浅瀬を揺蕩う植物の種が、何かの拍子で水面から顔を出すかのように、失っていた意識が浮上する。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
一体いつから? どの位の間?
――気にする意味など、既に無かった。私は命を捨て、このアパートと共に朽ちてゆこうと、決めたのだから。
ふと辺りを見渡せば、先ほどいたはずの部屋には古びたイーゼルが立てかけられており、大きなキャンバスが私を見下ろしていた。
そこに描かれていた絵は、いつの日か母に切り裂かれた作品によく似ていた。
いつの間にか手にしていた木炭を走らせ、私は、記憶を頼りに、絵の続きを描いた。
完成図は覚えている。描くのを咎める母も居ない。現実から切り離されたこの空間では、なんのしがらみもなく自由に筆を動かして良いはずだった。それは、私が心から望んだ自由であるはずなのに、腹に鉛を呑み込んだまま椅子に座るような、重苦しい気分が邪魔をして、一向に手は動かなかった。
描いてゆくうちに気分も変わるだろうと、機械的に木炭をキャンバスに走らせるが、描いても描いても、一向に気は晴れず、ただただ時間だけが過ぎてゆく。
原因は明らかだった。
時折、かたりと部屋の隅から物音がすれば、私はその度にそちらを見やる。
〝誰か〟が帰ってくるのを、期待しているのだ。
自ら差し出された手を振り払った癖に、いざ、真の孤独を手に入れた途端、それが苦痛に変わるだなんて、滑稽だった。
以前の孤独に救われていた頃の自分だったなら、水を得た魚のように、この環境を活かしただろう。例え、バンドアパートがもたらす孤独が生きるための楚ではなかったとしても、やっと得た安寧を存分に感受していたに違いない。
でも、今は違う。
夏生と出会った事で、人と交わる楽しさを知ってしまったからだ。
周りが平和な学生生活を送っている中、荒れた家庭で毎日を生き延びねばならない状況は、私の孤独感に拍車をかけたと思う。そんな中で知った、同じ痛みを知る仲間の存在は大きかった。戦場と化した己の家庭で、負傷しないよう周囲をうかがいながらも、「普通の子」として擬態しながら生きているのが、自分だけでは無いと知って、心強かった。無論、だからといって、全てが解決するわけではない。
夏生と私とは、生まれ持った素質も周囲の環境も全く違う。私は夏生のように強く生きられやしないし、彼に自分を導く王子様役をひっ被せるのも、身の程知らずであると痛感している。
それでも、気にかけてくれて嬉しかった。彼とのひとときは、この上ない安らぎだったし、交わした言葉によって、泥に沈んだ私の心は一つずつ浮上した。魂の深くに付着して、二度と落ちないだろうと思っていた泥汚れも、彼と接しているうちに、清い水で丁寧に洗い流されたかのようになった。
嬉しかったのは、夏生との出会いだけではなかった。
夏生が母によって転倒させられ、意識を失った時。夏生を庇って私に敵意を見せていた愛美さんが、最後には、私を信頼して道を通してくれた瞬間。
心の底から私の存在を歓迎しているとは思えなかった、夏生のバンド仲間がスタジオで練習風景を見せてくれたとき、彼らの音楽に感激した私の様子を見て、硬かった表情が笑顔に変わっていった瞬間。
決して友好的ではない相手とも、罵られる以外の関係性が築けたことに驚いたし、嬉しかった。
どんなに頑張っても母に信用すらされなかった私が、ものの数分で、敵対視されていた愛美さんから、ある種の信頼を得たのだ。それは愛美さん側に、ある種の度量があった事が大きいけれど、私が全く信用に値しない存在だったなら、結論は変わっていたはずなのだ。「こいつは逃亡しない」と判断したからこそ、彼女は私を母の元へ向かわせたのだろうから。
母を刺激しないように、気に入ってもらえるように神経をすり減らして振る舞っていた自分が、哀れに思えてきた。
夏生達との関係性を自然現象に例えるなら、植物に水をやると花が咲くようなものだ。
対する母との関係性はどうだろう。母へ注ぐ情の全てが、じょうろで砂漠に水を撒くかのような、実りのない徒労に思えた。少なくとも、アルコール漬けである〝現在の母〟に関しては。
もっと早くに、夏生達のような心ある人達と出会えたなら。そうだったならきっと、最初からバンドアパートに居場所を見出すような真似はしなかったんじゃないだろうか。
かつての私は確かに、孤独に安らぎを見出した。でもそれは、母と二人きりよりは一人でいた方が安全だったから。私は孤独を居場所にするしか精神の安定を保てなかっただけで、決して、心から一人になりたかったわけではないのだと、今ならはっきりと解る。
ひきこもって周囲の人々をシャットアウトするのではなく、自ら、誰かに助けを求めるべきだったのかもしれない。しかし、私には難しかった。
ふと視線を逸らせば、部屋の隅にはスクールバッグが無造作に投げ捨てられている。バッグのポケットから、アクリルキーホルダーが顔を出していた。
キーホルダーをくれたあの子は、元気だろうか。今何をしているのだろう。私と一時だけでも関わったことを、後悔しているかもしれないと思うと、居ても立ってもいられない。
あの子が私から離れたのを責めているのではない。そんな資格なんて無い。誰だって、得体の知れない攻撃からは身を守る権利があるのだから。ただ、私もあの子との訣別をきっかけに、自分が傷つきそうな人間関係を徹底的に避けて、心を守るようになった。それが、今の臆病な自分に繋がっているのだとすると、あの子との決別が、今日の選択の原点のように思えた。
いつの間にか室内に谺していた、時計の秒針が時を刻む音が、私の理性を狂気に追いたてているように聞こえはじめた。
後悔と無念が濁流のように全身に流れ込み、わなわなと震えが止まらない。どんなに後悔したとて、もうどうにもならないという事実だけが目の前に聳え立ち、時が暴走したかのように、様々な思い出がフラッシュウバックした。たまらず、木炭を投げ捨てて頭を抱え、コンクリートの床四つん這いになって泣き叫ぶ。
その時であった。
ザザ、という砂嵐のようなノイズが、秒針の音をかき消した。
私はなんとなしに、音のする方へ首を傾ける。乱雑に放り投げられた私のスクールバッグの奥に、古びたラジオの姿が見えた。
あんなもの、さっきまであったっけ……?
