「なんてことすんのよ、この人殺し!」
背後から投げつけられた声に、体がびくりと震えた。階段を転げ落ちてうずくまったまま動かない夏生のそばにかけつけて、介抱しながらも憎悪の目で私を射抜いたのは、愛美さんだった。
母を振り返ると、オロオロと狼狽えつつも「そいつが悪いんだ、そいつが余計な事に首を突っ込むから」とくぐもった声で呟きながら、逃げ出そうとするではないか。
信じられなかった。
唯一、私に親切にしてくれた人に危害を加えた事も、娘には散々偉そうに説教をする癖に、いざと言う時に己の犯した過ちと向き合わず、全て投げ出す卑劣さも。
周囲の心ある大人の何人かが母を止めようとするが、母はその手を振り切り、一目散に逃げ去った。
母に対する憎悪と、すぐに母を制止できなかった自分への嫌悪感で、身体中の血液が沸騰しそうだった。
夏生に呼びかける、愛美さんの悲痛な叫び声が耳を突いて、いてもたってもいられずに立ち上がった。愛美さんは、そんな私を見て目を見張る。
「あんたまで逃げんの?」
私は顔を横にふり、カバンの中からスケッチブックを取り出して、自宅の住所と電話番号を殴り書き、該当ページを破り取った。
「私の連絡先です。身内の責任をもって、母を自首させますから――夏生……先輩を、よろしくお願いいたします」
と言って、紙片を愛美さんに押し付けた。
「ねえ、あたしがあんたのこと、信じると思うわけ?」
嫌悪感を隠そうともしない愛美さんの態度に、挫けそうになる。しかし、ここで逃げてしまえば、私はいよいよ、母と同じになってしまう。
「信じなくて結構です。母を通報してください。――ただ、彼女は今、泥酔しています。万が一、交通事故に巻き込まれたり、自棄になって自殺してしまったりすれば、犯した罪を償えません。私はそれを防ぎます。だから、だからどうか……」
胸の奥から込み上げてきた感情が喉を締め付けて、言葉を掻き消した。
愛美さんは頬を叩かれたような顔をして、丸い目で私をじっと見つめた。
しばらくの間、彼女は私とスケッチブックの切れ端とを交互に見ていたが、やがて何かを決意したような強い目をして、頷いた。
「どなたか、救急車を呼んでください! お願いします! 人が階段から転倒して頭を打ち、意識がありません。お願いします!」
愛美さんはそう叫びながら、夏生の体制を整える。自身のバッグからスマートフォンを取り出した。きっと、警察に通報するのだろう。彼女は私を振り返らなかった。
二人に背を向けて、母を追いかけようとするが、
「ね、あなたさっきの人の関係者なんでしょう? あの男の子のこと、放っておくの?」
一連の流れを見ていたのだろう、年配の女性に行手を阻まれてしまう。
「その子の連絡先は知っています。その子には、他に頼んでいる事があるんです。行かせてあげてください」
愛美さんの強ばった声が、私の背を押した。
「……ごめんなさい、母が、本当に、本当にごめんなさい!」
気がつけば、涙腺が決壊してしまったかの如く、大粒の水滴がとめどなく溢れて、顔面をぐしゃぐしゃにしていた。
目の前に立ちはだかっていた年配の女性の目が見開かれ、息を飲む様子が、滲んだ視界からでもよく見えた。
「……気をつけてね」
まるで、自身が傷つけられたかのような目をしたその女性と、数秒間だけ視線が交わる。その後、すっと目を伏せて道を開けてくれたその人に黙礼をしながら、今度こそ後ろを振り返らずに、私は走った。
夏生は無事だろうか。
色を失った日常に、彩を蘇らせてくれた大切な人。彼が、私を妹のようにしか思っていないのはわかっていた。本当は、それを思うと少しだけ胸が痛むのだけれど、分は弁えているつもりだから、それ以上の事は考えないように、感情に蓋をした。
