ミヤビの予想を裏付けるような出来事は、それから一週間も経たない内に起こった。商店街のイベントで福引の手伝いをすると言って、和史が張り切って朝早くから出掛けて行った週末。
居間の長机で期末テストに向けた課題と格闘している時、廊下側からガラスが派手に割れる音と、何か重さのある物が床板へごとりと落ちる音がほぼ同時に響いた。
「え、何っ?!」
驚いて問題集から顔を上げた莉緒は、隣の座布団の上で昼寝している妖狐と、台所でガスコンロを磨いていた猫又のことを交互に見回す。今、家に居るのはこの面子だけなはずだ。父が帰って来たにしては、明らかに様子がおかしい。
「む、侵入者だな。そして、何か悪しき物の気配がするぞ」
そう言って廊下へと続く襖を器用に前脚で開けて先に廊下へ出たムサシが、九尾の毛をぶわっと逆立てる。後ろから顔を覗かせた莉緒も、「ヒッ……!」と息を吞んで顔を青褪めさせた。
板張りの廊下の床。その上へ広範囲に散乱するガラス片は、庭に面した窓が派手に割れて飛び散ったものみたいだ。そして、その中心には首の無い汚れた人形が一体。雛人形だと思われる、十二単を身に纏った人形は、割れたガラスの上で首の無い身体をこちらへ向けて、ただ静かに転がっていた。
「これを投げ込んだやつはとっくに逃げたみたいだな」
「なんで、こんなこと……?」
「むやみに触らん方がええよ。何が仕込んであるか確かめんと」
人形の切断された首元から、何か嫌な気配が漏れ出ているのは莉緒も感じていた。ミヤビの言う通り、人形の身体の中に何かが埋め込まれてみたいだ。それが首をもがれたことで外へ出て来ようとしている。悪霊を封じる為のお札なら、つい先日に父が書いていたものが居間の引き出しにしまってある。けれど、それを行使する術を莉緒はまだよく知らない。和史は祓いのことを娘にはあまり教えたがらないからだ。
「どうしよう、お父さんが帰ってくるまで、このまま置いておく?」
父ならこれの対処法は知っているだろう。仮にも祓い屋である藤倉の後継なのだから。ただ、和史が帰宅するまで、この雛人形がおとなしくしてくれているという保証はない。今もし、家の中で何かが暴れ始めたら……。
そう不安になっていると、莉緒の隣で廊下の様子を伺っていた妖狐が、ガラス片を避けながら人形の元へ近付いていく。そして、首の無い雛人形をしばらく見下ろしていた後、ムサシはそれを右前足でぼふっと上から踏みつけた。
「ム、ムサシ?!」
「この程度、たいしたこともない。ただの怨霊の類いだ」
妖狐の足の下から、黒い霧のようなものが立ち上がってきたかと思ったが、すぐにすっと消えていったのが見えた。どうやら九尾の狐の妖力をもって除霊してくれたようだ。大きな肉球に踏みつけられている首無しの人形は、その重みで形をぐにゃりと歪ませている。
「あとはうちが片付けとくから、お嬢ちゃんは勉強に戻り」
いつの間にか掃除機を取りに行っていたミヤビが、軍手を嵌めた手でテキパキと大きな破片を拾い集めていく。割られてしまった窓からは外気の冷え切った風が吹き込んでくる。不法侵入に器物破損、ここまでくると完全な犯罪行為だが、誰が一体こんなことを……。
段ボールとガムテープで応急処置された窓に新しいガラスが嵌め込まれるよりも、何者かによる次の嫌がらせの方が先だった。翌朝、普段と同じ時間に家の玄関を出ようとした莉緒は、庭先の松の木を見て鋭い悲鳴を上げた。
「な、な、なっ?!」
娘の声を聞いて裸足で家の中から飛び出して来た和史は、莉緒が右手で指差しているものを見てギョッとする。玄関前に植えられた大きな松の木。その幹には藁で作られた人形が腹部に太い釘を打たれて突き刺さっていたのだ。昨夕、外から帰って来た時にはこんな物騒なものは無かったはずだ。それは家人が寝静まった頃に誰かが敷地内に侵入していたことを物語っている。
「誰かが入ってきたら分かるものだけどなぁ。気付けなかったってことは、人ならざるものか……」
庭先には防犯用の玉砂利が敷き詰められている。入れ替えを怠っているおかげで年季が入り、石の角が取れて鳴りにくくなっているとは言っても、人が歩けばさすがに無音では済まない。
それに、誰にも悟られず木に釘を打ち付けるのも、人には到底できることではないだろう。和史は人に使役されたモノの仕業だと結論付けたようだった。
「ってことは、犯人はあやかし……じゃなくて。祓い屋さんが自分のところの式神を使って、嫌がらせしてきてるってこと?」
主導しているのはあくまでも人だけれど、実行しているのはまた別で、現状では相手の特定は難しい。人に認識されないあやかしの仕業だと、目撃者を探すのは不可能だ。
「だからって、このまま黙ってやられっぱなしっていうのも悔しい……」
今日の藁人形は見た目のインパクトはあるけれど、よく考えたらまだマシな方だ。昨日のように窓を壊されたりしては修理にもお金が掛かるし、お札販売の取引妨害では家計に大打撃を与えられた。どちらも笑いごとでは済まされない。死活問題だ。
怒りから顔を紅潮させて「何とかできないの?!」と父親へ詰め寄る莉緒に、和史はタジタジと後ずさる。娘と違いあまり好戦的ではない父は、ほとぼりが冷めるのをただ待つつもりでいたらしい。
そんな父娘の様子を家の中から眺めていた猫又が、満足げに微笑みながらポンと手を打って言い放つ。
「なんや、ボンよりもお嬢ちゃんの方が見込みありそうやな。よし、分かった! うちが何か上手い対策を考えたるわ」
ミヤビの嬉々とした様子に、和史が「ええ……」と情けない声を出して引いている。猫又の策に対して、何か嫌な記憶でもあるんだろうか。
「対策って?」
「お嬢ちゃんも術の一つや二つ、覚えといて損はないってことや」
ミヤビの提案に、松の木から藁人形を外していた和史が慌てる。見た目より浅く刺さっていたようで、人形の釘は簡単に抜けたみたいだった。
「いや、莉緒にはそういうのは……」
「悠長なこと言ってる場合ちゃうで、昨日の首無し人形やって何も知らずに触ってたら、どうなってたか分からんねん。親なら最低限の護身術は教えておいてしかるべきや」
猫又の言い分に、和史は納得したようなしていないような微妙な表情をしていた。父親としては愛娘に祓い屋の真似事をさせたくはないのだろう。けれど、嫌がらせがこれ以上エスカレートするようであれば、放ってはおけないのも事実。何より当の莉緒がやる気満々で大きく頷いているのだから、反対もし辛かったはずだ。渋々ならも「一人では決して行使しないこと」という一点だけを約束させて、諦めたように溜め息を吐いていた。