体の中に収まった臓器が、全部ひっくり返ったような浮遊感に襲われた次の瞬間、俺は陽と居たはずのバンドアパートの一室から、誰に触られた訳でもないのに、文字通り、放り出されていた。全身がバラバラになりそうな程の衝撃が背中に走る。背後に聳え立っていたコンクリートの壁に、しこたま体を打ち付けたのだと気づくと、ずるりずるりと床へ崩れ落ちてしまった。
目の前には閉ざされた鉄の扉があった。いつだか、陽がアパートに閉じ込められた時に見たのと同じ物のようだ。
例え、あの時のようにこの扉をこじ開けて、中に居る陽を無理やり外へ引きずり出した所で、彼女は喜ばないどころか、現実世界へ帰ろうともしないだろう。
俺は、陽の独白に全く共感出来ないでいた。もしかしたら、自分は彼女の言うように、恵まれた環境の中にいるのかも知れない。少女の心を蝕む絶望と、俺が抱える荷物とは、同種の物ではないのかも知れない。しかし、陽が「困難な状況にあっても、頼れる友人が居ることが、心の支えになる」と考えているのなら、彼女の友人リストに、俺を加えれば良いだけの事じゃないか。
シュウだって秋川だってケイだって、夫々痛みを抱えながら生きている。陽を色眼鏡で見たりなんかしない。愛美だって、親との関係性に恵まれず、悩みを抱えている一人だ。もちろん、俺の友人の夫々が、陽と相性が悪い可能性だって、人間だからあるけれど、仲良くなれる可能性だって同程度にある。
未知の可能性は絶望に染まっちゃいないのだ。それなのに、勝手に未来を悪い方に決めて、自分の殻に引きこもって――。
呼吸を整え、きしむ体に鞭を打って立ち上がる。無駄だろう、と思いながらも、ドアノブに手をかけた。
扉は微動だにしない。
何か、事を進展させるための取っ掛かりが無いものか、と、あたりを見回すと、チカッと何かの光が反射した。咄嗟に目をつぶり身構える。何事も起こらないのを確認して恐る恐る目を開くと、いつの間にか、鉄の扉の隣に小さな鏡が出現していた。
さっきまでは無かったはずなのに、と思いながら、無意識にそれを覗き込んで――呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
鏡の奥には、妹の雪華の姿が映っていたからだ。
思わず後ずさってしまった自分は、兄として失格だろうか。早鐘のような胸の鼓動を少しでも落ちつけたくて、こぶしを握りしめた。ゆっくりと息を吐いて肺の中身を空にした後、同じように時間をかけて、冷え冷えとした酸素を取り入れる。今、過呼吸を起こす訳にはいかない。
鏡から目を反らさないようにすると同時に、死に際の妹の姿がフラッシュウバックしないよう、思考に制限をかけながら、雪華の幻影と向き合った。
ふと、秋川が言ってくれた言葉を思い出す。
――夏生は悪くない――
鏡の中の雪華の双眼に、以前は確かにたたえられていた憎悪の感情は、見られなかった。
妹はただ、虚ろな目をして立ち尽くし、俺を眺めているのだった。
その姿を見るなり、唐突に、俺の中のパンドラの箱が開いた。無意識下に封じていた感情が、濁流のように思考を支配してゆく。
――ああ、秋川ごめん。俺はやっぱり〝悪い子〟だ――
母親の注意が妹に向いて〝期待されない子〟となった俺は、確かにとても寂しい思いをした。しかし同時に、母の纏わり付くような過干渉から解放されて、安心もしたのだ。
妹はとても頭の回転が速かった。対する俺は、勉強をしてテストの点数を上げるのは得意だったけれど、地頭は雪華のように良くなかった。その為か時々、会話をしていて俺の愚かさが露呈すると、妹はあからさまに、馬鹿にした目で俺を見下した。時には、要領の悪さや努力不足、頭の回転速度の鈍さを冷笑し、言葉で攻撃することもあった。
それは、よくある兄妹喧嘩なのかも知れない。もちろん、普通の兄妹らしい時間を過ごす事の方が多かったし、そんな短所も包括して、妹を愛している自分は確かに存在するのだ。
しかし、俺はこうも思わなかっただろうか。
「エリート大好きな母さんと、選民意識を隠そうともしないお前、良いコンビじゃねえか。せいぜい仲良くしろよ。
あんたらはどうせ、出来の良い脳味噌と、一流の人生にしか興味が無いんだろう?