それでも十分だった。
どんなに家庭が荒れ果てていようとも、夏生と過ごしたキラキラした時間を思い返せば、耐えられた。誰にも見つけてもらえなかった私が、誰かに思い遣られる程の価値を持っているのだと、自信を持つことができた。
どんなに粗末に扱われようと、彼の思いやりは私の心の支えとなって、再び前を向けるようになっていた。
深い関係になりようのない、サバイバー同士で構わない。それでも、私が、夏生を大切に想う事実に、変わりはないのだから。
そんな恩人を、母は傷つけたのだ。
怒りで思考回路が焼き切れてしまいそうになりながら、自宅のあるアパートの、エントランスに駆け込んだ。
拳を叩きつけるようにして、エレベーターを呼び出すボタンを押下する。ブゥンという微かな電子音を耳にしながら、必死で酸素を肺に取り込んだ。震える指先で通学カバンを弄り、何とか鍵を引っ掴む。有名なキャラクターのアクリルキーホルダーが、鍵と一緒にカバンの内ポケットから転げ落ちた。
かつて友達だったあの子とお揃いの、古びたキーホルダーは、印刷が所々はげている。
あの子との関係性を無理やり断ち切ったのも、やはり母だった。
様子のおかしい私を心配したあの子は、自分の母親に私のことを相談したのだ。心配してくれたあの子のお母さんは、母に直接話をした。「困っている事があれば、いつでも力になるから」と。
それを聞いた母は逆上して、「あいつは一体何様なんだ!」と言って、あの子のお母さんの言葉をねじ伏せただけでなく、あろうことか連日のようにあの子たちの家へゆき、玄関を殴りつけては「人を蔑んでさぞかし気分がいいだろうねぇ、この偽善者」と喚き散らしたのだ。近所の人にも有る事無い事吹き込んだせいか、あの子のお母さんは塞ぎ込んでしまって、ついには引っ越してしまった。
母は知らせを聞いた時、「勝った!」と、鼻息荒くふんぞり返っていたけれど、あの子らを追い詰めたその労力を、もっと別の方向に生かしてくれたなら、どんなに人生が好転しただろう。
別に、人生を逆転させる程の行動を起こしてくれなくとも、構わない。父さんから離れて生活するための第一歩として、パートをはじめるのも良い。それが負担ならば、家を綺麗に掃除するとか、使った食器はすぐ洗うとか、そんな小さなことでも良かった。
何より、私が母に心掛けて欲しかったのは、誰かに意見された時、それを自分への攻撃だと受け取ってしまう認知の歪みに、気が付くことだ。
少しでも自らの心を自身で整えられたなら、あの子と私は今でも友達でいられたかも知れない。
父さんも、家にいてくれたかも知れなかった。
母は常に、敵陣の中で孤立奮闘する兵士のように振る舞う人だった。世間はいかに厳しいか、人はどんなに意地悪か。たとえ家族でもいつかは裏切るのだと、呪詛のように幼い私へ吹き込んだ。それを毒と認識せず、己の中に取り入れた私が歳を重ね、母の言動に違和感を覚えるようになった頃には、私の対人能力は同級生たちとは比べ物にならないくらい、低くなっていた。友達を作る方法どころか、同級生に心を開く術すら判らないのだ。何故、いつか裏切る存在に己の本音を話すのか、当時は到底理解できなかった。
母にも、ハリネズミのように振る舞わねばならない理由は、あった。しかし、そこにどんな正当性があったとしても、私から――他の誰からも――未来を奪って良い理由にはなり得ない。
エレベーターが到着したことを告げる電子音が鳴り、私の意識は現実に引き戻された。
扉が開き、鏡に映る己の姿が無遠慮に飛び込んでくる。私は全身汗だくで、白蠟と見紛うほど白い顔色をしていた。尋常ではない様子の自分の姿を、せめて他の住人に見られず済んで良かったと頭の片隅で思いながら、鞄を胸の前で抱え、背を丸めてエレベーターに乗り込んだ。
