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第33話

「何でそんな事、しちまったんだよ……何で……」

今にも泣きそうな様子で、顔を顰めている夏生を、私はぼうっとながめていた。膜を一枚隔てた所で物を見るような感覚があって、自分の事なのにどこか他人事のように思えたのだ。自分がした事への後悔も、夏生がそれを悲しんでくれている事への申し訳なさも、どこかへ置き忘れてしまったかのように。

意識を回想から現在に戻して目を見開けば、私たちはバンドアパートの一室に居た。狭くて薄暗いその部屋に、窓は無い。唯一、外界との接点を思わせるのは、夏生の背後にある鉄の扉だけだった。思い出したように点滅する蛍光灯が、何も無い室内を照らし出す。

「でも、あきらめるのはまだ早い。俺達は今、意思疎通が出来ているからな。各々意識はあるってわけだ。

言ったと思うけど、俺、前にも同じ体験をしてんだ。意識を失って、気がついたらこのアパートにいて、部屋の中に閉じ込められた。

ふざけんな、こんな所で死んでたまるか、絶対ここから出てやる! って、強く願ったら、意識が戻った。今回もきっとそうだ!

こんな所で死んでたまるかよ! まだまだやりたい事がたくさんあるんだ。

なあ陽、こんな陰気臭い場所、とっとと出ようぜ!」

「私は……」

すぐに返答出来なかった。そんな私を夏生がじっと見ていて、その視線の強さに圧倒される。

重苦しい沈黙をとりなすように、蛍光灯がジジっと音を立てて瞬いた。

彼は続けた。

「陽の母さんを訴えたりはしないから安心しろ。あれは不幸な事故だった。

――なあ陽、死なないでくれ。あんたがどんなに過酷な環境でがんばってきたか――俺は少し、判ると言っていいと思う。どういう気持ちで自宅のベランダから身を投げたのか、もだ。

それでもさ、死んだら良い事も悪い事も、ゼロになっちゃうだろ。

この困難の後に、すっげー楽しい事が待ってるかもしんないじゃんか。もちろん辛い事だってあるかも知れない。でも、より良く生きられるっていう可能性を捨てちゃったら、本当にそこで終わりだろ?」

私は夏生のアーモンド形の目から視線を外し、寒々しいコンクリートを眺めながら、反論する。

「夏生にとっては〝ゼロ〟になる事がデメリットなんだろうけれど、私には違うんだよ。君には、やりたい事があって、夢があって、頼れる友人に囲まれているから、困難を引き受ける以上の楽しみを、将来に期待できるんじゃないのかな。――私とは、違うんだよ。

 私の周りはさ、もう〝マイナス〟な出来事ばかりにまみれているよ。だからこそ、〝ゼロ〟が救いなんだ。もとの世界に帰った所で、待ち構えているのは逆境だ。これを生き抜いてゆかなければ、平穏な日常を勝ち取れない。神経をすり減らして、息も絶え絶えに命をつないで、それを手に入れた所で、私の未来にそこまでの価値があるとも思えない。

 ねえ夏生、私、もう頑張れないよ。疲れちゃった。

だから……帰りたくない」

そう言った途端、ゴウッという音がして、突風が吹き荒れた。けたたましい音とともに、夏生の背後にあった扉が開かれる。そういえばこのドアは、いつだか私の行く手を阻んだ鉄塊じゃないか。 

眩い閃光が降り注ぎ、穴蔵のような室内を暴力的に照らし出した。鉄のドアがガタガタ揺れて、突風によろけた夏生が体制を崩すと、まるで見えない〝何か〟に勢いよく突き飛ばされたかのように、少年の体が吹っ飛んだ。

〝何か〟が夏生を、無理やりこの部屋から追い出している――私は直感的にそう思った。「生きたい」と切望する彼は、このアパートにとって邪魔な存在なのだ。そう、私と違って。だからきっと〝何か〟が――いや、〝バンドアパート〟が、ここから彼を追い出しにかかっているに違いない。目の前で夏生の体が吹き飛ばされたのに、生きる事を諦めた私の体は誰に触れられることもなく、凪いだ湖の上に立つが如く、ただただ、そこに在るのだから。

 扉の外に夏生の姿が消えるかと思われたその刹那、彼はドアノブにしがみつき、

「俺は――それでもあんたと生きたい」

 そう叫ぶと、こちらに手を差し伸べた。大粒の汗が額に浮かび上がり、形の良い眉が顰められている。ドアノブにしがみついている手の色は真っ白だ。背後に潜む〝誰か〟に、この場から強制退場させられるのを必死で拒んでいる夏生の辛そうな姿を見て、私は彼と相反するように、全身から力が抜けてゆくのがわかった。

「――ありがとう夏生。でも……もう良いよ」

 彼をバンドアパートから解放しなければ。こんな煉獄のような得体の知れない場所に、彼のような善良なる人間が、いつまでも留まっていてはいけない。私の事など忘れて、彼は彼の人生を歩むべきだと思った。

 私の言葉を聞いた夏生が大きく目を見開いたその刹那、彼は部屋の外へ勢いよく放り出された。ガンという重苦しい音と共に扉が閉まり、薄暗い部屋は再び静寂に抱かれる。

 私は、穴蔵に一人取り残される道を選んだ。

 自ら望んだはずの孤独は――かつては私に安らぎを与えてくれた沈黙は――母に絵を切り裂かれたあの時のように、私に寄り添ってはくれなかった。


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