なあ雪、おまえだってそうだ。俺みたいな落ちこぼれなんざ、眼中に無いふりして、どうせ影で『努力不足』と嘲ってるんだ。今まで散々俺を馬鹿にしてきたんだ。おまえがそういう奴だってのは、わかってる。
そんな妹なのに、〝兄だから〟守らなければならない。なんて理不尽なんだ!
人を虫けらのように見下しておいて、都合の良い時だけ泣いて助けを求めるお前の事が、大嫌いだったよ、雪華」
ああそうか、と、俺は、どうして雪華を虐待の生け贄として差し出したのか、今はっきりと理解した。
もちろん、俺自身を守るためというのが一番の理由だけれど、それだけじゃない。兄の庇護を求めながらも、ふとした瞬間に兄の知性を見下す妹が、憎かったからだ。
必死にあいつを庇って、多少なりとも雪華は俺を頼りにしたかも知れない。ある種の尊敬の念を抱いたかも知れない。けれど、俺が臆病者を脱せられないように、雪華の中にある、知性で劣る兄を侮るという悪癖が消えてなくなった訳ではなかった。妹にとってそれは、間違い探しで間違いを探すかのような、悪気の無い物だったのかも知れないけれど、どうあがいても補填出来ない己の欠損を、馬鹿にされるほど、屈辱的な事も無い。
そんな事をするようなあいつは、恩知らずの〝悪い子〟だ。
今更、母さんに何を言われようがどんなに歪んだ躾をされようが、知らねえよ。だってお前は、苛烈な躾が必要な程、〝悪い子〟なんだから――。
妹の形をした幻影の双眸に、憎しみの炎が宿って見えたのは他でもない、俺が雪華を憎んでいたからだ。勿論、〝愛していた〟のも本当だ。しかし、〝憎んでいた〟のも確かなのだ。
全身が熱い。視界が黒い砂粒に蝕まれ、頭がガンガンと痛かった。まるで、熱暴走したコンピューターにでもなってしまったかのようだ。正気という名の船が、感情の津波に押し流されてしまわないよう、錨を必要とした俺は、鏡が掛けられているコンクリートの壁を力一杯殴りつけた。痛みを起点にゆっくりと旋回する意識を、理性に叩き起こしてもらう。
もう一度ゆっくりと深呼吸をして、鏡の中の妹と目を合わせた。
「雪は、俺にどうして欲しい?」
――俺が死んだら、お前の気は晴れるのか?――
先程まで陽に、生きる希望を説いておきながら、同じ舌で「お前の気が済むのなら、死者の国へ連れて行け」と言おうとしている。自分の身勝手さを再確認した。
しかしながら思うのだ。己の罪を忘れ、生を希求する事は、はたして罪に値するのだろうか、と。
俺は、妹を憎んだ。
母の精神的虐待の矛先が、自分から逸れた事に安心した。
――それらは、紛れもない真実だ。それだけが全てでは無いけれど、真実には違いない。
俺はやっと、自分の記憶の底にある氷の扉から、抑圧していた感情を取り出せたような気がした。それは、全身が四方八方にちぎれてしまいそうな程、痛みを伴う作業だったけれど、受け入れなければならないように思えた。
「ごめんな、雪、兄ちゃん、戦えばよかったんだ。
何が〝戦友〟だよ、俺はただの、臆病者の生き残りだっただけだ」
涙がとめどなくあふれて、頬を伝う。
鏡の中の雪華は、光を失った目でただただ、こちらを見ていた。瞳に映る闇の色が、先の陽の両目と重なった。
――ああ、そうか、雪。お前も〝疲れてしまった〟のか――。
雪華は、母が認める「理想のこども」になろうと必死に、心を押し殺し続けたのだろう。それが、母の期待に応えるためか、母の暴走をコントロールしながらも、自分の人生を歩もうとしたのか、その両方なのかは判らない。けれども、彼女の心は確かに傷つき、摩耗してしまったように思えるのだ。
俺は、いつか、妹が話して聞かせた『青い鳥』の原作の話を、唐突に思い出していた。
探し求めた幸せの青い鳥の正体は、自宅で飼っていた鳥だった。しかしながら、身近にいたはずの幸せの象徴は、すぐに逃げ出してしまう。そんな内容だった。
幸せは確かに、身近にあるものだ。
どんなに辛い時にでも見いだせる、希望の光は大抵己が側にある。しかしそれは、常に気を配っていなければ、どこかへ飛び去ってしまうような、酷く儚い存在なのではないだろうか。