私はこれから、初めて母に歯向かうのだ――そう思うと、恐怖でどうにかなってしまいそうだった。今まで感情を封じ込めて、寝た子を起こさぬように接してきた母に牙を剥かねばならない。出来るのか、と、問うてみたけれど、一向に答えは返ってこない。
それでも、やるしかない。私が傷ついただけなら沈黙も選べただろうが、被害者が出てしまった以上、それは決定事項だった。鏡の中の自分が、見たこともない位、鋭い目でこちらを睨んでいた。
極彩色のような激しい感情を唾液とともに飲み干した。胸やけでもしそうだった。
エレベーターが自宅のある四階に到着した事を知らせる電子音が、決意を鈍らせないためのゴングに聞こえる。
震える手で開錠して玄関の扉を開く。酷いアルコール臭がした。足元の覚束ないままリビングへ向かうと、部屋の隅に巨体が縮こまっていた。悪夢から逃れるためにグラスを煽りつつ、不安そうに己を描き抱く、脂肪にまみれたその姿を見て、私は感情が摩耗してしまったかの如く、「何かの化け物のようだ」と思った。化け物に至るまでの道程を悲しむ事なく、憐れむでもなく、討伐の対象である目の前の生き物に対して一瞬の間だけ、憎しみを忘れた。
化け物の目はひんむかれていて、物陰から敵でも出てくるのかと勘違いしそうな程、怯えきっていた。震えながら酒を浴びるように飲む、この惨めな生き物が、私の母なのだ。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。どうして……どうして。
「あんたのせいだ! あんたが真っ直ぐ家に帰って来ていたら、こんな事にはならなかった!」
かつての母は、こんな事を言う卑劣な人ではなかったはずなのに。こんなにも他責思考に染まり、自身を省みなくなるなんて。
私は絶望で目の前が真っ暗になるような感覚に襲われた。心の中に墨汁でもぶちまけたかのように、余白の無い漆黒が魂の中心に在る。
「自首して。逃げちゃ駄目」
思ったよりスムーズに口から出た言葉は、母の鼓膜を素通りしている事だろう。自身の強張った声を聞いていると、幼い頃、母と過ごした思い出が、理性にまとわりついた。それは、幼い頃ショッピングモールで体験した、機械にカラメルを入れて作る、綿あめが出来上がる工程に似ていた。割り箸に少しずつ、靄のような最初の綿あめが引っかかり、その上に新しいあめが積み重なって、どんどんと大きくなり、ふわふわした雲のような形が作られてゆく、その様だ。
過去に、母と過ごした優しい思い出は、「自首させなくちゃいけない」だの「母を人として正しい道に引き戻さないと」などという理性の柱を、少しずつ確実に覆い隠していった。気が付いたなら、割り箸よりも綿あめばかりが目につくのと同じで、私の頭の中は「目の前の現実を回避する為に、私に何か出来た事があったんじゃないか。母を化け物にしないための魔法や、あの子や夏生を傷つけなくて済んだ分岐点を、私が見落としてしまったばっかりに、こんな事態になっているのではないか」という、後悔の念でいっぱいになってゆく。理性の柱が折れてなくなってしまいそうなほどに肥大した、その感情に泣き叫びたくなった。
「うるさい!」
そんな私の感傷を、母の怒号が打ち砕く。同時に酒瓶が飛んできて、内臓がぐるりと反転したような不快感に襲われる。頭に走る激しい痛みが、ガラスの割れる音を搔き消して、キインという耳鳴りとともに、思考が泥の中に沈む。思わず座り込んで頭に手をやると、手のひらがドロリと血で塗れた。
チカチカする視界の隅に、憤怒の形相の化け物が、肩を怒らせてこちらへやってくるのが見える。希望の灯を吹き消してゆく、いつもの臆病風は吹かなかった。
