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第25話

コンビニの仕事は淡々と進んだ。

 懸念したほど混雑せず、余裕を持って業務をこなす事が出来た。

俺はそそっかしいからびっくりするようなミスをすることもあるけれど、愛想が良いからか、今日はホットスナックの売り上げに貢献できて、気分が良かった。

 そんな時親父は、少し満足気に笑いはするものの、俺を言葉で褒めはしない。

 いつもの事なので特に何も思わず、自分のシフトを終えようとしていた時であった。

 偶然、店内に客が誰も居なくなった瞬間。女性が一人、入店した。随分とやつれていたが身なりは小綺麗で、髪がボサボサに乱れていなかったら、その異様さに気が付きはしなかっただろう。業務中にも拘わらず、思わず体の動きが止まってしまう。それほど、女の纏う空気は尋常ではなかった。

助けが必要な状況だろうか、と、俺は束の間、狼狽えた。

 沈黙を破ったのは、女の方だった。

「ナツ君? おっきくなったわね」

 水分が抜けきって、パサパサになったワンレンロングヘアから覗いた顔を見て、全身の血が引き潮のように遠ざかっていった。

「明菜か? どうした、何かあったのか」

 父が動転したように女の元へ駆け寄ってゆく。

 俺にはそんな態度取った事ないよな、と、他人事のように頭の隅で思ったけれど、それどころじゃなかった。

 指先が震えている。それが、恐怖のためか怒りのためか判らない。

「雪ちゃんが居なくなっちゃって……私……どうして良いか……とんでもない間違いをしてしまったってやっと気がついて……。

 ねえ、あなた、ナツ君、もう一度私たち、家族としてやり直せないかしら。

 辛い思いをさせて、本当にごめんなさい。どうか、どうか許してちょうだいね」

 目の前の女を母と認識した途端、水平線上に消えたはずの血流が、ものすごい勢いで沸騰し、全身を巡った。

「雪は〝居なくなった〟んじゃねぇだろ⁉ 誰のせいで……誰のせいで……っ!

あんたが雪の意志を無視して、追い詰めるような真似ばっかりするから‼ 

やり直す⁉ ふざけんじゃねぇ。どうせ男に捨てられてノコノコ戻ってきたんだろう⁉」

「夏生、やめろ‼」

「なんで止めんだよ‼」

 父は俺に目もくれず、母の方を見つめながら言う。

「母さんの言い分も聞いてみないと、何も判らないだろう」

 その言葉を聞いて、俺は全身の力が抜けていくような錯覚を覚えた。

「――親父はいつもそうだ、俺の言い分は端から聞く気もねえくせに、こいつは無条件に信じるんだよな! 誰が今までアンタの仕事を手伝ったと思ってる⁉」

「親に向かって、なんだその口の聞き方は!」

「親らしい事をしてから言ってみやがれ!」

 一度口に出したら止まらなかった。

 俺にとって母は、人生に立ち塞がる最大の敵だ。しかし父にとっては〝それだけじゃない〟のだろう。母との関係性により、心に傷を負った我が子を、庇うなど考えられやしない程に。それとも俺は父にとって、守るだけの価値の無い存在なのだろうか。

 今までは父に、同じ戦場を生き抜いてきた同志のような連帯感を持っていたが、今、この瞬間に、その感情は打ち砕かれた。

 父も、加害者だ。

 そもそも、両親の仲に何の問題もなければ、我が子に必要以上の干渉をするはずがない。恋愛経験の無い俺にだって、シュウやケイの親を見て、わかる事だってあるのだ。

 母は、自分が抱える不安を、子供で解消していたに過ぎない。だからこそ子供を支配したがり、主体性を無視した暴挙が出来るのだ。まさに、溺れる者は藁をも掴む。

その暴走列車の存在を、見ないふりしていた父が無罪だと、なぜ今まで信じていたのだろう。

 たった一度で構わないから、俺の味方にもなってくれと喚きたかったが、叶わなかった。

俺は父に、切り捨てられたのだから。

 父は最後まで、俺の魂の叫びから目を逸らす事を選んだのだ。

 もしかしたら、俺が知る以外の事情があったのかも知れない。母の暴走にも、訳があるのかも知れない。そうだとしても、それらの理由を受け入れるつもりは無かった。少なくとも、今この瞬間は。

「話をするなら二人でしろよ」

 ぐしゃぐしゃになった心中をひた隠しにして、バックヤードから外へ出た。

ロッカーからひったくるようにして背負った荷物が、異様に軽い。

俺なりに必要な物を、詰めたつもりだったのだけれども。


 怒りを放出するが如く、街をデタラメに歩いてみる。アドレナリンが全身を駆け巡り、ちっとも苦にはならなかった。

 家に帰る気には到底なれず、かといって、幼馴染のシュウの家に押し掛けるにも、愛美の件で言い合いをした為、憚られた。ケイや秋川に頼めば断られないかも知れなかったが、今は一人になりたい気分だった。

