力任せにドアを押したり引いたり、体当たりをしたりして、最終的に蹴り飛ばしてもみたけれど、扉はびくともしなかった。
いよいよ、電話で連絡をして外部に助けを求めようかと言い合うも、二人の、親に知られないようなんとかしたいという思いが、解決にむかうための足を引っ張っていた。
閉じ込められてからどれくらいの時間が経ったのか、確認しようとして、スマートフォンの電源を切っていたことを思い出す。近くに窓も無いため、外の様子から時間の経過を判断するのも難しい。疲れの滲む陽の声が、扉の向こうから聞こえた。
「この場所には何度もスケッチをしに来ているのに、こんな現象初めてだよ。このドアを見るのもね」
「なんだ、怪奇現象を目の当たりにしておいて、随分冷静だな」
「そんな訳ないでしょ、わざわざ騒がないだけだよ。ここから一生出れないのか、不法侵入で突き出されるのか――運良くどちらからも免れられたとしても、帰宅時間が遅すぎるって、母さんの嫌味からは逃れられない。
いっそ、このまま時間が止まってくれたら良いのに」
一瞬、何と言えば良いのかわからなかった。
バンドアパートへ行こうと言い出したのは陽だったけれど、寄り道をすること事体、陽の母親はよく思わないと、俺は知っていたはずだ。だったら最初から、この冒険を止めるべきだったのかも知れない。それなのに俺といえば、あの音楽の正体を突き止めることばかり。陽の事情など、頭からすっぽりと抜け落ちていた。
陽はまるで俺の考えを読んだかのように、言う。
「言っておくけど、夏生は悪くないから。
――正直さ、美術部に行くのはしんどいんだけど、真っ直ぐ家に帰るのも嫌だったんだ。だから今日、夏生と会わなくてもここに来て、ぼんやりするつもりでいたの。
この御時世、お金の無い中学生の居場所なんて、家か図書館と相場が決まっているのにさ。ここで偶然良いスケッチが書けたからって、勝手に居場所扱いしたから、おばけが怒ったのかも知れないね」
家が安息の地ではない以上、中学生の陽が行ける場所なんて限られている。唯一、心を開放できる場所がオカルトスポットだったなんて、あんまりな話だ。
俺は一瞬、夜露に濡れた草が足にまとわりつく感触を、思い出していた。瞼の裏に、蛍の姿がちらつく。
「家まで送る。で、母さんには、ガラの悪い先輩に脅されて付き合うしかなかったって言え」
「ガラの悪い先輩は、家まで送らないと思うよ。ありがとう、夏生」
ころころと可愛らしい笑い声が転がった。
「――うん、考えが変わった。今時間が止まった所で、ちっとも幸せじゃない」
「そうだな」
「やりたい事も、将来の夢も見失っちゃったし、これからどうすれば良いのかも判らない。それでも私、幸せにはなりたいんだ。こんな所で野垂れ死んではいられない」
「うん」
扉の向こうで、陽が立ち上がる気配を感じた。自分に出来ることを見逃さないよう、俺も立ち上がる。すぐに、ドアノブが回る音と、ドアを全身で押して開けようとする、陽の呻き声が聞こえた。気が気でない思いで見守っていると、わずかな金属音が耳をかすめた。弾かれたように扉を見ると、扉の隙間から細く光が差し込んでいた。わずかながらも、ドアが開いたのだ。
考えるより早く体が動いて、隙間に指を突っ込んだ。利き手を庇う余裕もなく、力ずくで扉をこじ開けようとするが、俺がドアを開けた時には考えられない位、鉄の扉は重く、びくともしなかった。
「もうちょっとだ、陽、がんばれ!」
二人で、獣のような咆哮とともに、必死で扉をこじ開けた。
ガン、と、ドアが勢いよく壁にぶつかる音と衝撃が、全身を貫いた。よろけそうになる体に鞭を打ちながら、俺と陽は部屋から飛び出した。すぐに膝が笑い出し、立っていられなくなった。隣を見れば陽も同じ様な有体で、ずるずると座り込んだかと思うと、力尽きたように床に転がった。
二人とも、しばらくの間は金魚のように、口をはくはくと開閉して呼吸を整えるばかりで、とても会話をする余力など残っていなかった。やがて脳に酸素が行き渡り、怪奇現象から逃れられたのだと理解するも、今度はへにゃへにゃと脱力してしまって、やはり、会話にはならなかった。
「どうして出れたんだろう……」
陽が気力を振り絞るようにして問いかける。俺は必死に、先の出来事を思い返してみた。
「俺の時にはすんなり開いたドアが、どうして陽の時には閉ざされたのか……そしてどうして、再び開いたのか」
答えなど判らないし、証明のしようが無いことは二人ともわかっていた。ましてや、検証しているような時間的余裕も精神的余裕も無い。所詮は仮説に過ぎないが、それでも俺たちは、何か語らなければ落ち着いていられないような心境に陥っていた。
「俺とお前の違いって何だ?」
「……現実を諦めているかどうか……かも知れない」
ごろりと体勢を変え、俺から表情を隠した陽が、呻くように言った。
そういえば、鈍色のドアにたどり着く前、陽は言っていた。「いっそ、このまま時間が止まってくれたら良いのにって思う」と。陽はあの時、現実世界に戻りたくなかったんじゃないだろうか。背を向けたまま黙りこくってしまった少女の様子を見て、俺は思った。
現実のあれこれから解放されて、母親の子宮で眠る胎児に戻ったかのように、このアパートに匿ってもらえたなら……そう感じた陽の弱さが実現して、部屋に閉じ込められたのだとしたら?