そう不審に思った刹那。一際大きなノイズ音が流れた後に、私は耳を疑うことになる。
【さて次の曲は……のデビュー曲……から、『バンドアパート』】
途切れ途切れだったが、そのアナウンスは確かに聞いたことのある声だった。――いや、聴きたくてたまらなかった声と言って良い。
息を飲んだ次の瞬間、ラジオから流れてきたギターの旋律は、間違いなく、バンドアパートの幽霊が演奏していた物――夏生達が演奏していた曲だったのだ。
私はラジオに飛びつくようにして、流れてくる音楽を貪り聴いた。しかし、電波がうまく入らないのだろう。ラジオから流れてくる音声は途切れ途切れで、ついにはザーというノイズの音にかき消されてしまう。
夏生が生きてる‼
良かった! 良かった‼ 無事だったんだ‼
それだけじゃない、デビュー曲って言ってた! 夏生達、プロになったんだ! すごい! 苦難を全て乗り越えて、ついに結果を出したんだ!
溢れる涙を拳でぬぐい、ラジオをつかんで部屋の外へ出た。いつかの、何をしてもびくともしなかった鉄のドアが行く手を塞いでいたけれど、それと気がつけないほど私は興奮していたし、扉の方も私のその様子に気圧されたのか、あっけなく開いた。
泣いている場合じゃない、うずくまっている場合じゃない、夏生達の音楽を――彼らの努力の結晶を――聴きたい!
その思いだけを胸に、私は必死でラジオの電波が入る場所を探して、アパート内を走り回った。直感を頼りに廊下を走ると、すぐに階段の踊り場にたどり着く。まるで、バンドアパートが私を行くべき方向へ導いてくれているかのようだった。
転げ落ちそうになりながらも階段を登り切ると、屋上を隔てるドアの前に辿り着いた。体当たりをするかのように扉を開けて、屋上へ踊り出ると、ラジオを天高く掲げた。
電波の届いたラジオが息を吹き返し、晴天の下、夏生の歌声が力強く響き渡る。
空の色を塗り替えてやろうと叫ぶ歌、自分で描いた円から出て来られなくなってしまった少女の歌……すべて、私が夏生を幽霊だと勘違いしていた時に聞いた歌だった。
やがて、ラジオ番組は終了の時刻を迎えたようだ。DJが、今まで流れた曲が収録されたCDアルバムの発売日が、間近にせまっていると告知した。
最後にバンドメンバー達が、アルバムをよろしくお願いします! と叫んで、放送は終わった。
ゆるゆるとラジオを床に置く。不思議と、先ほどまで点灯していた電源ランプは消えていた。
今のは、ただの幻影だろうか。死する者が永遠の孤独に耐えきれずに生み出した、妄想にすぎないのだろうか。一瞬そんな考えが頭によぎったが、きっと違うと、私は確信していた。
夏生はきっと、今、聴いたような現実を生きている。
涙が溢れて止まらない。
光と共に降り注ぐ歌声を全身に浴びて、私はなんだか、生まれ変わったような錯覚に陥ったのだ。
聴きたい曲があるから、まだ死なない。それでいいじゃないか。人生に大義なんて、なくていい。
疲れてしまった? そんな時だってあるさ。その疲れや絶望が永遠には続かないと知った今は、新たな希望のかけらを目の前にして、疲れなんて吹き飛んでしまった。
母の後始末やら、己の進路やら、問題は山積みだ。現実は何一つ変わっていないし、むしろ、目が覚めたら悪化している可能性だってある。
それでも、尊敬している人達の作品が日々の困難の息継ぎとなって、逆境をなんとかやり過ごす糧になるのではないかと、今は思えた。
私は、これといった取り柄もなければ見目も頭も良くはない。不運を跳ね返す強さも無い上に、健全な精神も期待できない。我ながら生きづらい個体であるけれど、何人も私から命を奪う権利などありはしないのだ。それならば、誰に遠慮をするでもなく、日常の延長線上にある些細なことを救いに、私は命を紡ごう。
目を閉じる。あたたかい陽の光が瞼を撫でて、やがて全身が優しい何かに包まれたような感覚に陥った。
「眠っている場合じゃない」
そう強く念じながら、私は優しい何かに、意識を委ねたのだ。