「それじゃあ夏生は、建物に足を踏み入れる前から、この場所を知っていたって事? あらかじめ夢で見ていたから? しかも、さっきまで幽霊バンドの音楽が聴こえてたって⁉︎」
己の立場が〝親切な先輩〟から〝オカルト野郎〟へ降格してしまう可能性に何も思わないわけではなかったが、俺の取り乱し様を間近で見た陽には、下手言い訳など通用しないように思えた。
「夏生って幽霊とか見える人……?」
遠慮がちにこちらを覗き込む少女の表情に、少なくとも嫌悪感は覗いていない。ほっと胸を撫で下ろしつつ、苦笑した。
「いや、全く。――昔、頭の打ち所が悪くて三途の河らしきものは見たけど」
「それって臨死体験じゃん……笑えない」
「俺の霊感についてはどうでいいんだよ。なあ、陽はどう思う? 俺の書いた曲は幽霊バンドのコピーになると思うか? それとも、この場所にインスピレーションを受けただけの、オリジナル?」
少しずつ緊張感が和らいできたようで、少女には笑顔が戻りつつあった。
階段をゆっくりと降りながら、話を続ける。
「私には幽霊の音楽なんて全く聞こえなかったから、夏生のオリジナルにしか思えないよ。そんな所を気にするなんて、案外マジメなんだね」
「当たり前だろ」
「……あれ? ちょっと待って」
オカルト現象に浮き足立った、俺の意識に冷水を浴びせかけたのは、陽の次の一言だった。
「こんな所に扉なんか、あったっけ」
シャボン玉が割れるかのように、夢見心地な気分が離散した。
今更確認するまでもなく、屋上手前まで辿り着くのに、扉などくぐっていないのだから。
あからさまな異物であるその扉は、曇天のような鈍色をしていた。目の前に立ち塞がる鉄塊が、なんだか、自分達をこのアパート内に閉じ込めるためにあるように思えて、全身から汗が吹き出した。
恐る恐る、俺はドアノブを回す。
何の抵抗も無く、扉は開いた。
「何だよ、驚かせやがって」
勝手に妄想を膨らませて臆病風にふかれたのは、他でもない自分だけれど。情けない姿を誤魔化したくて、三下のようなセリフを呟いてしまう。
そのまま扉に体をすべり込ませ、先に外へ出る。後続の陽のためにドアを開けたままにしておこうと、ドアノブに手をかけたその刹那。見えない何者かに、ドアノブにかけた手を勢いよく振り払われた感触が、痛みとともにあった。
「わ、びっくりした」
扉を隔てた向こう側にいる陽の声音からは、不安な様子も切羽詰まった様子も一切感じ取れなかったためだろう。目の前の扉の異様さに気がつくのに、数秒遅れた。
「あれ、おかしいな、このドア……開かない」
俺から見た鈍色の扉には、ドアノブがついていなかった。
これでは、俺側からは扉を開けられない。
陽がドアを押して開けない限り、彼女はアパートに閉じ込められたままになってしまうのだと気がついて、全身から血の気がさぁっと引いた。
落ち着け、落ち着けと自身の内側を撫でるように言い聞かせていると。そんな事情など何も知らない陽は、のんびりと言った。
「夏生? 悪いんだけどそっちから開けてもらえないかな? なんか、このドアびくともしないんだけど……」
「俺だってそうしたいんだけどさ。いいか、落ち着いて聞いて欲しい。まず、何がなんでも、このドアは陽が開けろ」
「どうして? 私、冗談を言ってる訳じゃ無いんだよ。本気で何しても開かないの。助けてもらえない?」
「冗談なんて思ってないし、俺だって意地悪してる訳じゃない。よく聞いてくれ。俺の方から見ると、ドアノブが無いんだ」
「え、何て言った?」
「ドアノブが、無い。お前が扉を押して開けない限り、俺の方からは手も足も出ないんだ」
静寂が垂れ込める。たっぷりと、これ以上は不要な程に。
「嘘でしょ……」
陽の、感情をぐっと抑えたような呻き声が転がり落ちた。