俺は勿論、音楽で成功したいという野心を抱いているから、このオカルトアパートにいつまでも留まる理由など無いし、言うまでも無く、現実を諦めてはいない。だから、何の抵抗もなくドアが開いたのだ。
一方で、陽のドアがやっとの思いで開いたのは、何故だったか――「こんな所で時間が止まったって、ちっとも幸せじゃない」――こんな所で野垂れ死にたくないと言った少女の声が、脳内に蘇る。あの時陽が、諦めかけていた現実と、なんとか対峙しようとしたからこそ、びくともしなかった鉄の扉が開いたのだとしたら?
もしかしたらこの建物は、幽霊達が音楽を奏でるだけの愉快なアパートでは無いのかもしれない。
やっとの思いで外へ出て空を仰ぐと、夕焼けと夕闇が入れ替わる頃合いだった。
俺は、陽を家まで送り届ける事にした。
彼女は最後まで遠慮していたし、俺も自身の選択が裏目に出ないかどうか、危惧しなかったと言えば嘘になる。陽の母親が、陽を叱り飛ばす様は容易に想像できるけれど、彼女が俺の存在をどのように受け止めるかが判らない。家に送り届けることで、余計な誤解を生む可能性も無きにしも非ず、だ。しかし、陽を一人で帰して帰り道に事件にでも巻き込まれたりしたら、本末転倒である。
「どうせ叱られるならひとりぼっちより、二人の方が良いだろ」
だなんて軽口を叩いてみせたけれど、胸の内には暗雲が立ち込めていた。もちろん、そんな様子を気取られ無いよう、感情を押し隠すのは忘れない。
枝垂れ桜の小道を抜けてしばらく歩くと、大通りへ出た。途端に、車が走り去る音や、塾帰りの学生達の話し声が洪水のように、鼓膜へとなだれ込む。信号が青に変わったことを知らせる電子音を筆頭に、喧騒が俺たちを飲み込んだ。先程バンドアパートで経験した出来事が全て、夢だったのでは無いかと思える程、目の前に広がる光景はいつも通りだった。
俺と陽は言葉少なに、歩道橋へ向かって歩き出す。
喉元過ぎればなんとやら、で、俺たちは先刻まで怪奇現象から逃れようと必死だった自分達を忘れ、次に待ち構えているであろう心配事に、すっかり意識を奪われていた。
歩道橋の階段を登り始めたところで、ふと、視線を感じて後ろを振り返る。すると、歩道橋の手前にあるバス停のベンチに座る、愛美と目が合った。
昨日の今日で会うとは、なんという偶然なのだろうか。お互いに何となく視線を逸らす気になれず、数秒の間見つめ合った。大きく見開いた、愛美のどんぐり眼に懐かしさを覚えていたせいだろう。俺は、陽のひゅう、という、緊張に喉が凍りついた呼吸の音に気がつかなかった。
「こんな時間まで、一体どこほっつき歩いていたの!」
地べたを這いつくばるような、しゃがれ声だった。慌てて声の主を振り返ると、歩道橋の階段を登り切った所で、贅肉を纏った大柄の中年女性が、街灯を背負うようにして仁王立ちし、陽を睨みつけていた。異様にぎらつく双眸とは対照的に、中年女性の全身は頼りなく、ふらふらと左右に揺れている。
「どうしてここがわかったの」
白蠟と見紛うほどの青白い顔をこわばらせて、陽が絞り出すように言う。陽の母親はそれを聞いて――鼻で笑いたかったのだろうか――まるで豚のようにフゴフゴ言いながら嗤った。
「アンタよくこのあたりを絵に描いていたからね。この辺をうろうろしてると思ったのさ。それがまさか、男連れだとは。随分な御身分ですこと。やんなきゃいけない事全部放り出して、何やってんだ!」
「……見たんだ、スケッチブック。勝手に見ないでって言ったのに」
「アタシの金で買った物だ、どう扱おうと勝手だろう! 何が悪い。養ってもらってる身分で偉そうなこと言うんじゃないよ! ほっつき歩いてる娘を探してやったってのに、なんなんだその態度は!」
声量が上がる度に、母親の目が血走って行く。俺の母親も大概な人間だったけれど、背筋が冷えるような狂気を滲ませる人ではなかった。
