雪華の亡霊が見えるのだと、父に相談は出来なかった。
厳密に言えば以前、正気と狂気の狭間にいるのがどうしても耐えられなくなった時、話してみた事はある。勿論、娘を失った親がそれを聞いてどんな気持ちになるか、想像しなかった訳ではない。しかし、俺はとにかく参っていて、なんでもいいから助けが欲しかったのだ。しかし父は、
「なんて事を言うんだ! 罰当たりな!」
と、怒鳴り散らし、二週間ほど口をきかず、俺の事も無視をし続けたのだ。
それ以来親父には、俺の精神状態を話せないでいる。
父が何故、言葉を荒げたのかはわからない。息子が悪い冗談を言っているように聞こえたのなら、俺に対するとんでもない侮辱だし、病んだ息子の原因が自分たち、親にあると責められたような気がしたのだとしたら、子供に向き合わず徹底して逃げるその姿勢もまた、我が子を侮辱していると言えやしないか。その答え合わせすらさせて貰えず、俺は放っておかれている。
狂気に溺れる俺は、掴もうと思った目の前の藁すらも、掻っ攫われたような絶望に苛まれた。
それでも父の元を離れないのは、彼もまた、戦地を潜り抜けてきた戦友だと思いたいからだろう。
もしかしたら俺が抱えた孤独というものは、娘が自死した絶望よりは、軽い痛みなのかもしれない。好き放題やれる成人目前の男が、親に救いを求めるのはお門違いなのかもしれない。そう言い聞かせ、傷ついたかもしれない心を見ないようにして、目につかない所へ押しやった。
俺が親父にしてやれることがまだあるのなら、手伝ってやるのが、筋なんじゃ無いだろうか。だって、俺が好き勝手やってる間に、妹は死んだんだから。
そう言い聞かせはするものの、四人家族で過ごした戸建てに一人でいる、今のように、ゴミ屑のように放った本心がじくじくと痛む時もあった。
それでも、パンドラの箱を開ける勇気は無かったから、すぐに心に蓋をする。
いつか時がくれば父とも、弱った時には互いの肩をかしたりして支え合える日が来るかもしれない。例え、それが俺の幻想だったとしても、独り立ちの準備が整うその日までは、それなりにやってゆきたい。
この思いが今度こそ、親に対する一方的な片想いとならないよう願いつつ、きつく目を閉じた。胸のあたりはざらついたままだった。
両親と接すると、自分が透明人間になったような錯覚に陥る。
かつて、過干渉にあれこれ指示した母は、俺が自分の言う通りにならないと知ると、呆気なく俺を切り捨てた。父は、「男なんてそんなもんだ」とか言いながら、母を取りなすでもなく、俺とも対話をしなかった。
二人とも、俺という人間を目の前にしながら、それをすり抜けて、向こう側に映る景色ばかりに目をやるのだ。
その後、ひたすら眠りこけて何日か学校を休んだ後、単位数がどうにもならなくなることを恐れて、何とか再び登校し始めた。
いやいや教室に足を踏み入れると、あからさまに室内の空気が以前と違って、驚いた。と言っても、その要因が自分に無いというのはすぐにわかった。
秋川に群がっていた女子の集団が、気持ち良いくらい清々しく解散していたからである。
当の王子様は文庫本を片手に、涼しい顔をして読書中だ。
人の中心に居た彼しか知らなかった俺は少々面食らったが、先日のお礼を言うにはむしろ好都合だと思い直す。過呼吸後に散々休んでおいて、今更どうなんだと思わないでも無いけれど。
秋川の机へ歩いてゆくと、一人、一人とクラスメイトが口を閉ざしていった。足音がやけに耳につく。静けさを不審に思っていると、ふと、遠くでケイが何かを言いたげな顔をしているのが見えた。なんだろうと首をかしげていると、ふと、周囲クラスメイトがあからさまに好奇の視線を、寄こしているのに気が付いた。その暴力的とも言える無遠慮さに、思わず眉を顰める。
当の秋川は俺に存在に気がつくと、少しだけ目を泳がせた後、そっと文庫本を閉じた。
「この間は、ありがとな」
「ああ」
二人とも声が掠れていた。
すぐに目を伏せてしまう秋川の姿が、静かに俺を拒絶しているように見えて、胸の奥が傷んだ。
――もしかしたら、弟さんを心配する気持ちを判ってやれるかも知れない、とか、教室では話しづらい話題も聞いてやれるかも知れない、とか、本人が頼んでもいないお節介が、洪水のように脳裏を通り過ぎていった。そのどれもが「こいつを助けて〝やれるかも知れない〟」と叫んでいる。随分と薄っぺらい同情心だと、眩暈がした。
秋川の伏せられた碧眼を見て得た、切り裂かれそうな痛みこそ、己の本音だ。すなわち、秋川なら分かり合えるかも知れない――否、俺の痛みを、判ってもらえるかも知れないという、身勝手な期待。
一方的に期待しておいて、裏切られた気分になった己の弱さを、呪いたい気分だった。
大人しく自分の席へ戻ろうと踵を返す。その時だった。
「秋川、もう新しい彼氏できちゃったの? さっすがだわ」
あからさまにこの状況を楽しむような下卑た声が飛んできて、面食らった。
何を言われたのか、自分がどんな立ち位置でおちょくられているのか、咄嗟に理解できず、思わず背後を振り返る。俯いて表情こそ伺えなかったが、文庫本を手にしていたはずの秋川の手が、ぎりりと硬く握られて、皮膚に爪が食い込んでいるのが見えた。真っ白に変色した皮膚こそが、彼の心情を雄弁に語っているように思えた。
「何の話だよ」
