やせ細った狐は食事の時間以外はずっと寝て過ごしていた。時折、苦しそうな声で唸っていることがあったから、莉緒は心配で夜はダイニングの隣にある居間へ布団を敷き、箱の様子が確認できる場所で眠るようにしていた。どこの病院へも連れて行くことができず、ただ見守るだけしかできないのがもどかしい。
その晩も居間で横になっていると、白狐が低い唸り声を上げているのに気付く。慌てて布団から起き上がった莉緒には、狐の寝床にしている段ボール箱の周りに何か黒いモヤが漂っているのが見えた。それが中へ入り込もうと箱を取り囲んでいて、狐が弱々しいながらも必死で威嚇しているのだ。
――あれって、お父さんが言ってた邪鬼ってやつ?!
弱ったあやかしに憑りつくという怨霊。それが狐の身体を依り代にしようと纏わりついている。箱に貼られた護符の力で中まで侵入することはできないはずだが、莉緒は立ち上がって急いで狐の元へ駆け寄った。
「こらっ! しっ、しっ、あっちに行けっ……!」
手を振って、箱の周辺に漂う黒いモヤを払い除ける。実体を有しないから手応えはまるっきり無かったが、いくら落ちぶれていようが一応は祓い屋の娘だ。邪鬼は逃げるように、すっとどこかへ消え去っていった。
この子は弱った身体であんなものと戦っていたのかと思うと、もっと早く連れて帰ってきてあげなかったことを心底悔やむ。そして、再び目を閉じて身体を丸めている白狐の頭を優しく撫でた。早く元気になるようにと祈りながら。
狐の寝床用に用意した空き箱は、遠縁の親戚が沢山収穫できたからと家庭菜園の野菜を送ってくれた時の段ボール。莉緒でも両手で抱えられるサイズだったけれど、当初の狐はそれにすっぽり入り込めるくらいの大きさしかなかった。そして、中で身体を丸めて静かに眠っていることが多かった。――はずだった。
「ちょ、めちゃくちゃ大きくなってない?! 全然、子犬サイズじゃないんだけど……」
休日の朝、普段より少しゆっくりめに起きてダイニングの様子を覗き見た莉緒が、段ボール箱の横で両前足を揃えてお行儀よく座っている白毛の狐の姿に絶句する。どう見積もっても、もう箱には入りきらない大きさ――余裕で大型犬くらいはある。それが朝ご飯が待ちきれないとでも言うかのように、ブンブンとご機嫌に尻尾を振って莉緒のことを待っていたのだ。
よく見れば、その激しく振り回されている尻尾の数は一本じゃない。あまりに動いているから上手く数えきれないが、九尾の狐というからにはきっと全部で九本あるのだろう。わさわさ動いていて、お尻が忙しない。
「これが妖狐の本来の姿ってことなのかな?」
父から「どこまで大きくなるかは分からないよ」と釘を刺されてはいたが、動物園で見かけた狐の三倍はある。最初からこのサイズだったら、きっと怖くて近付けなかっただろう。
そして、九尾に戻れたということは、元いたところへ帰らなければいけないということ。この妖狐がどこかで式神として契約を交わしているのならば、探している祓い屋がいるはずなのだから。
「迷い犬、ううん、迷い式神だったら、すぐに使役してる人も見つかりそうだよね。きっと心配してるはずだよ」
焼いて冷ました鮭の切り身をほぐしたものをご飯へ混ぜ込みながら、莉緒は妖狐へと励ますように声をかける。ほとんど独り言のつもりで話していたら、背後から落ち着いた低い声が返ってくる。
「その心配は無用だ。私にはもう使役者などいない」
はっと振り返ると、白毛の大狐が四本の脚ですっくと立ち上がり、台所にいる莉緒の方へ歩み寄ってくる。立つとさらにその大きさが際立つ。足の大きさだけでも初めて見た時の倍以上ある。
