「かなり衰弱してるみたいだけど、しっかり食べさせてあげれば、すぐに元気になるだろう」
箱の中を覗き込みながら、和史が難しい顔をしている。莉緒と違い、初見から狐だと判ったらしく、うーむと何度も顎髭を撫で続け、困惑しているようだった。莉緒だって犬だと思ったから連れて帰ってきたけれど、最初から狐だと判っていたら拾って来たかどうかすら分からない。
「我が家にこれが居るのはかなり厄介だね。否、莉緒だからこそ連れて帰って来れたんだろうけれど――」
「やっぱり飼ってあげられないよね、狐なんて……」
親の険しい表情に、莉緒が不安そうな声を出す。犬や猫でも難しいのに、狐なんてどう世話して良いのかも分からない。動物園かどこかで引き取って貰うか、あるいは保健所に連絡か。せっかく連れて帰ってきたのに、結局は見捨てる結果になるのかと思うと罪悪感を感じてしまう。
娘の困り果てた顔に、和史は慌てたようにイヤイヤと首を横に振って否定する。
「いいかい、これは飼うとかそういう類いのものではないんだよ。ましてや、動物園や保健所に連絡したところで、先方を困惑させることになるだけだ」
「どういうこと?」
「今、こいつのことが視えるのは、限られた人間だけなんだよ。これはただの狐なんかじゃない。多分、あやかしの狐――妖狐だろうね」
思ってもみなかった父の言葉に、莉緒は絶句する。祓い屋の娘として、あやかしである妖狐のことは知識として知っている。けれど、目の前で弱っている生き物はやせ細ったただの白い狐にしか見えない。
「だって妖狐って、九尾の狐でしょ? この子、尻尾は一本しか生えてないんだけど」
「それはまあ、これだけ弱っていれば妖力が足りずに本来の姿を保てなかったりするんだろう。実際の大きさもどうだか分からないよ。なんせ、お父さんも実物を目にしたのは初めてだからなぁ……」
どちらにしても、ただの狐ではなくあやかしなのだから、大半の人の目には視えないということだけは分かった。隣のおばさんが狐のことに一切触れてこなかったのも、神社の前を通り過ぎる人達が見向きせず素通りしていたのも全てに合点がいった。皆、この狐のことが視えていなかったのだ。
「んー……こんな状態で追い出す訳にもいかないし、とりあえず回復するまでは置いてやるしかないかなぁ」
「回復するまでって、その後は?」
「おそらく、どこかの祓い屋と式神契約を結んでいる個体だろうし、その辺りを確認してみないことにはなぁ。契約途中で逃げ出してきたのだとしたら、大騒ぎになっているはずだ」
野良妖狐なんて、どこの祓い屋も見過ごす訳がないと、和史は頭を抱える。出来ることなら同業者との諍いだけは避けたい、と。
しばらく考える素振りを見せた後、和史は自室へと向かい、一枚のお札を手に持ってダイニングへと戻って来る。今さっき書いたばかりなのか、まだ墨の香りのする長方形の和紙には莉緒が初めて見る形の梵字が描かれていた。
「ここまで弱っていても邪鬼に憑りつかれずに済んでるってことは、相当な力の持ち主なんだろう。これで少しは回復の手助けになるはずだよ」
言いながら、箱の中にお札をぺたりと貼り付ける。瀕死状態のあやかしの周囲に漂う邪気を払うことは、人間が怪我した時に傷口へアルコール除菌するようなもの。あとはこのあやかしが持つ回復能力に賭けるしかない。
あやかし全てがそうなのかは分からないが、真っ白の毛を持つ妖狐は驚異的な回復力を見せ、翌日の朝には身体を起こして食事できるまでになっていた。まだ四足で立ち上がるほどの力はないみたいだけれど、莉緒が用意したささみ入りの粥をお行儀よく座りながら食べられるようになった。そして気のせいかもしれないけれど、昨日抱きかかえて帰って来た時よりも少し大きくなったような……。さすがに一食だけでそこまで育つことはないかと、莉緒は自分の勘違いを嘲笑う。
「詳しそうな家に問い合わせてみたんだけどね、この辺りで行方不明になった式神を探している祓い屋はいないそうだ」
制服姿でお弁当を詰めていた莉緒へ、頭に寝癖をつけたまま台所に顔を出した父親が欠伸交じりに報告してくる。昨日はあの後、同業者何軒かに連絡したりしていたが、結局は妖狐がどこからやって来たのかは分からずじまい。手掛かりは全くなしだ。
温め直した味噌汁が入った椀を、莉緒はダイニングテーブルの父の席に置く。家事全般がまるでダメな和史も、さすがにご飯くらいは自分でよそえる。いそいそとご飯茶碗に山を作り、箸を持ったまま両手を合わせて「いただきます」と呟いていた。
「まあ、もう少し回復したら、自分から事情を話してくれるといいんだけどねぇ。でもなぁ、お父さん、式神からはあまり好かれないみたいだからなぁ……」
「確か、うちに居たっていう式神も、逃げ出したんだよね?」
「まあ、お父さんがあまりにも頼りなかったから、愛想を尽かされちゃってね……」
情けないなぁと口にしつつ、しゅんと肩を落とす。祖父の代までこの家で使役していたという式神は、和史に代替わりしてすぐに居なくなってしまったと聞いていた。父親や親戚からの話では、どうも和史の祓い屋としての力の無さ――ぽんこつっぷりに呆れて家出してしまったらしい。以来、式神を持たないこの家ではロクな祓い仕事を請け負うこともできず、一部の同業者からはお札製造所などと揶揄される始末だ。