一瞬、祈り続けているうちに、眠ってしまったのだろうかと思った。
漂っていた意識がすうっと掬い上げられると、意識せず瞼が開いてゆく。天井から降り注ぐ蛍光灯の、健全な光が眩しい。まるで網膜が焼かれるかのような刺激に慣れようと、目を瞬いた。すると、視界に真っ白な天井が飛び込んでくる。
恐る恐る身をおこし、周囲の様子を伺った。予想通り、俺は病室の一室に居るようだった。後頭部が激しく痛んだので、思わず顔を下に向けて、庇うように頭を抱える。
先程までの体験した事の記憶は、細部まで違わず鮮明に覚えていた。雪華への後悔を背負って生きようと決めた事も――陽をアパートから救えなかった事も。
――陽はどうなったのだろう――
バンドアパートで出会った陽の言葉が本当なら、彼女こそ無傷ではないはずなのだ。全身が戦慄きそうになる程の強烈な不安感で、胸の中がいっぱいになった。正気を置いてけぼりにしないよう、固く目をつぶってやり過ごす。
生き伸びた喜びよりも、陽と解り合えなかった喪失感の方が心中を大きく占めていて、頭が痛い以外は己の体に異常がなさそうなのも、素直に喜べなかった。
「夏生‼」
悲鳴に似た叫び声が降り注ぐ。入り口を見やれば、秋川が見舞いに来てくれた所だったらしく、泣きそうな顔でこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。普段と全く違う彼の様子に面食らいながらも、今だけは、傍に居たのが彼であった事に安堵した。――彼にはこれから、自分を援護してもらわねばならないからだ――そんな本音を悟られれば、今度こそバンドは解散だな、と、心中で苦笑する。
「良かった……! 無茶するな、すぐに誰か呼んでくるから……!」
止まっていた俺の時間が再び、慌ただしく動き出す。「陽は無事か?」と発したはずの声はかすれ、ただの呼吸音にしかならなかった。再度問おうとするも、バタバタと看護士が病室に入ってきて問診を始めてしまい、タイミングを失ってしまった。
痛いところはありませんか? ご自身のお名前はわかりますか? あなたはどうして病院にいるのか、覚えていますか? ――質問に、ぽつりぽつりと答えてゆく。
どこか人ごとのように成り行きを眺めていた俺だったが、退院できるか判断するための精密検査を終える頃には、心が決まっていた。ベッドの上でぼうっと結果を待つだけの俺を、心底心配してだろう、秋川は普段よりよく喋った。何度目かわからない、
「無事で良かった。本当に」
の言葉の後、俺は後頭部をかばいながら、上半身を起こした。
「なあ、陽は無事か? 四階から飛び降りたって本当なのか?」
秋川の安堵の表情が驚愕に染まる。瞬きの間だけ沈黙があったが、しばらくすると言い辛そうに、俺が意識を失った後の顛末を教えてくれた。
「あの中学生は……一命は取り留めたそうだが、まだ意識は戻らないと聞いている。あの母親が使い物にならなくて、父親が対応しているって話だが……娘があんなに追い詰められたってのに、他人事みたいだっておじさん、怒っていた」
「……親父が?」
「うん。めちゃくちゃ心配してたぞ、ナツの事」
我が子に対して親身にならないのはアンタも同じだろうと、言ってやりたかったが、おそらくは入院関係の手続きをしてくれたのは父だろうと考えると、それが負い目となって口を紡がざるをえない。
腹を割った話は出来ずとも、我が子の危機に対応はする……それは本当に愛情なのだろうか。秋川の言葉を疑いたくはないけれど、「心配している」ことと、「息子との対話を避けること」が共存する父という生き物が、俺には良く解らなかった。今後、対話を重ねれば理解できるようになるのだろうか。その機会は訪れるのだろうか――それらの想いに、今はそっと蓋をする。考えたい事は、他にあるからだ。
「ところで、何で中学生がその、飛び降りたって知ってるんだ?」
「……会ったんだ。陽と。夢の中で」
俺の突拍子の無い言葉を聞いて固まっている秋川の表情を見て、針の先くらい小さな臆病風が吹いた。でも、決めたはずだ。俺はもう逃げたくない。戦うのだと。