妹は自分の幸せを、母の支配から守り続けていた。ある、一時までは。
何がきっかけだったのだろう。心の支えにしていた画集を捨てられた時か、それとも受験に失敗した時か。答え合わせは出来ないが、俺は思うのだ。何故妹が、自らの命と希望を手放したのかと言えば、「疲れたから」。その一言につきるのかも知れない。常に神経を尖らせておかなければ保てない、仮初の日常を維持するのは、限界だったのかも知れない。
立ち向かっても、いなしても止まらない、母の教育虐待という荒波に飲み込まれ、決して凪ぐ事のない、平穏の訪れぬ己の人生に、雪華は疲れたんじゃないだろうか。
鏡の中の妹は、俺になんの返答もしてくれなかった。
「助けられなくて、ごめん」
それは腹の底から絞り出す、みじめな謝罪であり、祈りだった。
堪らず、目を閉じる。俺はもう、妹に何もしてやれない。それが、心が引きちぎられる程に、悔しかった。
何を求めているかも判らなければ、無念を晴らしてやる事も出来ない。唯一俺に残された選択肢と言えば、この、体中をめぐる神経すべてを焼きはらってしまいそうな程の後悔を、背負ってゆくことだけなのだ。
それしか出来ないのなら、そうしよう。
憎しみも、自身の狡さも、後悔も、無念も。無かった事にして目を反らすのではなくて、全て自分が生み出した感情なのだと認めよう――そう思った。そうしなければ、本音をぶつけ合わなければならない局面で、尻尾を巻いて逃げかえるような大人になってしまう……そんな気がしたのだ。
突如として、激しい頭痛と嵐のような不安感に襲われる。俺はおそるおそる、目を開いた。
鏡の中に雪華の姿は無く、ボサボサに乱れた髪型の、赤い目をした間抜け面の俺が、こちらを見返していた。
きっと、この瞬間を以って、今後、鏡の中に妹の姿を見つける事は、二度とないだろう――そんな、確信めいた予感がした。
少しの間呆けていると、胸のあたりがぶるりと震えた。驚いて手をやると、胸ポケットからスマートフォンが出てきた。どういう訳だか電源も入っている。
生身の人間ではないはずの俺が今、どうしていつも通り、電子機器が扱えるのか疑問に思わないでもなかったが、その刹那、閃いたアイディアに心を奪われ、細かいことなどどうでも良くなってしまった。そもそも、今置かれているこの状況こそ、常識では考えられない出来事なのだから。
セキュリティロックを解除し、データ保管ファイルを開く。
バンドアパートで、陽の幽霊が歌っていたメロディーをもとに作った、音楽データを選択し、再生ボタンを押した。
スマートフォンの音量を最大にして、鉄で出来た扉にくっつける。ギターを掻き鳴らす音が静寂を切り裂いてゆく。
「なぁ陽、本当に文化祭――俺達を手伝ってくれよ。ライブだけじゃなくて物販もしてさ、CDジャケットはお前が描くんだ。このアパートでミュージックビデオも撮ろうぜ。得意な事を持ち寄って、お祭り騒ぎすんの、楽しいぞ」
扉の奥からは何の返答も無い。
音楽を流し続けながら、俺は祈り続けた。
自分の音楽が人を救うなんて、烏滸がましい事は思っちゃいない。でも、〝創ること〟がどんなに楽しいか、絵を描く陽は知っているはずだ。作品を創りあげてゆく事で己を知って、心の傷を癒してゆく。出来上がった作品は、才能の欠片も見いだせないような駄作かも知れないし、将来に繋がる訳でもないかも知れない。でも、それで良いじゃないか。時間を忘れて没頭できる〝何か〟があれば、少なくとも、死んでいる暇なんて無いのだから。
『救いのゼロ』を『ただのゼロ』にする方法は、どんなにささやかだって構わないから、楽しみや安らぎを見出す事だと俺は思う。そう、大きな幸せなんて望まなくて良い。ほとんどゼロに近い、極々僅かなプラスの感情だとしても、ゼロに利点を見出せなけりゃそれで良いのだ。
もしかしたら、次の日には再び、希死念慮に飲み込まれてしまうかも知れない。絶望の海は深くて広いから、そんな日だってあるだろう。そんな時にはただ、『息継ぎ』をすれば良いのではないだろうか。広大な海原を、たった一度で泳ぎ切る必要など無いのだから。