートの髪を黒ゴムで縛る。
自分で切った前髪が伸びてきて邪魔だと気づいたけど、切る時間までなさそうだ。
軽くファンデーションをはたいて、色のつかないリップクリームを塗って、ヒールの部分が傷ついた黒いパンプスを履く。
一度で閉まらない玄関ドアを力任せに閉め、私は会社へと急いだ。
「おはようございます」
あちこちから社員に挨拶をされ、悠然と手を上げながら答える声は裕也専務。
数人の役員とその秘書だろうか。
エレベーターを待っている私の方へ、人の塊が近づいて来た。
シルバーグレーのスーツに青いネクタイ姿の裕也専務を見て、偶然居合わせた女子社員は皆、声にならないため息をもらし、裕也専務に熱い視線を送っている。
すごい人気だな…
私は一団を先にエレベーターに乗せようと、一歩脇へ退いた。
…そういえば今日計画の全貌を話すって言ってたけど、何時にどこに行けばいいんだろう。
やって来た専務に一瞬目をやってから、目の前を通り過ぎるのを、頭を下げて待つ。
「片瀬さん…」
うつむく頭の上から声がする。
ハッとして顔を上げると、エレベーターの前に1人残った裕也専務が、私の腕を引っ張って一緒に乗せてしまった。
エレベーターの中は役員とその秘書の方々が乗っていて、かなり混みあっている。
「お…はようございます」
一応挨拶をしたものの、返事を返してくれる人はいない…。
裕也専務は私を庇うように、少し胸元に引き寄せた。その瞬間、フワリとスパイシーな柑橘系の香りが鼻を掠める。
「…今日は定時で上がってください。下の駐車場で待ってます」
一瞬耳元でささやかれ、裕也専務の息が耳にかかる。
…え?…と思った瞬間、秘書課のある階に放り出され、私は慌てて閉まるエレベーターに一礼した。
「…合格。昨日から100点続きですね。どうしたんですか?」
「…えっと、テストを…されていたんですか?」
「そうです。簡単に俺を好きになってもらっちゃ困るので」
エレベーターで自分の胸元に引き寄せて、顔を赤くしなかったのは私くらいだと感心された。
ささやかれた通り、定時で上がって駐車場に行くと、裕也専務を乗せた黒塗りの車の運転手に迎えられた。
連れていかれたのは、和風割烹といった風情のお店。
門から入り口まで、石畳の道が伸びていて、いかにもそれなりの立場の人御用達…といった感じ。
こんな高そうなお店に入るのはもちろん初めてだ…
「どうぞ」
裕也専務は入り口の引き戸を開けると、私の背中を少し押してくれて、先に入るようにと促してくれる。
…これが世にいうレディファーストというやつ。
私が体験するとは思わなかった…!
「ようこそお越し下さいました」
先に進むと和服姿の女性が出迎えてくれて、しとやかな仕草で頭を下げる。
美人女将、という呼び名がピッタリの女性。
「あら…今日は初めてのお連れさまですねぇ。珍しく、可愛らしいお嬢さまをお連れで…」
女将に甘い視線を向けられてるのに、澄ました顔の専務。
仕方ないので自分で挨拶する。
「片瀬舞楽です。よろしくお願いします」
チラっと私を見下ろす専務、何か言いたそうだけど、女将に向かって席の案内を催促した。
「食べたいものを頼んでください」
そう言われて…焦る。
だってたった今、和紙に書かれたメニューの中で、一番高いコースを注文してくれたんだから。
…それ以外に、好きなものがあったら食べろって…こと?
そこで私は、さっきから気になっていたメニューを読み上げた。
「海老の鬼車カサゴ焼きのアーモンド揚げ…」
「…ずいぶん固そうなものを好むんですね」
「それじゃ…蟹のマシュマロ乗せ…」
「…チャレンジャーです」
なに?…頼むなってこと?
おすすめしないってこと?
そっとその顔色を伺うも、あまりに無表情で全然わからない。
しかも…気軽に聞ける雰囲気でもない…
「それじゃ、えぇっと…厚焼き玉子…」
「は?」
私の大好物なんだけど、それもダメなのかな…
厚焼き玉子にはちょっとほろ苦い思い出があるんだけど…それを今ここで話す気にはなれない。
「やっぱり、今言ったのは全部無しで…代わりにお酒を飲んでもいいでしょうか?日本酒の、久保海山をお願いします」
「…はぁ?」
銘酒として有名な久保海山は、普段なら飲むのをためらう値段の日本酒。
…1回飲んでみたかった…!
裕也専務は無表情を崩さずに、妙な視線を向けてくる。
そういえば、副業のお叱りを受けている最中だった?お酒飲みたいなんて言って、まずかったかな…
でも結局、専務は私が言ったすべての料理とお酒を注文してくれた。
「…私だったからいいですが…」
注文を終えてメニューをパタンと閉じ、正面から私を見据える専務。
「たとえ上司であろうとなかろうと、男と個室で食事をする時は、基本酒を飲まないことをおすすめします」
「…え?どうしてですか?」
「中には悪い奴もいるからですよ。
…まぁ…君みたいな女の子に興味を示す男は少ないでしょうが」
「…」
なんだろ。今、ひどいこと言われた気がする…
怒るべきか悩んでいるうちに料理が運ばれてきて、その美しい料理を前に専務の失礼な言葉も瞬時に消えていく。
「わぁ…すごく綺麗…!」
大きなお皿にチョンチョン並べられた美しいひとくち料理の数々…
完全に和食…ってわけではないらしく、クリームチーズやナッツ、マヨネーズっぽい調味料も使われているみたい。
「写真を…撮ってもいいでしょうか…」
「…どうぞ」
「ありがとうございます…!」
夢中で写真を撮るうち、知らずに専務に近寄っていたようだ。
その時、朝のエレベーターで気づいた香水が香る。
…裕也専務は、いい匂いがする。
クラブに来るお客様も、香水が香る方はいるけど、専務は近寄ってはじめて香る程度なのが控えめでいい。
内心そんなことを思いながら、角度を変えて夢中で写真を撮っていたら、専務がいかにも迷惑そうに、はぁ…とため息をついた。
「すいません…」
近寄ったら迷惑ってことだと理解して、私はコソコソ自分が座っていた席に戻った。
「それじゃ、冷めないうちに…」
「あ、ちょっと待って下さい…」
今撮った写真を仲良しの幼なじみに送ろうと、急いでメッセージアプリを起動した。
もう一度すいません…と謝ってから前を見ると、専務がじっと真顔で私を見つめてる。
…待たせたから怒ってる…と思った私は、その場を取り繕うように言った。
「…子供の頃からずっと仲良くしてる幼なじみに、美味しそうなお料理の写真を早く見せてあげたくて…」
「…美波さんと聖さんですか?」
「…え?」
今裕也専務が言った名前は、確かに私の幼なじみで、たった今写真を送った人物に間違いない。
…でも、どうしてそれを知っているんだろう。
私の完全なプライベートなのに。
「どうしてそれをご存知で…?」
私の質問には答えず、専務は意味深な表情で緩く笑った。
「食べながら話しましょうか。…君は酒も飲みたいようですし」
なんだか良からぬことを打ち明けられる前触れのような気がした。
…いや、すでに偽装婚約という、怪しいことを言われているんだと気づく。
裕也専務は並べられた料理を目線で追い、そのまま視線だけを上げて私を見て、口を開いた。
「君に私の婚約者になってもらいたいと言ったのは、会長に勧められている政略結婚を断りたいからです」