「母さん!」
俺は久しぶりに、母さんを「母さん」と呼んだ。フォレス村で勇者エステルに殺されかけ、前世の記憶が蘇ったあの時。あの時も、母さんは俺を庇ってくれた。
「何故平気なの!? どんな者であれ、罪は犯して生きている筈!」
雷光を受けても微動だにしない母さんに対し、動揺するエステル。
「ええ、きっとそう。私はこの子を守る為ならどんな罪だって犯すわ。今までも、そしてこれからも。だけど平気よ。この子を守る為に犯した罪の痛みなら、いくらでも耐えられるもの。さぁ、早く目覚めなさい勇者エステル。あなたは戦うべき相手を、間違っているわ」
母さんは雷光を受け止めたまま言い放つ。凄まじい精神力だ。エステルは狂ったように自身の髪の毛を掴み、引っ張りながら悶える。放たれていた雷光が途絶える。
「馬鹿な! そんな馬鹿な! 耐えられる筈ないわ! ああああ! そんな者がこの世に存在する訳がない! いて言い訳がない! そうよ! いてはいけないの! 己の罪の痛みを耐えられる者なんて、存在してはいけないのよ! あああああ! 退きなさいエルフ! あなた、邪魔、邪魔よ! また私の邪魔をするのね! 今度は許さない! 今度は許さない! 消えなさい! そう、消えて、消えなさい! 消えろぉぉッ!」
エステルは再び剣を構えた。彼女の体が白く輝く。だが今度は雷光ではなく、白い輝きがそのまま剣へと伝わって行く。
「なんかヤバい! 逃げるんだシェフア!」
「いいえ、逃げないわ。さっきの雷撃のダメージで、ダー君はそこから動けない筈よ。だからお母さんが、ダー君を守ってあげる。あなたが死んでしまったら、私は生きていけない。命よりも大切なの。だから、生きて」
「それは俺も一緒だよシェフア! 君が命よりも大事なんだ! 愛してるんだ! 母さん!」
俺は立ち上がって、母さんを逃そうとした。だが、体が全く動かない。母さんの言った通りだった。体も精神もボロボロで、魔術の発動すらまだ出来そうにもない。
このエステルの強さはなんだ? 俺はレベル五千。エステルも「白の主」になったのなら、その資格が得られるレベル五千になっている。つまり強さはほぼ互角の筈だ。
狂気と正気の差か。俺は彼女を殺そうとは思わなかった
。目覚めさせ、救おうとした。エステルは俺たちを皆殺しにしようとしている。きっと、その差なんだ。
「【消滅(イレイズ)の光線(レイ)】!」
エステルの剣から、白い光線が放たれる。それは真っ直ぐに母さんを直撃した。一瞬の出来事だった。
「愛してるわ、ダー君......!」
母さんの体が白く輝き、次の瞬間。その姿は跡形もなく消滅した。
「母さん! うああああああああッ!」
俺は叫んだ。四つん這いのまま、喉が破れる程叫んだ。無力だった。最愛の人を、守れなかった。
「さぁ、これで邪魔者は消えたわ! あんたを守る者はもういない! 覚悟しなさい!」
エステルは再び体を輝かせ、雷光をその身に宿す。
憎い......! この女が憎い! 憎くて憎くて気が狂いそうだ。殺したい。殺したい。殺したい。
「うぐぁぁぁッ! がぁぁぁぁッ!」
俺は自分の顔に両手の爪を立てた。そしてそのまま顎まで一気に皮膚と肉を抉り削る。俺の顔には、涙を辿るように傷が出来た。ドクドクと血が溢れる。
「エステル! お前を殺す!」
体が動く。怒りと憎しみで、痛みも疲労も感じなくなったからかも知れない。この女を殺す。その強い憎悪だけが、今の俺を支配していた。
ドンッ! 地面を蹴る。その一瞬で俺はエステルとの距離を詰めた。彼女の魔術は強力だが、光を体に纏わせてから放つ。つまり溜めの時間がある。連続では使えない筈だ。
怒りながらも俺は、心の底では何処か冷静に判断していた。戦いの本能のようなものが、勝手に分析しているような感覚だ。
「荊棘(トーン)の拳(ナックル)!」
荊棘(いばら)を魔術で出現させ、拳に纏わせる。
「過剰殺戮乱打(オーバーキル・ラッシュ)!」
圧倒的な拳撃の連打。鋼鉄よりも硬いスカルジャイアントの骨さえ砕く、強烈な威力。
「ふん! 無駄よ!」
だがエステルは巧みな剣捌きで、拳を受け切って行く。何故か剣も壊れない。鋼鉄よりも強度が高いか、魔術で保護されているのだろう。
だがそれも想定内。防がれるのは予想済みだ。
「成長(グローイング)する蔦(アイヴィー)!」
拳を連打しながら叫ぶ。エステルの背後から巨大蔦が高速で伸び、素早く彼女の全身に絡みついて拘束する。
「なっ......! 動けない!」
エステルは必死に抵抗するが無駄だった。この蔦はそう簡単には千切れない。
「母さんの......仇(かたき)!」
俺は拳を振りかぶった。生身の肉体をこの荊棘(トーン)の拳(ナックル)で殴れば、グチャグチャのミンチになってしまうだろう。
だが、憎悪に満ちた俺の心に罪悪感はない。この女を、骨まで粉々にしないと気が済まない。
「待て!」
俺を制止する声。俺とエステルの間に割って入ったのは、青髪の少女。
「止めるなフェイト! この女は母さんを......! 俺の命よりも大事な女性をこの世から消し去ったんだ! そこをどいてくれ!」
「いいや退かぬ。落ち着くのじゃダーザイン。シェフアールは生きておる。エステルの魔術で一時的に別次元に幽閉されておるだけ。こやつが戻そうと思えば、いつでもこの場に戻ってくる」
「何......!」
俺の心に、少しだけ平静さが戻ってくる。
「じゃあ早く! 早く戻せよエステル! じゃないと俺はお前を......!」
「嫌よ。何故邪悪なオークを産み落とした汚らわしい女を、この世に戻さなくてはならないの」
プチン、と頭の中で何かが切れた。
「殺す!」
俺は目の前が真っ赤になったのを感じた。もう、誰も俺を止める事など出来ない、そう思った。
フェイトを避けて、振りかぶった拳を振り下ろす。鈍い手ごたえ。
だがエステルは無事だった。フェイトが、彼女の盾となって俺の荊棘の拳を受け止めていた。確かに避けた筈だったのに、何故だ。
フェイトは長身の大人の姿になっていた。そして俺が殴ろうとしたエステルの顔面を、自身の顔で守っていた。両手を広げて立っている。俺を守ってくれた、母さんのように。
「フェイト......! 何故......!」
俺は恐る恐る拳を引いた。グチャグチャになったフェイトの顔を想像した。だが、彼女の顔は無事だった。自身の肉体時間を巻き戻したのかも知れない。
「何故じゃと? 落ち着けと言っておろうが愚か者。そんな事ではワシの兄上である資格を剥奪するぞ」
フェイトは美しく成長した美女の姿で、眉間に皺を寄せる。そしてフッと笑った。
「お主も気付いておるのじゃろう、ダーザイン。エステルが何者かに操られておると。ワシはそれを戻す術(すべ)を持っておる。ドワーフ国シュタンガインに、それを取りに行っておった。遅くなってすまぬな、『兄上』」
フェイトはそう言って、腰につけたポーチから美しい首飾りを取り出した。