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第2話

 普段よりもかなり遅い下校。もうすっかり日は落ちかけ、駅前ロータリーから続くイチョウ並木の街灯が順に点灯していくのが視界に入る。

 どの部にも所属していない莉緒がこの時間まで学校に居残っていた理由はただ一つ。先週行われた中間テストで赤点を取ってしまったための補講授業だ。英単語の小テストの追試など、もう少し短い居残りなら日常茶飯事。全く自慢できることじゃないが、莉緒は追試の常連で、市内屈指の公立進学校の授業へ付いていくのに必死だった。


 ――無理せず、実力に見合った学校を受けるべきだったのかな……。いや、でも、家のこともしなきゃだし、電車代だってバカにならないもん。


 通学圏内にある高校で、莉緒が通っているR高校の偏差値は公立の中でトップだ。その次のレベルの学校となると、電車とバスを乗り継いで一時間半ほどかかる距離にあり、通学の不便さから近場の私立高校を選ぶ生徒も多い。莉緒だって、もし私立の学費が高くなければそっちを受験していたはずだ。そう、家計に余裕があったのなら、こんなに大量のプリントを持って帰らなくて済んだだろう。補講プリントの束を入れた通学鞄がずっしりと肩に重くのしかかる。


 父親である和史の仕事は祓い屋だ。霊やあやかしなど、人ならざるものに対処するのが生業。先祖代々から続く稼業は祖父が亡くなった後に引継いだらしいが、正直なところ莉緒は父が何かを祓っているのを見たことがない。お札や護符を筆書きしている姿は頻繁に目にするが、それらは同業者に買い取ってもらう為のもの――いわば、ただの内職だ。

 たまには商店街の顔見知りの店を手伝ったりしているみたいだけれど、私立を受験したいなんて口が裂けても言える経済状況じゃなかった。余計なお金がかからないよう、徒歩で通えるR高校を選んだのは莉緒なりの親孝行。歩きなら交通費はゼロだ。


 塾なしでトップ高に合格したと言えば、「頭いいんだね」と褒めて貰えることが多いが、現実はとてもシビア。ギリギリで滑り込んだ学校の授業は想像していた以上にレベルが高く、生徒の大半は家庭教師や塾通いが当たり前。結局は家庭の経済力が物を言う世界なのだ。


 ――学校が近いから、バイトしても速攻でバレちゃうしなぁ……。


 遠くの高校なら校則違反のアルバイトだって隠れてできたかもしれない。そう考えると、ランクを落とした学校を受験すれば良かったと後悔してしまう。苦労して合格したはずなのに、何もかもが上手くいかない。

 それでもR高校に入学が決まった時の、和史の喜ぶ顔を思い出すと「ま、いっか」と思えてくる。友人や知人に会う度に「莉緒がR高に合格したんだよ!」と自慢げに報告して回っていたのだ。ただ、お祝いと称して何日も飲み歩いていたのは何だか解せない。


 駅前の賑やかな街並みを抜け、古い住宅が建ち並ぶ通りに入ると、どこかの家の台所から漂ってきた甘辛い香りが鼻を掠めていく。この醤油と出汁の匂いは煮物か何かだろうか。冷蔵庫の中身を思い出しながら、莉緒も今晩の献立を悩み始める。


 夏には祭りが催されることのある、氏神を祀る小さな神社の前を通り過ぎようとした時、莉緒は鳥居の後ろに何か小さな生き物がうずくまっているのに気付く。街灯の灯りが届かず薄暗い中、白っぽいそれは小さく震えながらも、莉緒が近付いて行っても逃げる気配はない。じっとこちらを警戒するように見上げている青色の瞳は、どこか寂し気にも見えた。


「……捨て犬、かな?」


 首輪もなく、薄汚れた毛に覆われた身体は触れなくても分かるくらいガリガリに痩せている。肉付きが悪すぎて、子犬なのか成犬なのかの判別も付かない。小さく唸り声をあげているが、立ち上がって逃げる力はないらしい。

 莉緒は鞄に手を突っ込んで、中をゴソゴソと探った。そして、補講の前の腹ごしらえ用に持っていたクリームパンを取り出すと、袋を開けて子犬の顔の前に差し出す。


「ごめんね、連れて帰ってあげられないんだよね……」


 鼻先をクンクンと動かしてクリームパンの匂いを嗅いでいる子犬へ、莉緒は申し訳なさそうに声をかけて、その場を後にした。可哀想だとは思うが、藤倉家にはペットを飼う余裕なんてない。他の誰か心優しい人と巡り合えるよう祈ってあげることしかできなかった。


 翌朝、学校へ行くために家を出た莉緒は、神社の前で同じ犬が昨夕に見たのと同じ鳥居の下で身体を丸めているのを見つけた。けれど不思議なことに、同じ時間帯に登校していた小学生の集団は、神社の前にいる子犬のことには気付いていないようだった。捨て犬なんて、子供達に見つかれば大騒ぎの元になりそうなものなのに……。誰にも気付いてもらえない子犬は、鳥居に凭れるようにして身体を震わせていた。


 奇跡的に小テストの追試を免れたその日の下校時、莉緒はまた神社の前で小さく丸まっている捨て犬を目にした。丸一日ずっとここに居て、誰からも拾われることがなかったのかと思うと居た堪れない。それとも、保健所に連れて行かれなかっただけマシと思うべきなのか。

 子犬は昨日見つけた時よりも、ずっと弱っているように見えた。


 莉緒は制服のポケットの中を漁り、個包装のクッキーを出すと横たわっている子犬の顔の前に置いてやった。休み時間に友達から貰ったうち、一個だけ食べずに残っていたやつだ。鼻をひくつかせながら莉緒を見上げる丸い瞳が、静かに何かを訴えているような気がした。でも、莉緒はそれに応えてあげることができない。


「……ごめんね」


 どうして誰も拾ってあげないんだろうかと腹立たしく思うが、それは莉緒自身にも言えることだ。中途半端な気持ちで生き物を拾うなんて、誰だってそんな無責任なことはできないのだ。


 けれど、翌日の土曜日。駅向こうのスーパーへ買い物に出かけようとした莉緒は、神社の前で立ち止まり、意を決して子犬へとその両手を伸ばした。今連れて帰ってあげなければ、この子はここで死んでしまう、そんな気がしたからだ。


「私ん家で良ければ、おいで。あんまり贅沢はさせてあげられないけど……」

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