昨夜の嵐が嘘のようによく晴れた早朝。庭木の葉に残った雨粒が、風に吹かれてパラパラと玉砂利の上へと降り注いでいる。
都心からは遠く離れ、お世辞にも栄えているとは言えない田舎町。一応、市の中心地ではあり、駅前まで出ればそれなりに大きなスーパーや商店街もある。だが、この瓦屋根に土壁造りの古い屋敷――藤倉家の周りには住宅と田園ばかりが広がっている。
手入れの全く行き届いていない伸び切った松の木の上を、数羽のスズメが忙しなく鳴きながら飛び去って行った時、屋敷の玄関口で少女の甲高い怒り声が響いた。
「ちょ、ちょっと、お父さん! また、そんなところに寝て! だから飲み過ぎないでって言ったのに……」
「あれー? 俺、何で玄関なんかに寝てるんだろうねぇ?」
この家の家長である藤倉和史が、とぼけた声を出しながら娘の顔を見上げている。その口から漏れる息は、顔をしかめたくなるほど酒臭い。完全な酔っ払いだ。
すでに学校の制服に着替え、通学用の鞄を手に持ちながら、莉緒はハァとわざとらしいほど大きな溜め息をついた。その呆れ果てた冷ややかな目は、血の繋がった親に向けるものとは到底思えない。
「昨日は『沙雪』で商店街の人達と飲むだけって言ってたけど、どうせまた二次会も参加してきたんでしょう? なんで途中で切り上げらんないのかなぁ?」
「さすが莉緒、お父さんのことはよく分かってるねぇ。でも、なんと昨日は三次会のカラオケまであってさ、さすがに朝まで歌ってたら喉はガラガラだよ。まあ、あの大雨と強風じゃあ、帰るに帰れないよねぇ」
昨日の嵐はすごかったよねぇ、とお気楽にのほほんと笑って言う父親に、莉緒はもう一度深い溜め息を吐く。そして次の瞬間、校則ギリギリの膝丈のプリーツスカートから出た脚で、和史の横腹を蹴り上げようとする。
「――うわっ、ちょ、莉緒! 親を蹴るとかは止めて……わ、悪かったって。次からはせめて二次会までにするから――」
「うちのどこに、そんな余裕があるって言うの?! もうっ、しっかりしてよ!」
「そんなだから、お母さんは――」と言いかけたが、莉緒は途中で言葉をぐっと飲み込んだ。幼い頃に家を出て行った母親のことを、和史はいつも「お父さんに甲斐性が無いから、呆れちゃったんだろうねぇ」と苦笑いを浮かべて自虐的に話していた。でも、母が出て行ったのはもっと別の理由があるのだと、莉緒は密かに考えている。
――本当は、お父さんのせいなんかじゃない。
苛立ちから嫌な台詞を投げつけようとしたことを、莉緒は冷静に反省する。たとえ玄関中がむっとするほど酒臭くなっていて、父が酔っ払って靴を履いたまま床板の上に寝転がっていようが、怒りに任せても言ってはいけないことがあるのだ。
「お父さん、今日は何か用事ある?」
改めて普段通りのトーンで、父の予定を確認する。急に口調の戻った娘へ、和史は「おや?」という意外そうな顔を見せた。
「いいや、今日は二日酔いで昼まで寝てるくらいかなぁ」
ははは、と笑って誤魔化している父を尻目に、莉緒は玄関の隅に揃えて並べていたはずの黒色のローファーを腕を伸ばして手繰り寄せる。ふらふらと千鳥足で帰って来た和史が豪快に蹴り散らかしたらしく、玄関に置いていた靴は四方八方へバラバラと転がっている状態だ。ここまでやらかされると、酔っ払い相手に細かいことをいちいち怒っていても仕方ないという気に段々なってくる。完全に諦めの境地だ。
「じゃあ、起きたらでいいから、裏のお婆ちゃん家の様子を見てきてあげて。庭の植木が倒れるんじゃないかって心配してたから」
「ああ、宮下さんか。うん、後で見に行ってくるよ」
昨日の学校帰りに偶然出会った宮下春江は、藤倉家の裏手の家で一人暮らししている。数年前に夫を亡くした未亡人で、頼れる親戚も近くにはいないと聞いていた。たまに莉緒と和史が会いに行くと、庭になっている柿やミカンなどの果樹をお裾分けしてくれる気の良いお婆ちゃんだ。
「あ、でも、お婆ちゃん家よりも、うちの方がヤバイかも。昨日、廊下が雨漏りしてたし」
「雨漏りかぁ、瓦が風で飛ばされちゃったのかもな。それも起きたら見とくよ」
伝えるべきことを一通り伝えた後、莉緒は鞄を持ち直してから「行ってきます」と玄関を出る。その後ろ姿へ向かって掛けられた「行ってらっしゃい」という父の声は、朝まで歌い続け喉を傷めたせいで完全に掠れていた。
駅まで続く商店街は長いアーケードに覆われていて、天候を問わずに買い物が出来て便利だ。でも、駅の反対側に大型スーパーが出来てからは人通りは目に見えて減っていた。古き良き個人商店のリアルレトロなお店が中心で、いわゆるシャッター街の一歩手前だ。
開店前の店も多く、さらに人の往来はまばら。この時間にここを歩いて通り過ぎて行くのは、莉緒と同じ制服を着ている子が目立つ。駅の踏切を越えてすぐの場所にある公立高校の生徒達だ。電車を使って通学する他校の子達はもう少し早い時間に家を出ないと間に合わないから、もし莉緒と鉢合わせするなら遅刻確定だ。朝の時間に余裕があるのは徒歩圏内だけの特権といっていい。
悠々と商店街の店先を眺めながら、莉緒はアーケードの下を歩いていた。何気なく見ていると店の窓や壁に同じチラシが貼られているのが目に入ってくる。華やかさの欠片も無い、筆で書かれたモノクロのチラシ。
『怪奇・怨霊の相談、請け賜わります。祓い屋 藤倉』
コンビニのコピー機を使って拡大したのか、A3サイズのそれらは紛れもなく父の筆跡で、横に控えめに書かれている電話番号はまさに莉緒の自宅のもの。和史が親交のあるお店に頼んで貼って貰ったのだろう。
けれど、父の努力は虚しく、家の固定電話がここ最近鳴っていた記憶はなかった。