何がおかしいのか、声をかけてきた同級生は新しいおもちゃを見つけたように、嬉々として近づいてくる。嫌な予感しかしなかった。というのもこの同級生は、普段は俺と接点が全く無いからというだけでなく、人からとやかく言われたくない類の噂話を、あたかもスキャンダルのように自分のグループ内で囃し立てて、自分のカーストを守っているような男だったからだ。
俺自身も槍玉に挙げられたことがある。家庭環境の話題を、何も知らない外野が好き放題、散々騒ぎ立てるという、思い出せば今でも、腸が煮えくり返るあの経験。法律が許すのであれば、今すぐにでもこいつを、三枚に卸してやりたいと思う程、俺は奴が嫌いだった。
そんな男が目を爛々と輝かせて近づいてくるのだ、碌な話が待っているはずがない。
「桐乃は休んでたから、知らねえんだよな」
男はニヤニヤしながらスマートフォンを取り出して、画面を俺に見せつけた。
画面にうつっていたのは、動画投稿を中心としたSNSサイトだった。
男が画面をタップすると、秋川と、彼のバンドメンバーと思われる派手な格好をした男が、甘ったるいキスをする動画が再生された。
「元彼が、別れた腹いせに動画拡散しちゃったんだってさ。かっわいそーだよなー」
そんなこと微塵も思っていない顔をしながら、芝居がかった仕草で内緒話をし始める。
わざとらしいその態度が、この上なく不愉快だった。
こいつは、かつて俺の痛みをエンターテイメントのコンテンツとして消費した事なぞ、何とも思っていないのだろう。そして新たなターゲットとして目をつけた秋川についても、テレビに映る芸能人をバッシングしているのと同じ感覚でいるのだ。無神経という名の暴力に襲われて、血を流す生身の存在に、どうしてここまで無関心でいられるのか、到底理解出来ない。
「桐乃も気をつけねーと、食われちまうぞ」
薄ら笑いを纏う警告に、全身を流れる血が沸騰しそうになった。秋川のセクシュウアリティがどうという問題ではない。第三者が立ち入るべきではない問題に、土足で踏み込んだ奴の傲慢さに、腹がたったのだ。
ふと視線を感じてそちらを見ると、綾瀬と目があった。
彼女とは中等部の頃に同じ塾に通っていて、時々世間話を交わす仲だった。
その後、荒れてゆく俺を心配して声をかけてくれた唯一のクラスメイトだ。しかし、みるみるうちに優等生の枠組みから外れてゆく俺とは接点が減ってゆき、今ではお互いに声を掛け合うことも少なくなっていた。そんな事を思い出していたら、綾瀬は気まずそうにして目をそらしてしまった。
そういえば随分前に、彼女と、同性愛が発覚した芸能人のニュースについて語り合った記憶がある。
綾瀬は、「色んな愛の形があって良いと思う」などと同性愛について肯定的な意見を述べていた。それに賛同するクラスメイトも一人や二人では無かったはずなのだ。当時姦しく騒いでいた誰もが口をつぐんで、秋川の存在を〝見ないフリ〟していた。
教室内のパワーバランスだとか、己の立ち位置だとか、ろくに学校へ行かない俺には理解し得ない事情も有るのだろう。それでも、彼ら、彼女らを賛同する気にはなれなかった。
〝普通〟から少しでも外れると途端に透明人間にされてしまう、教室という名の社会の縮図。一人一人に尋ねれば、まともな答えが帰ってくるはずなのだ。
「虐待は絶対にいけないと思います」
「セクシュウアリティの多様性を認めるべきだと思います」と。
彼らは何と引き換えに、沈黙を選んだのだろうか。
〝見えないふり〟をされる痛みを誰よりも知っていたから、俺は黙っていられなかったのだろう。
「こんなに良い男に見染められたとしたら、光栄だね」
考えるより先に飛び出していった言葉を見送りながら、もうちょっと相応しいものがあったのでは無いかと後悔したが、時すでに遅し。それでも、反撃した後悔はこれっぽっちもなかった。
内緒話のポーズで固まっている同級生を一瞥した後、あえて他の誰の表情も見ずに自分の席に戻った。
頬の火照りを冷ましていると、ケイがふらりと近寄ってきて
「言葉のチョイスはともかく、マジかっこよかった。次の新曲はヒーロー系でいこう」
とだけ言って立ち去っていった。
どういうことだよ、と胸の中で独り言つ。
窓の外からあたたかな風が吹いてきた。人知れず、新緑の香りで落ち着きを取り戻す。木々から零れる陽光が、視界を滲ませる事を幸いと思った。
しばらく、校内では俺と秋川が付き合っているという噂が、すごい勢いで流れていたらしいが、表立って学生生活に支障は出なかった。さすが進学校というべきか、そもそも学業第一で、いじめなどしている暇もなかったのかも知れない。俺は俺で、そんなことどうでも良いくらい精神的に余裕がなかったので、その点は環境に助けられたと言えるのだろう。
その後、俺のファンになったと言って、目を輝かせる秋川がメンバーに加入し、晴れて、俺たちのバンドが結成されたという訳だ。
あれからゆっくり時間が流れて、少しずつ歌える時間も増えてきた。完璧では無いけれど、全く歌えなかったそれまでよりはだいぶマシなのだ。
仲間に恵まれたのは幸運だったとしか言いようがない。どんなに打ちひしがれそうになっても、ただそばに居てくれる存在に、同じ志を抱く同士にどれだけ心が救われたか。
だからこそ、気になったのだ。陽にそういう存在がいるのかどうかが。余計なお節介だと言われればその通りだけれども、現実は驚くほど残酷な事もある。独りぼっちで傷を癒すのには、限界があると思うのだ。