今喋っていたのがこの獣のあやかしだと莉緒が気付くまで、しばらくの間があった。父の同業者が式神を連れているのを見たことはあり、あやかしの中には流暢に言葉を操る種族が存在するのは知っていた。けれど、いきなり狐が長い口をパクパクさせながら人語を話し始めると、違和感が半端ない。しかもちょっと渋めのハスキーボイスでだ。
「屋敷から人の姿が消えて随分と経つ。わずかな望みをかけて子孫達を訪ねてみたものの、あの一族に私が視えるものなど、もう誰一人としていなかった。その挙句、情けないことに力尽きてしまったという訳だ」
「……それは、大変だったね」
「ああ、お前に救って貰わなければ、間違いなくあの場で野垂れ死んでいただろう。誇り高き妖狐ともあろうものが……」
「情けないものだ」と狐は首を項垂れる。餓死寸前で行き倒れていたことがよっぽど恥ずかしかったのか、九本の尻尾を全てしな垂れさせていた。けれどすぐに気を取り直したらしく、妖狐は鼻先を上に向けて、少し得意げに言ってくる。
「そこでだ、一宿一飯の恩もある。新たにこの家の式神になってやってもいい」
「祓い屋のくせに一体の式神も従えていないようだからな」という余計な一言に、莉緒はややムッとしたが、事実だから反論しようがない。祓いが出来ない祓い屋は開店休業と同意だ。この時代、新規で式神と契約をするのは難しい。降って湧いたような妖狐からの提案だったが、「でも……」と莉緒は眉間に皺を寄せて難しい表情になる。
「うちの式神になるってことは、ずっと一緒に住むってことだよね?」
「うむ、そうなるな」
「実際問題、我が家の家計的に、なかなか厳しいものがあるんだよ……主に食費面で」
弱っていた子ぎつねの時ならまだしも、今や大型犬サイズに復活した妖狐は下手したら成人男性並みの量を食べるようになっている。これがマックスだとしても、この先ずっととなると赤字どころでは済まない。
「何を言っている、式神がいるのだから、祓いの仕事を受けられるだろう?」
「……まあ、そうなんだけどね。でも、この業界は信頼と実績が物を言うから、うちみたいなのは――」
長年積み上げたコネとツテで仕事はやってくる。何年も現場に出ていない祓い屋に祓いの依頼はそうそう回ってはこない。となると当面の経済的問題が浮上してくるのだ。
莉緒が用意した鮭まぜご飯を妖狐はダイニングの床で勢いよく貪りつつ、「ヒトの世も世知辛いものなのだな」と他人事のように呟いていた。
朝からアルバイトに出かけていた和史が、昼を少し回ってから帰宅した後、莉緒は妖狐の話をかいつまんで報告する。昼食用に握っておいた鮭おにぎりを豆腐とわかめの味噌汁で流し込みながら、父は娘の話を真剣な表情で黙って聞いていた。
「そうかぁ、自然廃業した祓い屋のところから流れてきたのか。そりゃ、探してる家が無いわけだ」
事情を聞いてホッとした顔になったのは、他所の式神を無断で匿っているという最悪の状況を免れたからだろう。しばらく考えていたが、和史は「まあ、なるようになるだろう」とのほほんと笑ってのける。基本的に父はお気楽主義だ。
「契約は莉緒がしてあげるといい。式神は契約者を守るのが絶対だからね、彼に合う名前を考えてあげなさい」
「名前って、前の家で付けて貰ったのがすでにあるんじゃないの?」
式神契約に使う護符を用意しに和史が自室へ向かった後、莉緒は妖狐へと確かめる。今ある名が気に入っているのなら、変えずにそれをそのまま使えばいい。そう思ったが、妖狐はふるふると首を横に振った。
「名などに拘りはない。好きなように呼べばいい」
ならばと莉緒は、戻ってきた父に手順を教えて貰いつつ、白い毛を持つ九尾の狐の額に契約の護符をかざして唱えた。
「――このものを我の式とする、汝の名は『ムサシ』――」
二刀流の剣術家と同じ名を貰った白狐は、満足気に九尾をファサファサとゆっくり振っていた。