「皆に連絡を取ってくれないか。……話したいことがある」
俺の様子に気圧されたのか、秋川は一も二も無く、グループラインにメッセージを投稿した。……数時間後、きっと彼は己の行動を後悔するに違いないと思いながら、俺は秋川に、バンドアパートのことを打ち明けた。
メンバー全員に、バンドアパートで体験した出来事を話し終えると、皆一様に言葉を失っていた。俺の正気が疑われているのは明らかだった。もっとも、逆の立場だったら俺もそんな反応を示しただろうから、仲間を責める気持ちにはなれない。例えこの場の誰もが味方になってくれなかったとしても、俺だけは自分の味方でいてやるつもりでいた。
「廃屋で演奏する⁉ 正気か⁉」
真っ先に声を上げたのは、ケイだった。秋川は目を伏せて、黙って何かを考えこんだまま動かないし、シュウにいたってはぽかんと口を開けたまま、微動だにしない。
「陽は、アパートが俺に授けた、例の〝音楽〟が好きみたいなんだ。あの曲を基に、描けなくなったはずの絵を再び描くほどに。だからもしかしたら、アパートで実際にあの曲を演奏したら、あいつの魂に、想いが届くかもしれない。
皆に、共犯になって欲しいわけじゃないんだ。ただ……そういう事情があったんだと、予め知っておいて貰いたくて……その方が、俺が補導された時にもスムーズだろ?」
「馬鹿か? 補導されたら、学生生活もバンド活動も終わるかも知れないだろ、やめておけよ。第一、そんな荒唐無稽な話、俺は信じられないね」
容赦なく、俺に意見するケイの言葉を聞いて、ぽかんとしていたシュウがふと、我に返ったように、言葉を探し出すのがわかった。もぞもぞと居心地が悪そうに体を揺らしながら、
「……夏生の気が済むなら、俺は一緒にやってもいいけどなァ……」
「おいシュウ、意味わかって言ってんのか? 不法侵入だぞ、下手したら停学だ!」
「解らない程、馬鹿じゃないってぇ。――俺がわかんないのは……というか、何より大事だと思うのは……はっきり言うぞ? 夏生が正気かどうか、だ」
三人の視線が一斉に、俺に集まった。自分が狂っていないと証明するにはどうすれば良いのだろう? まさに悪魔の証明だ。メンバーを説得するのを諦めかけた時、秋川がぼそりと呟いた。
「でも確かに、ナツは誰にも知らされていないはずの、あの中学生のその後を知っていた。それだけは説明がつかない」
ケイが噛みつくように反論する。
「無神経な誰かが、あの子の事情を病室で話したのかも知れない。夏生は眠ったまま、それを聞いていたのかもしれないだろ」
「そんな事をするような奴、いるか? 苦しんでいるナツに余計な話を聞かせないように、俺達だって配慮してたろ。」
「知らねぇよ! 愛美あたりが病室で電話かなんかして、くっちゃべった可能性だってあるだろ!」
愛美の名前が出た途端、シュウが顔色を変えた。
「おい、マナを馬鹿にするのもいい加減にしろよ、そんな考え無しな人じゃない!」
「今はそんな話してねーの‼」
みるみるうちに不協和音を奏で始めたメンバーを目前にして、俺は何をどうすれば良いのかわからなくなって、頭を抱えたくなった。人を説得するのがこんなに難しいとは。
シュウとケイが睨みあう。それを取りなすように、秋川が会話に割り込んだ。
「ならいっその事、許可取って演奏したらどうだ? 文化祭のミュージックビデオに使うとか、適当な理由で」
「実はそれも考えた。……許可が下りるかわからないし、それまで陽の命が無事だって保証もない」
俺が言いづらそうに言う傍で、ケイが腕を組んで口を開いた。
「防音設備の無い場所で生演奏だろ? まず、無理だな。でも、撮影だけなら……許可は下りるかも知れない」
愛美を馬鹿にされた怒りをまだ沈め切れていないシュウが、ぶっきらぼうな声で応える。
「大切なのは〝音楽〟なんだろぉ? 映像の許可が下りたってどうしようもない」
ケイはそれを聞いてにやりと微笑み、一同に向き合った。
「だから、映像を撮影するって事にしておいて、実際には演奏しちまえば良い。そうすれば、俺達全員の音色を轟かせてやれるんじゃねぇの?」
***