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第8話

 家の中を漂う、味噌汁と炊き立てご飯の香り。ほんのりと甘く香ばしい匂いがするのは鰆か何かの西京漬けを焼いているんだろう。朝ご飯の香りに起こされるのは、祖母が生きていた頃以来。


 ――珍しいな、お父さんが料理してくれてる?


 お湯を沸かしてカップラーメンを作るのがやっとな父が、こんな良い匂いがする料理ができるとは思えない。きっと買ってきた総菜を温めているだけだ。最近のコンビニは和洋中、何でも揃っているんだから。

 そう思いながら、莉緒は部屋着のまま台所をそっと覗いた。予想に反して、台所に父の姿は無かった。


「あら、おはようさん。朝ご飯できてるし、はよ顔洗っておいで。お弁当はちょっと待っててなー」


 コンロの前で卵焼きをひっくり返しながら、割烹着姿のミヤビが声を掛けてくる。テーブルの上には三人分の茶碗と箸が並び、美味しそうな焼目のついた魚と、青菜のおひたし。莉緒が起きてきたことで、ミヤビは小鍋に入った味噌汁を火にかけ直していた。


 言われるがまま洗面所に向かった莉緒は、寝ぐせのついた髪をボリボリ掻きながらトイレから出て来た父親と廊下ですれ違った。アルバイトの無い日に父が朝から起きているのは珍しい。昨日はあんなにこっぴどく叱られていたけれど、何だかんだ言っても猫又が戻って来たことが嬉しかったのだろう。


「ほら、ボン、さっさと席に着いて食べや。今日は朝から蔵の掃除するで。あんな埃まみれにしてたらアカン」

「分かった分かったって。もうっ、休みの日くらいゆっくり寝させてくれよ……」

「蔵だけちゃうで、家ん中も外も全部掃除し直しや。庭木も全然手入れしてへんやん、こんなんでは依頼者が来ても引き返してしまうわ」

「あああ、もうっ、食べ終わったら何でもやるからっ」


 前言撤回。父はミヤビに叩き起こされただけみたいだ。和史のうんざり声を聞きながら、莉緒は口元を綻ばせる。猫又が家事を請負ってくれたおかげで、今日の英単語の小テスト対策はしっかりと出来た。この調子なら、次の期末テストの赤点回避も夢じゃない。別に莉緒は偏差値が足りなくて落ちこぼれていた訳ではないのだから。


 ダイニングへ戻ると、部屋の隅っこの床でムサシが専用のご飯を貰って貪っていた。ペット用のドライフードはあまり好きじゃないらしく、妖狐も人と同じものをワンプレートにして欲しがる。居候のくせに食通なのは何ともいただけない。


 父親の向かいの席に着くと、莉緒は「いただきます」と手を合わせる。湯気の立つ具沢山の味噌汁に、炊き立てのご飯。朝からこんなにしっかりと食べられるのは久しぶりだ。学校へ持っていくお弁当を作るのに手いっぱいで、いつもトーストと野菜ジュースなんかで適当に済ませていたから。


 猫又が用意した朝食を美味しそうに食べる娘のことを、和史は感慨深げに眺めていた。父娘が一緒に朝から食事を取るのも久しぶりだから、何か思うところがあるのかもしれない。



 夕方、テスト対策が功を奏してスムーズに下校できた莉緒は、遠目からも自宅の様子が変わっていることに気付き、慌てて家の門をくぐり抜けた。伸び切って四方八方に枝を広げていた庭木の形が整えられ、雑草が目立っていた庭はすっきりと除草されている。裏庭の方はまだ手付かずみたいだったが、門から玄関までは見違えるほど整備されていて、思わず表札を確認してしまったくらいだ。


「おかえり、莉緒」


 玄関で惚けていると、首にタオルを巻いて植木ばさみを手に持った和史が、額の汗を拭いながら裏庭の方から顔を覗かせる。宣言通り、朝からミヤビにこき使われていたらしく、ちょっと疲れた顔をしている。


「ただいま。庭、すごくキレイになったね」

「ああ、ミヤビ監修の下で、それなりに見られるようにはなっただろ」


 素人仕事だけどな、と笑いながら和史は両手を腰に当てて身体を剃り返らせて伸びをしている。普段からアルバイトで力仕事も請け負っているはずだが、庭いじりはまた別のパーツを酷使するらしい。背骨がバキバキと不穏な音を立てている。

 普段は呑気なことばかり言う父親だが、さすがに猫又が傍で目を光らせていると手を抜くことができなかったらしい。


「そのミヤビ達は?」

「裏庭の紅葉の剪定をどうするかで、ムサシと揉めてるところだよ。お互い、いろいろ拘りがあるらしいんだ」

「ああ、池の横の木? 結構大きかったけど、紅葉は落ち葉がすごいし手入れが大変だよね」


 裏庭には今は水も入れていない乾いた池があり、その畔に一本の紅葉の大木が植わっている。座敷からの眺めを計算して植えられているらしいが、落葉の季節は周辺が大変なことになる。拘りの無い莉緒は手間がかからないよう、最小限まで剪定してしまえばいいと考えてしまうが、式神達はそうでもないらしい。情緒や趣についてお互いの意見をぶつけ合い、揉めに揉めているようだ。


「ほら、莉緒も帰ってきたことだし、今日はここまでにしよう」


 裏庭に向かった和史が、あやかし達に作業終了を宣告しているのが聞こえてくる。それぞれ納得いかなげに不満の声を上げていたみたいだが、日が落ち始めているのに気付いて諦めることにしたようだ。


「うむ、紅葉に関してはしばらく議論する余地があるな」

「しゃーない、もうちょっと考えよか」

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