「いいかげんにしろよおおおお!」
爆発した怒りが、嵐のように体中を吹き荒れた。母が私の胸倉をつかむ。並行感覚のはっきりしないままその手を振り払って、私は思いっきり母を突き飛ばした。
「ぎゃ」という蛙がつぶれたような声がしたかと思うと、母の巨体はあっけなくひっくり返り、テーブルの角にガンと頭を打って沈んでいった。そのまま微動だにしない母を、荒い呼吸のまま見守っていたが、いつまでたっても彼女は起き上がらないのだった。
床に這いつくばって脈を図り、母の命があることを確認した私は、そのままごろりと床に転がった。後頭部を突き抜けてゆく激痛が、私を狂気の世界から日常へと引きずり降ろす。場違いの乾いた笑い声が、リビングに力なく響いてゆく。
一向に収まらない頭の痛みが正常な判断力を奪ったのだろうか、それとも、私の中にあった十代特有の潔癖な正義感がそうさせたのだろうか。
私はのろのろとした動作で固定電話の受話器をあげて、まずは救急車を呼んだ。その頃にはとっくに、「私の人生は終わったのだ」と、確信していた。
いつものように冷静であったならきっと、自分の頭部の傷を考慮してもらえるなら、正当防衛と判断されるだろうと思えたし、夏生と母が争った際の目撃証言などから、家庭事情を汲み取ってもらえたかもしれないと、気づけただろう。
しかし、その時の私は、そうは思えなかった。
己の中に潜む激しい怒りと攻撃性が、実際に人を傷つけてしまった事への衝撃。母を非難しておきながら、結局自分も同じ過ちを犯してしまったという事実が、インクの染みのようにべったりと胸の中に広がってゆく。これ以上生きていると、母のような人間になってしまうのではないかという恐怖が、私の思考回路の核の部分を串刺しにしていた。
無様に転がっている母の体をぼんやりと眺めていると、その場ですべてを投げ捨てて「ごめんなさい」と泣き叫びたい衝動に襲われる。これだけ傷つけられながらも、彼女に非があったとしても、心から母を憎み切れない、子としての性を実感した途端、視界が滲んで、乾いた笑い声が嗚咽へと変わった。
母の暴力や暴言を憎む感情の最深部には氷扉があって、私はその扉の中に、直視していたら日常に差し支えるような感情を放り込んで封じている。その中の一つであった幼子の自分が「母に救いがあったならどれだけよかったか!」と泣きわめいていた。あわてて氷扉の前に立ってきつく施錠をしたところで、一度気が付いてしまった泣き声を、聞こえないようにする事は出来なかった。
母を救うどころか傷つけた自分、反面教師にしていた、化け物である母と同じ立場になってしまった自分……。どの自分も許せない存在であった。〝ああは成りたくない〟と。〝あのように、在ってはならない〟と、強く自分を律しながら、理不尽に屈せず今日まで来たはずだったのに。心の支えはあっけなく折れたのだ。
ゆっくりと、視界から色彩が抜け落ちてゆく。彩も音も消えた無味乾燥な世界を見渡しながら、私はゆっくりとベランダの扉を開けた。ベランダ用のサンダルも履かず、靴下のまま外に出る。柵から下を見下ろしてみれば、人っ子一人、居やしない。大きなアスファルトが無言で私を見返しているだけだった。
ふと、空を見上げてみた。明日も晴天間違いなしの雲一つない満点の星空をゆっくり見渡してから、目を閉じる。
実際の所、何が決定打になったかと問われればうまく説明出来ない。ひたすらに、夏生に申し訳ないという気持ち、身内が罪を背負った事への絶望、将来に希望など見いだせない現状――人を傷つけたという事実。すべてが混ざりあって出来上がった漆黒が、意識を蝕んでゆく。
私は母と同じように、現実から逃げた。
ベランダの柵から、そらに身躍らせながら、私は最後まで己に失望し続けた。