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第27話

 太陽の元で佇むバンドアパートは、昨晩の不気味さなど露ほど感じられぬような、雰囲気のあるただの廃墟だった。

 相変わらず入り口は封鎖されていない。もしかしたら、何か目的があってそうしているのかも知れない。例えば、映画やドラマの撮影に利用する予定があったらどうだろう。

 そう考えてみると、ただの煤けたアパートが、ミュージックビデオの素材にぴったりに思えてくるから不思議なものだ。もっとも、近所で何か撮影をするなんて話があったなら、噂好きの愛美が騒いでいただろうから、その線は薄いように思えたが。

 これが例えば地方の空き家だったなら、誰も住んでいない状態の家にあえて電気や水道を通したままにしておくこともあると言う。建物を壊して更地にするコストよりも、住宅として維持する方が良いと判断する地主がいるらしい、と、ケイが言っていたような気がしたけれど、あいにく俺は地元の名士の家系でもなければ、不動産の財産を持っているわけでもないので、どういった理屈でそんな結論になるのか全く覚えていなかった。ついでに言えば、一見不経済に思えるその地主の判断が、アパートという集合住宅に適応されるかどうかも、わからない。

 俺と陽は、言葉少なにアパート内を見わたした。

 ふと、何の気無しに、陽の抱えているスクールバッグに目が留まる。以前会った時より、荷物が少ないような気がした。

 中等部の敷地内で待ち伏せして初めて知ったが、今日は学校の定める、帰宅時間の早い日だというわけではないそうだ。となれば本来、部活動もあったはずだろうに、陽は終業のチャイムが鳴るとすぐに、校内から出て来たのを思い出す。

「今更だけど、今日は美術部に出なくてよかったのか?」

 用があると待ち伏せた自分が言うことでも無いけれど、と思いながら、何の気なしに呟いた一言だったが、陽が傍目で見てわかる程不自然に、動きを止めた。

 おや、と思うと同時に、胸がざわついた。

 少女の反応に既視感があった。宝物だった画集を捨てられた妹の細い背中が、陽に重なってゆく。疑念は、水桶に少量の墨を垂らしたかのように、緩やかだが確実に広がっていった。

「なんか、あったか?」

 陽はしばらく押し黙っていたが、やがて少しずつ話しだした。


 家で絵を描くと母親が嫌がるため、描くことを少し休んでいるそうだ。陽の母親が言うには、学生の本分である勉強や将来の準備から、現実逃避しているようにしか見えないらしい。〝まともな大人〟になるためにはそんな事をしていてはならないと、絵画の道具を捨てられた事も、一度や二度では無いそうなのだ。

 いつか〝まともな大人〟になってから、絵を描けばいい。画材だって、自分の稼ぎで手に入れればいい。親の金で手に入れた道具を、親が処分して何が悪い、という理屈なのだそうだ。

 創作意欲というものは、そんなにタイミングを調節できるものではないだろう。予期せぬ瞬間に湧き上がるものだ。十年後には描けない作品だってある。

それに、陽くらい理性的ならば、学業と並行して創作活動を行う事だってできたはずだ。

道具に関してはもはや、言及するまでも無い横暴だ。

陽の母親の言うことは、俺には言いがかりにしか思えなかった。

 初めのうちは陽も、逆境に負けるものかと台風をやりすごすように、母親に従順な態度でいたらしい。もちろん、こっそり絵を描いて息抜きをすることは忘れなかったようだが。

 しかし、母親が自分の作品を捨てるようになった時、異変が起きたそうだ。何故かうまく説明はできないが、無理矢理言語化するとすれば、こうなのだと言う。

 心を込めて描いた作品が粗末に扱われて、自分が大切にしてきたものが、母にとってはどうでもいい、処分すべきものなのだと知り。見るも無惨な姿となった、作品という自分の分身を見て、己の魂ごと捨てられているような気になったのだとか。

