「さて、改めて別れを言おうか。さようなら内申点……内申点」
ブツブツと念仏のようにつぶやくケイが、さすがに可哀相になって、
「だから、俺一人でやるって言ってるだろ。お前らが付き合う必要は無いんだって。第一、ケイは俺の話、信じて無いだろ」
と言った。ケイは引きつった笑みを浮かべる。
「あったりまえだ、信じる訳ないだろ、そんなオカルト話。
誤った道を進もうとするお前を、止められなくて、何が仲間か。
俺達が協力しなきゃ、お前、不法侵入してたろ。俺は考えうる選択肢の中で、一番マシな道を選んだだけだよ
あと、セカンドギターなめんな。俺はイケメンでもなければ人望も無い、スクールカースト底辺野郎だけどな、ギターの腕は確かなんだ。俺なしであの曲が成立すると思うなよ」
ケイの正直な物言いに思わず、噴き出して笑ってしまった。そこまで見抜かれているのならば、言い訳出来ないな。そう覚悟を決めて、演奏準備に入ろうとした俺の耳は、確かにその声を捉えた。とても、同一人物の発した声とは思えない程、弱々しい、ケイの呟きを。
「……正直、信じたい気持ちも、ちょっとはあるんだ。あの子には……目を覚まして欲しい。」
「――そうだな」
メンバーを引き連れてバンドアパートの屋上に来た俺は、「リアリティが大切だから」とか適当な事を言いながら、楽器を設置した。電源が生きていると聞いてそれを拝借し、演奏準備をする。建物の管理人のじいさんはそんな俺達を、屋上の入り口で不満気な表情をしながら、じっと見つめている。
じいさんが語るに、この建物は「説明が難しい現象が時折起こる」には違いないらしく、積極的に関わりあいたくない物件のようだった。そんな物に興味を示す俺達に対しても、早く帰って欲しそうな様子が、ありありと見て取れた。
ともあれ、そこに居られるとちょっと不都合なんだよなぁ。そう思った時だった。シュウが相変わらずの、のんびりした口調で言う。
「本当に居るのかぁ? ここに、あの中学生の幽霊が」
「幽霊じゃない、生き霊だ。縁起でもねー事、言うなよな」
「違いが判んねぇなァ……」
普段は温厚なシュウも、これから行う事に思いを馳せてだろう、顔が引きつっている。
無理を言っているのは百も承知だった。俺とて、今後の学生生活や将来の事を考えれば気が重い。自身の提案がどれだけ仲間を危険に晒す事になるか、想像するだけで、申し訳ない思いでいっぱいだった。それでも、何の根拠も無いのだけれど、こうする事が正しいのだという確信があった。
「夏生の考えてることはさ、なんとなくわかるつもりなんだ。随分付き合いも長いしなぁ」
ゆっくりした言葉のトーンからは信じられない位、手際よくドラムを設置していたシュウが、屈んでいた身を起こして俺を見た。彼のチョコレート色の瞳が、なんだか穏やかに見える。
「もう、後悔したくないんだろ?」
――雪華ちゃんを助けられなかった時みたいに――そう、言葉が続くような気がしたけれど、俺の幼馴染は何も言わなかった。
「手伝うよ」
「――ありがとう」
シュウは照れくさそうに一度だけ笑うと、胎はとうに決まっているのだろう、真っ直ぐな瞳で頷いた。
ちらりと秋川を見れば、視線が交わる。彼もまた、表情が硬い。
「やるって決めたんだろ」
言葉少なに鋭い視線を向ける秋川に、
「ああ、俺たちの音楽を陽に届ける。そして絶対、こっちの世界にあいつの魂を呼び戻してやる!」
と、応える。
秋川は一瞬眩しそうな表情をしたが、すぐに生真面目な表情に戻り、言った。
「俺は、夏生についていく」
「おう、頼んだ!」
夫々の瞳の中から何かを確かめるかのように、メンバーが顔を見合わせた。その時だった。下っ足らずな声が屋上に響く。
「管理人さぁ~ん、すいませぇ~ん、いただいた書類なんですけど、わかんない所があってぇ。ちょっと事務所で書き方教えてくれませんかぁ~?」
アパート内へ戻る扉から、ひょっこりと姿を見せた、見知った顔に頬が緩むのが判った。ハイブリーチの金髪が、ふわり、秋風にそよぐ。原色デザインのミニスカートからすらりと伸びた足をクロスさせ、管理人に甘ったるい声で「お願い」をしているのは、愛美だ。
「マナちゃん! いいよ、いいよ! どこがわかんないのかな~?」
すっかり己の虜になっている初老の男を、うまくこの場から退出するように誘導した少女は、屋上からアパート内へ戻る瞬間に、俺の方をじっと見て、ゆっくりとウインクした。
妄想とも区別のつかない夢物語のような俺の主張をもとに、皆が協力してくれている。ただただ、仲間に感謝するしかなかった。
俺は今一度、雑念をふっきるために、空を見上げて肺の中の空気を吐ききった。視界いっぱいに広がる鱗雲の端の方に、茜が射している。頬を撫でてゆく空気が昼間のそれより冷えていた。変わってゆく季節に呼応するかの如く、己を取り巻く現状も移り変わった。万事は流転するのだ。一生、絶望に漬かっているとは限らない――俺はそれを陽に伝えたくて、ギターピックを持った指先に全神経を集中させた。
