「ミ、ミヤビ……?!」
酒屋のご主人から新商品の利き酒に誘われて、ほろ酔い状態で夕方になって帰宅した和史は、自宅の居間で大きな黒猫が愛娘に向かって説教を垂れているのを目撃し、あまりの驚きに声を裏返していた。それまで上機嫌でニヤケ気味だった顔が、一瞬で酔いも覚めたらしく真顔へと戻る。何か言いたげに口をパクパクさせているが、あまりの衝撃に言葉が出ないみたいだ。
ミヤビと呼ばれた黒猫は、上座に敷かれた座布団に座り、前足を使って丁寧に毛繕いしている。こうしていると尻尾が二又に分かれていることを除けば、ただの大きな猫にしか見えない。その真向かい、下座で正座しながら、莉緒は帰って来たばかりの父のことを「おかえりなさい」と疲れ切った微妙な顔で見上げた。
裏の蔵で出会った黒猫は、猫又のミヤビ。この家が祓い屋を始めた時から仕えているあやかしだ。そう、莉緒が生まれるずっと前に出て行ってしまったと聞かされていた、この家で唯一だった式神。それがどうして蔵に居たのかというと――。
「どっかのぼんくらが中を確認もせずに蓋閉めたおかげで、えらい長いこと出られんかったわ。なんで漬物壺にいちいち封印してんねん! 昼寝して起きたら、目の前は真っ暗や!」
「え、ミヤビは俺に愛想つかして家出したんじゃなかったのか……?」
「はぁ? うちのこと、見限らんといてくれる? 契約途中で逃げ出すような猫又じゃないし! ボンが壺に閉じ込めたから、二十五年間ずっと蔵におったわ!」
蔵を出た後から延々と文句を言い続け、少しは気が収まってきたかと思っていたが、当の和史の顔を見て怒りが再燃してしまったらしい。部屋の隅に正座させた和史に向かって、また一から説教が始まってしまう。父の方を見ると、顔馴染みのあやかしとの再会を喜ぶ間もなく、自尊心をピンポイントでえぐられて、かつてないほど落ち込んでいる。娘の前でのボン呼びも相当堪えているようだ。
「先代も先々代も、それはもう優秀な祓い屋やったわ。その前はまあ、ちょっとあれやったけど、あの時は代わりに奥方がしっかりしてはった。やのに、自分とこの式神を封印してしまうなんて、三代目が聞いたら何て言いはるやろうか……」
「ああ、三代目ってのは確か、ミヤビが式神契約したっていう?」
「そや。かくりよを出て来たものの、伝手も行くあても無かったうちを拾ってくれたお人や。野良あやかしなんてもんは、祓い屋に見つかったら問答無用で封じられてしまうご時世やったのに。――だから、うちには藤倉家への恩があるねん! そんな簡単に出て行くかっての! それやのに何や、ボンはうちが家出したと思ってたって?!」
和史と話せば話すほど、猫又がヒートアップしていく。封印されていたことよりも、ミヤビは自分の忠誠心を疑われていたことの方が気に食わないようだった。「だから悪かったって……」と情けない声で謝り続ける父が段々と可哀そうに思えてくるが、元々の原因は和史にあるし、口を挟む隙がさっぱり見当たらない。
莉緒は隣で素知らぬ顔で寝たふりしている妖狐ムサシの横腹を、「なんとかしてよ」と小突く。片目を薄く開いてこちらを見た後、妖狐はふぅっと溜め息を吐いて、渋々と起き上がった。そして、宥めるよう静かな口調で猫又へと話し掛ける。
「猫又よ、もうそのくらいに――」
「あ、新入りさんは黙っといてくれる?」
ムサシの台詞に被せるように、ミヤビが速攻で制する。そして、「大体、ボンは子供の頃から注意力が無さ過ぎるねん」と時代を遡ってのお小言が始まった。
これはもう、気の済むまで続けて貰うしかないんだろうなと、莉緒は壁掛けの時計を見上げてから、そっと台所へと移動する。夕ご飯の支度には少し早いけれど、居間で黒猫の説教を父と一緒に聞いているよりはよっぽどマシだ。父親が帰宅するまで、ずっとあの調子で愚痴を聞かされていたし、もうこれ以上は勘弁だ。
興味本位で振り返ってみると、居間の畳の上で父親が黒猫に向かって土下座させられていた。見てはいけないものを見てしまった気がして、莉緒はそっと視線を戻した。
米びつから米を計量しながら、少し首をひねる。ミヤビが戻って来たということは、つまり食い扶持がさらに増えたということ。悩み抜いた後、一合増やしてから洗米し、炊飯器にセットした。結局、蔵ではフリマに出品できそうな物を探し出すことはできなかった。金策は振り出しに戻り、先行きは不安なまま変わらない。ただ、ここ数日の間に家の中が一気に賑やかに、否、騒々しくなったのは密かに嬉しかった。ずっと、父と二人きりの生活だったから。この広くて古い屋敷で一人きりで父の帰宅を待つ時間は、心細くて仕方なかった。小さい頃だけじゃなく、今だって同じだ。
「なんや、お嬢ちゃんに家事させてんの? 学生さんは、勉強が仕事やろ。ここはうちがやったるから、さっさと部屋行って宿題でもしてき」
声がして振り返ると、黒猫が冷蔵庫の野菜室を覗き込んで呆れ顔をしていた。
「ロクな食材もないやん。普段から何食べてんの? まだまだ育ち盛りやのにアカンで」
「それはその、予算が……」
「ハァ、ボンは親になっても頼りないままなんか。分かった、これからはうちが何とかしたる。根性叩き直して、ボンを一人前の祓い屋にしたるわ。やから、お嬢ちゃんはしっかり勉強しといで」
胸を叩いて、「まかせとき」と言い放つ黒猫を、莉緒は訝しげに見る。一般的な猫よりは大柄だけれど、人と比べるとはるかに小さな身体に、一体何を任せたらいいんだろうか。そう不安に思っていたら、猫又がその場でくるりと宙返りして見せる。
ポンッと白い煙が微かに視えたかと思った次の瞬間、ミヤビが立っていた場所に現れたのは、濃灰色の着物に白い割烹着姿の中年女性。長い黒髪を後ろで一つにまとめて品良く落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「ミ、ミヤビ……?!」
「やっぱり親子やな、ビックリした時の反応が全く一緒やん」
着物女性のケラケラと笑う声は、猫又のものと一緒だ。半信半疑の莉緒の視線に、ミヤビが割烹着の腕を捲りながら言う。
「人に化けるくらい、朝飯前やわ。家のことはうちがやったるし、祓いの仕事もちゃんと見つけてきたる。あんたは大船に乗ったつもりでおったらええ」
屋敷の中は二十五年前とほとんど変わらないらしく、勝手知ったると猫又は手際よく夕ご飯の支度を始める。
その後ろ姿を呆気に取られつつ眺めながら、幼い頃に家を出ていったという母親のことを思い出していた。莉緒がまだ小さ過ぎてほとんど記憶に残っていない母も、髪の長いキレイな人だった気がする。
――お母さんが家にいるって、こんな感じなのかなぁ。