「何だか、疲れちゃって。絵が描けなくなった」

 とだけ、陽は言った。

 決して軽くない痛みを伴う出来事を、まるで業務報告するかのように淡々と語る少女を前にして、俺は絶句してしまった。

「私ね、小さい頃は、絵が下手くそだったの。それでも、描くのが好きで好きでどうしようもなくて、普通の人の数倍練習をしてやっと、今の水準にいるの。

 プロとして通用しないなんて、嫌ってほどわかってる。だから、就職して趣味で描く以外の選択肢なんて、考えてなかったよ。

 そんな私の絵でも、好きだと言ってくれる人が何人かいる。時々だけど、先生にも褒めてもらえることもあるし、磨けば光る長所もあるって言ってもらえた。

 嬉しかった。頑張ればもっと上手に描けるかも知れない。死ぬまで描いていたらそのうち、一度だけでも、コンクールで賞をもらえる日がくるかも知れない。

 人に認めてもらうことが全てではないけれど、全力で打ち込んだことに結果がついてきてくれたら、こんなに嬉しいことはないよね。

 絵さえ描ければ、どんな困難にも立ち向かえた。――でも、最近はなんか、おかしいんだ。

 想像力がどんどん枯れてゆく。スケッチブックを開いても、鉛筆を握っても、何も描きたいものが無いんだ。描く先に救いがなくなってしまったんだ。

 母さんにどんな酷いことをされても、何度絵を破られても、もっと優れた絵を生み出すための踏み台にすればいい。ずっとそうやって頑張ってきたんだけど……なんか、しんどくなってきちゃった」

 俺は、昔、親に宝物だったCDを壊された時のことを思い出していた。

 自分という人間を構成する根源に危害を加えられた気がして、母を殺してやりたいほどの激情に襲われたのは覚えているけれど、だからと言って、当時から今に至るまで、音楽活動を辞めたいと思ったことは一度も無い。

 妹の亡霊を見るようになって声が出なくなった時も、早く元のように唄いたいと願いはすれど、引退が頭をよぎったことなどなかった。

 音楽を諦めることが何よりも恐怖だった。そんな俺には、陽の気持ちはわからない。どんな言葉をかけていいかもだ。

「疲れたんなら、休めば良い。それが陽の本心なら、大切にして欲しい。また描きたくなったら筆を持てばいいし、他に楽しいことが見つかるかも知れない。好きにしていいと思う。

 ――でももし、本当は描きたいのに、親の言うことを聞かなくちゃいけなくて無理矢理筆を折ろうとしているのなら――賛成できない」

 陽は静かに俺の話を聞いて、

「――ありがとう」

 とだけ言った。

 絵を描くことが生きる糧になるのなら、それを諦めて欲しく無かった。けれど、彼女の事情を詳細に知るわけでもない自分が無責任にそんなことを言えば、さらに少女を傷つけてしまうかも知れない。そう思うと、何を言えばいいのかわからなくなった。

 しばらくの間、二人とも無言で階段を登った。

 足音だけが、あちらこちらで谺する。

 沈黙を破ったのは、陽だった。

「まあ、しばらくは進路のことで忙しくなるし、ちょうど良い休憩時間なのかも知れないよ。悩まなきゃいけないことは、他にもいっぱいあるし」

 気まずさを払拭するためか、先ほどより声のトーンを上げて言う陽の姿が、かえって痛々しく感じられた。

 再び口を紡ぐ陽に、目線で話の続きを促した。少女は何か逡巡するかの如く天を仰ぐ。

「今は母さんから離れることを目標にして踏ん張っているけど、それが叶ったところで人生のゴールじゃないじゃん? ボロボロの内面を隠しながらやっとの思いで立つ場所は、所詮はただのスタートラインで、そこから競争が始まるんだ。

 夏生ならわかってくれると思うから、言うね。

 普通じゃない親のせいで苦労してきた色んなことは、無駄じゃないって信じたいし、意味があった出来事だった、なんて数年後に言えるような自分でありたい。でも、社会にとってそういう苦労って、マイナスな要素でしょ?