秋空にギターを掻き鳴らす音が駆け上がる。同じフレーズを繰り返し、繰り返し。数度目のフレーズが終わる瞬間に、ケイのギターが俺の奏でる主旋律を追いかけた。まるで双子の兄弟のように、よく似ているけれど少しだけ違うメロディーが並走してゆく。二本のギターの失踪感を、ベースラインが引き立てた。控えめながらも存在感のある秋川のベースに少し遅れて、シュウのドラムが加わり、一つの音楽が産声をあげる。
――願わくば、目の前に立ちはだかるクソッタレな現状を塗り替えられますように。霧が晴れるかのように、陽を取り囲む悪夢のような環境が、一転しますように――。俺は、ひたすら祈った。
もしかしたらこの祈りは、陽にとって余計なお節介なのかもしれない。それでも、俺達が共に過ごした時間には、価値があったと信じている。もし、陽も同じ気持ちで居てくれたなら、呼びかけに応えてくれるんじゃないか――そんな事を考えていたその時だった。
ふと、誰かの視線を感じてそちらに目をやると、屋上の端にぼうと光るものが見えた。目を凝らして観察すると、光の塊に見えたそれは、細かな炎が集まって、人の像を形成しているのだった。まるで質の悪い立体映像のような、その人物の顔を見て仰天する――陽の姿だった。
予期せぬ衝撃に貫かれ、思わず演奏していた手を止めてしまう。
「マジかよ……」
ケイの驚愕の声につられて、シュウと秋川もそちらを見た。二人ともはっと息を飲む。
「そっかぁ、聞いてくれてんだぁ」
「生霊のファンか、拍が付きそうなエピソードだな」
皆にも陽の姿が見えているのだ。しかし誰も、恐怖に慄いて逃げ出そうとはしなかったし、無理してその場に留まっている様子でもなかった。各々、陽という少女の置かれた境遇に、抱く想いがあるかも知れない。皆の好意的な態度を見て、俺はなんと言葉にすれば良いのか判らない位、胸がいっぱいになった。
ギターピックを握った指先に意識を集中して、再び主旋律を弾き始めると、皆も同じように続いてくれた。音楽に呼応して、陽の姿が心なしか、はっきりと見え始めた時だった。
「何やっとるんじゃおまえら‼」
バン! と勢いよく開かれた扉の中から、憤怒の形相で俺たちを睨みつける、管理人のじいさんが飛び出してきた。その後ろに、両手で「ごめんね」のポーズを取りながら、苦笑している愛美の姿が見える。時間稼ぎにも、限度がある。演奏の音が聴こえればじいさんだって、現場に駆け付けざるを得ないのは、初めからわかっていた。
――謝るなよ、愛美は何も悪くないし、管理人さんの反応も尤もだ――普段だったらそう思えるはずなのに、陽の姿にノイズが走り、薄ぼやけてきたのを見た途端、俺の意識は閃光が走ったみたいに真っ白になって、何も考えられなくなった。全身の血が逆流して頭に上ってゆく。目の前のじいさんが、俺と陽の交信を邪魔する障害物か何かに思えて、腹の底から憎らしかった。
一人の少女の命が懸かっているというのに、どうして大人はいつも無理解なのか――そう思ったところで、こんな突拍子の無い話の全容など説明のしようがない。だったら、ただただ時間が欲しかった。陽に想いを届けるだけの、十分な時間が。それすら叶わないという目の前の現実が、理不尽極まりなく思えたのだ。
俺は気がついたら、ギターを頭上に大きく振りかぶり、
「邪魔するんじゃねーよ、クソ親父‼」
と、管理人のじいさんに応戦していた。その場に居る誰もがぎょっとして、俺を見た、その時だった。
〈見つけた!〉
ノイズがかった陽の声が、その場に大きく響いたのだ。沸騰した血液がさっと冷える威力が、その声にはあった。背筋が凍り付いた俺は、すぐに振りかぶっていたギターを下ろして、陽の生き霊がいた方角を見る。そこには、目を爛々と輝かせた少女の姿があった。しかしその背後には、小さな炎の粒が大量に揺らめいており、明らかに、彼女がこの世の存在ではない事を示していた。目の前に広がっているのは、それ程異様な光景だった。
「ぎゃあああああ‼ 出たあああああ‼」
管理人のじいさんはそう叫ぶと、俺たちの事を放り出して一目散に逃げ出してしまった。絶叫に反応してか、陽の姿もゆらりと大きく揺れて、かき消えてしまう。水を打った様な静寂だけが、後に残された。
「ここ……〝出る〟って噂、本当だったんだ……」
愛美が引きつったように言う。その感想にはっと正気に返ったシュウが、一同を促す。
「管理人さんが怖がりだったのは大チャンスだ。とりあえず俺たちも退散しよう」
「誰かさんが暴力事件を起こさないうちに、今日は解散だな」
「……すまん」
「本当だよ、心から反省しろ」
秋川もケイも胸を撫でおろしながら、それぞれ、後片付けをし始めた。
自分でも、どうしてあそこまで激高してしまったのか解らなかった。ピリピリと痺れの残る手で、ギターをケースにしまいこむ。
――陽に、想いは届いたのだろうか――
救いを求めてそらを見る。夕日に照らされ赤く染まった木々の、煌めく姿が琥珀に見えた。