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第21話

小さな背中が見えなくなると同時に、首筋に冷たく硬い何かが押し当てられた。ぎょっとして振り返ると、秋川が無言で缶ジュースを差し出した。どうやらこれが、先ほど首筋に感じた冷気の正体だったらしい。

 俺は、おお、と、返事になっているのかいないのかわからない呻き声とともにそれを受け取る。

 それは、幼い頃家でよく飲んだ、乳酸菌入りの炭酸ジュースだった。甘ったるいので普段は飲まないのだけれど、疲れた時や何だか元気を出したい時、ふいに飲みたくなる思い出の味だ。秋川の前でも何度か飲んだ覚えがあるが、まさかそれを覚えていたのだろうか。

 そもそもこのイケメン、てっきり先に帰ったのかと思っていたが、俺と愛美のやりとりが終わるまでわざわざ待っていたようで、いやに登場がスムーズだった。傷心に染み入る気遣いに心が傾きかけたが、ある意味計算高いと思えてしまったあたり、やはり俺に恋愛は早いらしい。

 秋川は俺が缶ジュースを受け取ったのを確認すると、

「付き合え」

 と言って、スタスタと近くの公園へ入って行ってしまう。

 我に帰ってスマートフォンで現在時刻を確認すると、親父との約束の時間にはまだ余裕があり、缶ジュースで乾杯する程度の寄り道は問題なさそうだった。ほっと胸を撫で下ろして、秋川の後を追う。

 いつしか茜さす街並みは黄昏に抱かれて、夜の帳がすぐそこに在ると教えてくれた。

 秋川に目をやると、彼はベースケースをおろしてベンチに腰かけ、俺のジュースと一緒に自動販売機で買ったであろう、ミルクティーを飲んでいた。同じ缶飲料に違いないはずなのに、何だか己の嗜好が子どもっぽく思えてきて苦笑する。

「……ナツはさ、」

「え?」

 缶ジュースのプルトップを引く、プシュウ、と言う音と、秋川の声が重なった。タイミング悪いなぁと思っていると、手にしていた缶から大量の泡が吹き出してきて、容赦無く両手を侵略していった。

「お前、これわざと振ったろ⁉」

 もはや悲鳴と言っていい俺の絶叫を聞くや否や、秋川は腹を抱えて笑い出した。

 ベタつく手をひらひら泳がせながら缶をベンチに退避させ、先に水道で手を洗った。ハンカチなんて持ってないから、濡れた両手をぴゃっぴゃとそらで水切りしていると、目尻に涙をためた秋川が、ハンドタオルを押し付けてきた。その笑顔が何だか眩しくて、怒る気力が削がれてしまう。

「飲み物粗末にすんなよ」

「悪い」

 腹いせに、彼の石鹸の香りがする柔らかいハンドタオルで、思う存分手を拭ってやった。

 秋川はそんな俺を眺めて、涙を拭いながら言う。

「色々言いたいことはあんだけど、その間抜け面に免じて、一つだけにしといてやるよ」

 くっくと、思い出し笑いを噛み潰そうとして失敗している彼を目の端に捉えつつ、退避させていた缶の中に辛うじて残っていた、残り少ないジュースをちびりちびりと舐めながら、次に転がってくるであろう言葉の到着を待っていた。

「ナツは、俺が可哀想な奴だったから、バンドメンバーに引き入れたのか?」

 その声音は諭すような、宥めるような、予想もしていなかった類の音節で、彼は俺を責めている訳ではないと、明確にわかる柔らかさを伴っていた。

 驚いて秋川の顔をまじまじと見ると、彼は柔らかな秋の陽光のような笑みを浮かべたまま、俺の返答をじっと待っていてくれていた。

「――きっかけは、そうだったかも知れない。でも、それだけじゃない。

お前はバンド経験者だったし、ステージ上でも目を引く華やかさがあったから、仲間になってくれたらとんでもない戦力になるんじゃないかって思った。だから、声をかけたんだ」

「知ってる」

 穏やかに言って目を伏せた秋川が、続ける。俺の主旋律に寄り添うような語り口に、どうして自分が秋川に声をかけたのか思い出した気がした。

「そう、〝それだけじゃない〟、それで良いだろ。

 カワイソーな人としか仲良くなれないからとか、虐められていた秋川君を助けたかったからとか、答えを一つに絞る必要なんてない。元々、人の行動にはいろんな想いが入り組んでいるのが当たり前。勝手に卑屈になんなよ」

 秋川はそこまで言ってから、ゆっくりとミルクティーを飲み干した。俺はつられるようにして、もうほとんど入っていない乳酸菌飲料をあおる。舌に残る甘ったるい味は、活力の源となるには量が足りなかったけれど、そっと背中を押してくれるような懐かしさがあった。

 だからだろうか、返答らしき言葉の弾丸が勝手に飛び出していったのは。

「俺さ、小学校の頃、浮いてたんだよね。母親があいつとは遊ぶなとか、そんな遊びは馬鹿になるとか口うるさく干渉して来て。俺と遊ぶと面倒くさいからって、ハブられてた。

 親に反抗するにはまだ幼くて、でも、母親が気に入る良い子の仮面をかぶり続けられるほど器用じゃなかった俺は、どうして良いかわからなくて、ひとりぼっちでいた。

 こんな時、正義のヒーローがそばにいてくれたなら、どんなに心強いだろうってずっと思ってた。他の誰にも理解してもらえなくても、そいつだけは俺の味方をしてくれる。そんな存在がいたら何だって出来るのにって。

 俺がして来たお節介は、あの時の幼い自分がして欲しかったことだ。

 だから、本当の意味でお前のためを思ったわけじゃないし、愛美のためでも、陽のためにしたことでもない。もちろん、妹への罪滅ぼしのためだなんて事も、ありえない。

 それがわかってるお前らには、俺の自分本位さが目に余るんだろうな」

 秋川は、聞き分けのない生徒の注意を引きつけるように、わざとらしくため息をついて、

「でも、〝それだけ〟じゃないんだろ。

 ナツは、愛美やあの中学生を可哀想だからってバンドに入れたりはしなかった。

 俺だから、ベースを任せたんだろ?

 あの中学生を構うのだって、家に押しかけたり待ち伏せた方が確実に会えるのに、そうしない。俺は、相手の都合を考えてやれる奴のことを、自分本位だとは思わない。――でも」

 静かに言ったかと思うと、一瞬迷うようにして視線を泳がせてから、弱々しい声で続けた。

「俺は、強欲だから、目の前に現れた正義のヒーローが自分だけのものになればいいと思ってしまうし、彼に恋する人の気持ちだって痛いほどわかる。だから、最後まで面倒を見れないのに優しくするのは残酷だと言ったんだ。

 ……でも、それがナツの良いところだってこともわかってる。俺は、ナツが助けてくれて、嬉しかったから」



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