 アル中の親で育った子と、一般家庭で育った子と、どちらが採用されるかなんて、答えは火を見るよりも明らか。

 マイナス要員もひっくるめてプラスに変えられるほど、私が強かったらよかったけれど、残念ながらそうじゃない。

 私、ヒステリックな母さんに支離滅裂な理由で怒鳴られ続けたから、いまだに、怒った大人を前にすると頭が真っ白になっちゃうの。

 母さんが誰かに迷惑をかけるかも知れないと思うと、相談できる友達も作れなかった。対人能力が育っていないのに、社会人として上手くやってける気がしない……」

 以前、ガミガミレディこと、小池先生の前で何も言い返さず押し黙っていた陽の姿を思い出した。てっきり、自分の意思で口を噤んでいたのだと思ったが、固まっていたのか。

「母さんを不機嫌な状態のままにしておくと、暴言を言われたり物を捨てられたり、被害が出る。だから、機嫌を取ったり距離を取ったり、刺激しないように立ち振る舞わないと、家に居場所が無かったんだよ。そうやって、親をコントロールしていた割には、私そんなにいい子のフリは得意じゃない。

 残ったのは、声を荒げる相手への恐怖だけ。優先順位とか常識とか吹っ飛んで、ともかく、目の前の相手を宥める方法しか考えられなくなる。

 そんな人間でも生きていけるように、社会って出来ていないじゃない」

「――進学は考えていないのか? 例えば、児童相談所に身元を保護してもらって、親から離れて暮らして、受験する方法もあるって聞いた」

 陽は、虚をつかれたように言葉を失った。たっぷりふた呼吸ほどしてから、力なく言う。

「そういう道もあるんだ。……ずっと、就職して家から出ることしか考えてなかったから、知らなかった」

 猛犬のような家族を持つと、時に、世間一般から情報が隔離されてしまうように思う。外部も下手に助言が出来ないのだ。

 陽の場合、母親が友人家族に攻撃してしまった経験が根本にあって、人を頼りづらいのかも知れない。それに加えてスマートフォンを持っていない為、匿名で誰かに相談したり、情報を得たりも出来ないだろう。寄り道も自由に出来ないならば尚更だ。

 先程知ったばかりの知識で助言をした己を、白い目で眺める別の自分が言った。

 もし、俺たちも児童相談所を頼っていたら、別の結末が待っていたんじゃないのか。妹は、あんなに追い詰められなくて済んだんじゃないのか、と。

 喉の奥が強張ったような気がして、慌てて意識を別にそらす。ここで過呼吸の発作を起こすわけにはいかなかった。

 それでも、後悔は止まなかった。

 俺はどうして、誰かを頼らなかったんだろう。どうして、自分の人生に集中してしまったんだろう。どうして、妹を助けてやれなかったんだろう。

 秋川が言うように、俺も冷静ではいられない精神状態だったのかも知れない。自分の事に集中することで、両親から切り捨てられた自身を、守ろうとしていたのかも知れない。

 答えは足音のように谺せず、ただただ問いだけが脳裏を駆け巡る。

「……陽には誰か、相談出来そうな大人はいるか?」

 その言葉を引き金に、みるみるうちに陽の目から色が失せてゆくのがわかった。少女はすうっと俺から視線を外して、黙りこくってしまう。

 踏み込みすぎただろうか。一瞬、自分の発言を後悔したが、果たしてそれは本当に後悔すべき事なのかどうかすら、わからない。

 沈黙の中、陽に自力で人生を切り開く力が残っていることを、切に願った。

 所在無い手が何気なく、制服のポケットに突っ込んでいた電源の切れたスマートフォンに触れる。ふと、埃が舞うかのように両親の存在が思い出された。

 今頃二人は何を話しているのだろうか。

 母が父に泣きつくと言うことは、再婚相手とは上手くいっていないのだろう。父と母がよりを戻したら――考えるだけでも、吐き気がした。

 父がせめて俺の戦友になってくれたなら、音楽活動をしながらコンビニ経営を手伝うという未来もあったかも知れない。しかし、その未来は自ら閉ざすと決めた。となれば、俺は陽にお節介を焼いている暇など無く、自身の進退にこそ、脳味噌のリソースを割くべきだ。