握り拳に力を込めて陽を庇うように前へ進み出ると、処刑台を前にした囚人のような気分が味わえた。
「樋口さんのお母さんですね。初めまして、俺……私、樋口さんの通う学校の高等部に所属しております、桐乃と申します」
陽の母親がじろりと俺を睨め付けた。アルコール臭が鼻の粘膜をつん裂きそうだった。
俺は礼儀正しい態度を崩さず、言葉を続けた。
本当は言いたい事が山のようにあったのだけれど、何よりも、陽に危害が向かわないよう、立ち回らなければならない。まずは、この場を治めようと考えたのだ。
「帰りが遅くなってしまって、申し訳ございません。実は秋の文化祭で、陽さんに私の展示を是非手伝っていただきたくて! 彼女の描く絵を使わせていただけないか、陽さんに企画の説明をしているうちに、時間を忘れてしまいました。ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。二度と同じようなことの無いよう――」
「信じると思うか?」
野太い声に遮られ、咄嗟に二の句が継げなかった。
底の見えない井戸のように真っ黒な双眼に、心を見透かされたような気がした。
「――陽さんの帰りが遅くなってしまったのは、無理を言ってしまった、俺のせいです。本当です」
再度謝罪の言葉を口にして、頭を下げる。果たしてこの態度が正解なのか、わからない。握った拳が汗で湿っている。どんな罵声を投げつけられるのかと、生唾を飲み込んで身構えた。
「下手な嘘はよすんだね」
先程までは覇気の見られなかった両目に、怒りの炎がゆらめいた。陽の母親は俺を焼き殺すかのような目つきで睨み、ずいと距離を詰める。
大人から、これ程までに強い悪意を向けられたのは初めてで、俺は、視線を逸らさずその場に立っているだけで精一杯だった。しかし、
「俺は、陽さんの絵が好きなんです。それだけです」
これだけは、言わなければならない気がしたのだ。
陽の母親は俺の言葉を聞くなり、目を釣り上げて歯軋りした。そして八つ当たりをするように、陽を怒鳴りつける。
「帰るよ! 家事も勉強もしないで男遊びするような奴の将来は、ホームレス確定だね!」
歩道橋を歩いていた通行人の何人かが、その剣幕にギョッとして足を止めた。俺たちを見ないふりして、そそくさと足早に立ち去るサラリーマンもいれば、厳しい目で、こちらを注視してくれている年配女性も居る。意図はわからないが、スマートフォンで動画でも撮っているのだろう、無遠慮にカメラを向ける女子高生の姿も見えた。
心ある何人かの大人の姿を視界の端で捉えると、じんわりと心強さが湧き上がる。無論、そんなのんびりとしたことを言っている場合ではないのだ。しかし、母の浮気現場を見た後に、妹と二人ぼっちで田舎道を歩いた無力なあの頃の俺と、今の俺は違うのだ。嵐が過ぎ去るのを待つようにして、独りで母の罵倒をやり過ごしたあの頃とも違い、第三者に助けを求めて良いのだと、それを迷惑がる大人ばかりではないと気づけた俺は、途端に冷静になった。
素早くポケットの中に手を入れて、スマートフォンの電源を入れる。何かあった時は記録を残して、警察に通報するつもりだった。
陽の母親が言語になり損ねた言葉の羅列をがなり立て、陽の腕を力ずくで掴もうとした。咄嗟に少女が、体を縮こまらせてそれを避けると、陽の母親の体が大きく傾いた。考えるより先に体が動いて、巨体を支えようとすると、
「触るな! 人の家の事に余計な口を出しやがって!」
暴発した癇癪玉のような勢いで力任せに振り解かれ、俺はそのまま突き飛ばされた。
目に見える光景が全てスローモーションになって、胃がひっくりかえるような浮遊感に襲われる。俺は無様にもがきながら、階段から落下した。
陽の悲鳴が耳をつんざく。後頭部に衝撃が走り、視界が暗転した。