 しばらくそうして頭が冷えるのを待っていると、ふと、遠くから聴き覚えのあるメロディーが聴こえて、思わず足を止めた。仕事をする前に歌った、あの曲と同じもの。

 あたりはとっぷりと闇に包まれ、人っ子ひとりいやしない。かろうじて、ついたり消えたりしている街灯を頼りに、周辺の地理関係を思い出す。

帰り道を見失うほど我を忘れていたわけではなかった事に、ほっと胸を撫で下ろした。

 しかしながら、白昼のもとのそれと、雰囲気が随分違っていたからだろうか。

「こんな道、あったか……?」

 いつもなら見向きもしない小道に、異様なまでに惹きつけられたのは。

 枝垂れ桜が鬱蒼としげる、その細い道の最果てに、何やら古びた建物の輪郭が見えた。

 いくら自暴自棄になっているからと言って、事件や犯罪に巻き込まれるのはごめんである。踵を返してその場を去ろうとした刹那、聞こえてきたメロディーに、強烈な衝撃を受けた。

 確かに、聞いたことのある美しい旋律が、建物の中から聴こえたのだ。

 驚いて振り向き、目を凝らしてそちらを見やると、暗闇に慣れた網膜が建物の正体を朧げにうつし出してゆく。

 頭をガンと殴られたような衝撃が走った。すっかり忘却の彼方にあった、謎のアパートでの出来事が、鮮やかに甦ったのだ。

 夢の中で、訳のわからない空間に閉じ込められたこと。そこで天啓のように、傑作を授かったこと。ドアが開かなくなったけれど、この宝物を世に出さずして死ねるかと力づくでドアを破ったこと。そうしたら、手のひらをすり抜けるようにして、贈り物が消え失せてしまった事――。

 口内に耐えがたい渇きを覚えた。対照的に、手のひらは湿っている。

 脳内では警鐘が鳴り響いて止まらないけれど、もし、再びあの傑作を手中に納める事が出来たなら――そう考えたら、気が気ではいられなかった。千載一遇の大チャンスをみすみす逃すほど、俺は才能に恵まれてはいない。

 絞り出した生唾を無理矢理飲み込んで、俺は、ゆっくりと細い道を歩き出した。


 現実で見る廃アパートは、古びてはいるものの随分と小綺麗で、何かの展示会に使っていると言われても、違和感のない佇まいだった。どういうわけか、入り口は閉鎖されていない。

 恐る恐る、建物内に足を踏み入れる。しばらく様子を窺っていたが、静寂が破られる事はなかった。

 建物内を見回すと、ますます動悸が激しくなる。

室内の様子、階段の数、剥き出しのコンクリート……その全てが、夢で見たアパートとそっくり同じだったのだ。夢と現が曖昧になったかのような状況に、眩暈がした。

 よもや、あやかしにでも化かされてはいまいかと頬を軽くつねってみる。鈍い痛みが、我が身に起きている出来事を、現実だと教えてくれた。

 問題の音楽は上の階から聞こえてくるようだった。俺は熱に浮かされたように階段を探した。二人で並んで通れるかギリギリの細い通路を、早歩きで進む。

 階段を一段踏みしめるごとに、忘れていたメロディーが少しずつ、思い出される。記憶の底に沈んだ作品は、羽ばたく瞬間を今か今かと待ち望んでいるようだった。

 パズルのピースがはまって一枚の絵が完成するように、曲の全貌を思い出した頃、俺は屋上の一歩手前にたどり着いていた。実際目にしたのは、分厚い鉄扉一枚なのだが、その扉一枚隔てた向こう側に屋上があると、何故か判ったのだ。

 この摩訶不思議な現象に、戸惑っている暇などなかった。俺にとって大切なのは、〝扉の向こうで、誰かがこの歌を歌っている〟という一点だけだったから。

 意を決して、ドアノブを握る。冷や汗で手が滑りかけたが、気を取り直して再度ドアノブをひねり、屋上へ身を躍らせた。

 空には満点の星が瞬いていた。その下に車のテールライトや、雑居ビルのネオンの光が反射して滲んでいる。

 笑ってしまうほど眩い暗闇の中で、少女は、歌い続けていた。

「――陽?」

 冷水を引っかぶったような気分だった。こんな遅い時間に、こんな訳のわからない場所で、中学生が一体何をしているのか。ありきたりな疑問をぶつけようと口を開きかけたが、こちらに背を向けているにも関わらず、少女の纏う空気があまりにも異様で――さっき会った俺の母親ともまた違う――有体に言えばまるで、幽霊のような様子だったため、言葉が凍りついて出てこなかった。

 陽は歌い終えると、こちらに背を向けたままふつりと黙り込んでしまう。俺の声は、聞こえていないようだった。

 いつものように声をかければいい。何度もそうやって己を奮い立たせるが、喉の奥で凍てついた言葉は、一向に溶けだす素振りを見せない。

 微動だにしない少女の姿が、糸の切れた操り人形のように見えて、背筋が冷える。

 すると突然、二人の間に垂れ込めた静寂を切り裂くかのように、クラクションが鳴り響いた。何故だかわからないけれど、聴き続けるに耐えがたい何かを感じて、俺は思わず、耳を塞いで目を閉じた。

 けたたましい電子音がゆっくりと遠ざかって、ようやく恐る恐る薄目を開けると、確かに目の前に居たはずの陽の姿は、どこにも見当たらなかった。

 決して、見間違いなどではなかった。

 百歩譲って、陽にそっくりな幽霊を見たか、俺の精神が限界を迎えて幻覚を見たかと言う位、〝気のせい〟では片付けられない何かの確信が、胸の中に渦巻いている。

 無意識に、メロディーが唇からこぼれ落ちた。

 陽はどうやってこの曲に辿り着いたのだろう


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