 万が一、両親が復縁したら、俺は家族としてはやっていけない。母を拒絶すれば、家には居られないだろう。

 どうやって家を出る? 自立する? 高校は中退するしかないのだろうか。

 鉄の塊と化したスマートフォンから手を離す。

 コンクリートを踏みしめる度、目の前の現実から逃げている己の不甲斐なさに、胸をしめつけられる気がした。

 俺は一体何をしているのだろうと、どす黒い気持ちに心を支配されそうになったその刹那。特徴的なメロディーを繰り返し弾く、ギターの音が微かに聴こえた。

「――今の、聴こえたか?」

「え? 何?」

 陽は血の気の引いた青白い顔で、わずかに眉を顰めた。その反応から、俺に確かに聴こえている音が、陽には聴こえていないのがわかる。

 次第に大きくなってゆくギターの音に、全身の水分が沸騰してしまうのでは無いかと思うくらい、高揚する。その曲は確かに、俺が譜面に起こしたメロディーと同じだったからだ。たまらず、階段を駆け上がる。

 陽が何か叫びながら追いかけてくるのが目の端にうつったが、かまっている余裕は無かった。音の正体を突き止めようと屋上へ向かう。

 アパート内に響き渡るメロディーは、不思議な事に、鼓膜に触れているはずなのにふとした瞬間に指の間から砂がこぼれ落ちるかの如く離散して、捉え所のない音の連なりに変わってゆく。まるで、記憶されるのを拒んでいるようだった。

 自分が昨晩データ化した曲のメロディーはしっかり覚えているものの、それが、バンドアパートに谺するこの曲と同一の物なのか、どうしても判別出来なかった。まるで、いくら目をこらしても視点が合わないトリックアートでも鑑賞している気分だ。

 昨夜のように、屋上へ行けば演奏者がいるような気がして、がむしゃらにコンクリートを蹴り上げ、屋上前の扉に駆け寄った。

 音楽が流れているのはやはり屋上からのようで、漏れ聞こえているはずの音の正体が、どうしてもはっきりと掴めない。通常の音の聞こえ方とは明らかに違っているのだ。

 震える吐息を肺から吐き切って、ドアノブを握る。

――ガチャン――

 無機質な金属音が、熱に浮かされた思考を現実に引き戻す。扉には鍵が掛かっていたのだ。

――昨晩は施錠されていなかったのに?

 我に帰った途端、それまで聴こえていたギターの音がふっつりと途切れた。

 以前のように、メロディーを全て忘れてしまってはいないかと思い至れば気が気でなくて、慌てて自分の作曲した唄を口ずさむ。

 どこにも記憶の抜けは無かった。

 安堵のあまり、その場でヘナヘナと座り込んでしまう。

 アパートの亡霊に、「その曲はもうお前の物だ」と言われた気がした。

 授かった贈り物を手放すものか、と、今一度決意する。

 コンクリートにくっつけた足から体熱が奪われてゆくが、そんなもんでよければくれてやれ、という気分だった。

「夏生ってばどうしたの? 大丈夫?」

 少し遅れて、陽が呼吸を乱しながら追いかけてきた。その表情はあからさまに引き攣っており、俺の豹変ぶりに引いているのは明らかだった。

 さて、どうやって事情を説明したものか……『馬鹿の考え休むに似たり』とはよく言ったもので、ああだこうだ思案した末に、俺は全てを陽に打ち明けることにした。



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