莉緒に抱きかかえられても子犬は暴れることはしなかった。唸りもせず、じっと莉緒の顔を見つめている。それは何かを諦めたような弱々しい視線。もうどうでもいいやと生き続けること自体を放棄しているみたいに見えて、腕の中で小さく震えている生き物に莉緒は「大丈夫だからね」と声を掛け続けた。
抱き上げたことで子犬が見た目以上に軽いことが分かる。毛の下は骨と皮だけで、どのくらい長い間まともに食べ物にありつけていないのか、想像すらできない。この子が過ごしてきた過酷な日々を思うと、胸がキュッと締め付けられる。
ドロドロに汚れた生き物を抱え、自宅までの道を歩いている際、玄関まで残り数歩というところで顔見知りのご近所さんと鉢合わせた。藤倉家の東隣に住む、畑中さん家のおばさんだ。ママチャリの後ろに送り状を貼り付けた段ボール箱を積んでいたから、駅前のコンビニで荷物を発送しに行くところなのだろう。キキッとブレーキ音を響かせて、おばさんは莉緒の前で自転車を停めた。
「こんにちは」
「あらぁ、莉緒ちゃん。もうすっかり良い娘さんになって――そうそう、今さっき回覧板をお宅に届けたところなのよ。お留守だったしポストに入れさせて貰ってるから、あとで確認してね」
「はい。ありがとうございます」
用件だけをほぼ一方的に話し終えると、「じゃまたね」と手を振っておばさんは自転車を漕ぎ始め、あっという間に通りの向こうへと消えていく。莉緒は隣の家のおばさんがあまりに普段と変わらないのが気になった。愛想よくて少しテンション高めの早口で話すのには、幼い頃から慣れっこなのだけれど……。
――もしかして、この犬のこと、おばさんには視えてないとか? まさか、ね……。
薄汚れた野良犬を抱っこして帰って来ていたら、普通は驚いて何か言って来てもおかしくはない。「何その犬?」とか「どこで拾ってきたの?」とか、何かしら聞いてくるはずだ。でも、汚過ぎて視界に入れたくなかったとか、きっとそんな感じだろう。さっきのおばさんの態度に若干の引っ掛かりを覚えつつ、莉緒は自宅玄関の鍵を開けて家の中へ入った。
弱り切った犬を古タオルを敷いた段ボール箱の中へ横たえ、莉緒は冷蔵庫の前で渋い顔をして悩んでいた。勢いで連れて帰ってきたものの、家には生き物を飼う装備なんてまるでない。衰弱した子犬が食べられそうなものは……と考えながら、冷凍庫の奥からガチガチに凍ったささみを取り出し、鍋で茹で始める。それと同時に、別の小鍋でおかゆを用意する。犬だって、弱ってるときは胃に優しい物の方が良いはずだ。
ゆで上がったささみを細かくほぐし、人肌に冷ました粥に混ぜ込むと、食器棚からあまり使っていない鉢を出してきて盛り付ける。それを箱の中へそっと入れてやると、犬は少し戸惑う素振りを見せはしたが、匂いを確かめた後に恐る恐る食べ始めた。
身体を起き上がらせる力がないのか、頭だけを上げて一生懸命に食べる犬のことを莉緒は黙って見守った。まだ警戒が解けないみたいで、周囲から何か音がする度に舌の動きが止まっていたが、長い時間をかけて粥の大半を食べ終えた後、莉緒は褒めるようにその頭を撫でてやった。
そして、お湯で湿らせたタオルを使って、汚れた毛を丁寧に拭っていく。本当はお風呂で石鹸を使ってワシャワシャと洗いたいところだが、弱っている身体に余計な負担はかけられない。一拭きするだけで真っ黒になるタオルを繰り返し洗いながら、犬の毛の上を往復させる。
タオルの汚れ移りが減って来た頃、莉緒は目の前の生き物を見て、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「えっ、犬、じゃないの?!」
汚れが拭き取られて本来の真っ白の毛色を取り戻したその生き物は、泥で固まりごわついていた毛流れが整ったことで、シャープな顔立ちと大きな三角の耳を莉緒の目の前に現わしていた。
初めて見つけた時から犬だと思い込んでいたから、ずっとその違いに気付いていなかった。これはきっと……。
「き、狐っ?!」
狐っぽい犬という考えも頭には浮かんだ。けれど、犬と思い込んでいるときは犬にしか見えなかったけれど、狐だと分かるともうそれにしか見えないのが不思議だ。そして同時に、莉緒は頭を抱えてその場にうずくまる。
「狐って、一般家庭で飼っていいやつ? あと、動物病院に連れて行ってもいいんだっけ……?」
ダイニングテーブルの上に放置していたスマホを手に、慌てて近所の動物病院のサイトを検索して確かめる。案内表示されていた取り扱い動物は――犬、猫、ウサギなどの小動物。狐なんてどこにも書いていない。思い切り対象外だ。ついでに調べてみると、狐はペットとして飼育はできるみたいだけれど、弱っているこの子はどこで診て貰えば良いのだろう。連れて行ける距離に狐も診察対象になっている病院を探してみたが、一件も見つからなかった。
オロオロしながらも段ボール箱の中を覗き込むと、お腹が満たされたからか犬――否、狐は身体を丸めて目を閉じていた。ふんわりと太い尻尾はやっぱり何度見返しても狐のそれにしか見えない。
深く追求するのは諦め、流し台で洗い物をしていると、玄関がカラカラと開く音が聞こえてきた。出掛けていた和史が帰宅したらしい。
廊下から続く戸を開けてダイニングへと入ってきた父が、部屋の隅に置かれた見慣れない段ボール箱にすぐ気付いて中を覗き込む。そして、すぐに「わっ」と短い驚きの声を上げた和史は、確認するよう娘へと視線を投げかけてくる。
「これ、どこで拾ってきたんだい?」
「そこの神社。昨日からずっと鳥居のところにいて……」
「……なるほどねぇ」
剃り残した顎髭を撫でながら、和史は眉を寄せた難しい表情になる。家にはペットを飼う余裕なんてないから、元のところへ戻して来なさいとでも言われてしまうんだろうかと、莉緒はしゅんと肩を落とした。