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第22話


金髪碧眼の王子様はベーシストらしい。

 側から聞いたら何のことやら分からないだろうが、当時の俺たちにとってそれは、千載一遇のチャンスに思えた。

「……何とかうちのバンドに引き入れられないかねー? 同じクラスのよしみってことで」

「無理っぽいな、あっちのバンドが解散でもしない限り」

「ふーん……ちなみにあっちは何系ー?」

「ビジュアル売りの、ロック系」

「じゃあ無理だー、うちは〝脳筋〟、〝ガチヲタ〟、〝メンヘラ〟の、陽キャのフリした陰キャ集団だー」

「真性、陰キャ集団だと思うけどねぇ」

 上手く息が吸えなくなって、唄えなくなって。居もしない亡霊の姿を言い訳に今日も散々だった、練習の後。いつものファミレスでの会話だった。

 シュウとケイのやりとりを聞きながら、俺は脳内に〝王子様〟を思い浮かべる。

 秋川 クリス。

 内部進学組ではなく、高等部から入学したクウォーター。まさに王子様という形容詞が似合う物腰の柔らかい美少年で、彼の姿を見るなり、女子どもの目の色が瞬く間にハンターのそれに豹変したその瞬間は、見ものだった。

「メンヘラで悪かったな、ドルヲタ」

「キョーちゃんは三次元の女性とは違うんだなぁ、夏生はわかってないねぇ」  

 わかんねぇなぁ、と、心の中で相槌を打って苦笑する。そんな俺の傍で、他校に通うシュウが言う。

「実際、どれ位のイケメン? 査定してやろぉ」

 にゅうと身を乗り出して、ケイがごそごそいじっているスマートフォンを奪う。ケイもあらかじめシュウがそう動くと読んでいたようで、抵抗しなかった。友に便乗して画面をのぞくと、ヒエラルキーの頂点と表現しても過言では無い美貌を存分に活かしたパフォーマンスをする、秋川の姿があった。

 何故、同性のこんな画像を持っているのか。ケイの情報収集力に僅かながら恐怖を覚えつつも聞いてみると、秘密ルートで高く売れるのだとか。それ以上は知りたくなくて、へぇとだけ言って、会話を打ち切った。シュウはそんな俺の内面の葛藤など知る由もなく、呑気に言う。

「すごいなぁ、マジで王子様だわぁ」

そんな幼なじみの鷹揚さに救われ、俺も言葉を続けた。

「こいつうちのバンドに入ってくれたら目立つよな。俺とはキャラ被らないだろうし」

「夏生は歌っていればカッコイイんだけど、音楽から離れると鈍臭いからなぁ」

「そんなことないですー」

 思ってもいない、減らず口を叩きながら、俺の手は自然と水の入ったグラスに伸びる。口をつけようして、ひゅうと、喉元から笛のような音が漏れた。

 和やかだった場の空気が凍る。良くない兆候だった。

「平気か?」

「わり、トイレ」

 何気なさを装ったシュウの声を、なんて事ないさ、という仮面を被って遮った。

 二人の視線から逃れるように、トイレへ逃げ込もうと背を向ける。背中に視線を感じた気がしたが、気のせいだと言い聞かせながらドアノブを握る。

「危なっかしいな、夏生。音楽どころじゃないんじゃない?」

 ケイの声が鼓膜をくすぐる。

 それが決して、俺を揶揄するために放った言葉では無いのは、声音でわかる。俺は耳がとても良いのだ。

「焦ることないって。どっちにしろ、辞めたベースの穴埋めを考えなきゃな。

 俺だって親から、音楽活動を続けるのは調理師免許を取ってからって言われてる。ケイだって大学行くんだろ?

 走り続けてはいられない。人間も人生も――少なくとも俺達は、そういう風には出来ていない、多分。

 でも、これからもずっと音楽と一緒に居たいんだから、休んだり止まったり、戻ったりしても、良いと思うんだ」

 お前もそう思うだろー? と、シュウが言外に示す想いに、心臓を鷲掴みにされる。

「時が来るまで、各々すべきことをするまでってね。そーんなことがわからないほど馬鹿じゃないんだよなぁ、僕も」

 そんなのとっくに知ってるさ、と、戯けてみせるケイの腹の底には、純粋に俺を気にかけてくれている幼い少年が居る。

 その続きは、聞こえなかったふりをしてトイレに入ったからわからない。

 彼らの想いに上手く応えられない自分が情けなくて、手足がわなないた。しゃんとしようと何度も深呼吸をするのに、まるで喉に小骨がひっかかっているかのような違和感が首をもたげて、己が首枷を再認識するだけだった。


 俺たちがバンドを結成したのは中学生の頃だ。文化祭でライブを終えた後、この経験をただの趣味に留めて生きてゆくのは不可能だと悟った。

 高校進学を機に、コンテストへ参加するつもりだった。もちろんプロを目指すためだ。

 これから死に物狂いで頑張るって時に、俺は皆の足を引っ張ってしまった。

 ふとした瞬間に妹の亡霊が見えるのだ。己の過ちが脳裏に蘇り、息が吸えなくなる。そうなると、歌なんか唄えない。


 呼吸から漏れる汽笛を合図に、陸に打ち捨てられた魚の如く、酸素を求めるようになるまで、さほど時間はかからないと、脳裏に警鐘が響き渡った。

 小指の先ほどで構わないから気分が変われば良いのにと、震える息をゆっくりと吐き出しながら天井を仰ぐも、チカチカと点いたり消えたりせわしない蛍光灯が無機質に俺を見下ろすだけ。清潔な室内に、蜘蛛の糸など垂れているはずが無い。

 ふと、亡霊のものとは別の視線を感じてそちらを見遣り、おや、と目を見張る。

 つい先ほどまで話題にしていた王子様――こと、秋川クリスが、大きな瞳を見開いてこちらを凝視していたからだ。

 余程酷い顔をしていたのだろう、秋川は一瞬たじろいで、俺に声をかけるかどうか迷っているように見えた。

 その時、点滅を繰り返していた蛍光灯がふと、眠りに落ちたかのように数秒間、消えた。

 二呼吸した後、それは再び忙しなくトイレを照らしたけれど、俺は鏡に映る〝彼女〟に目が釘付けで、それどころでは無かった。

 理性では判っているはずなのだ。鏡の中で涙を流し、時に唇を噛みちぎりながら呪詛を呟く少女が、幻覚に過ぎないと。それでも、彼女の発する言葉の一つ一つが鋭利な刃となって俺をえぐる。

 それは、母親から浴びせられた暴言とは少し違う。あれはまだ、心を閉ざせば台風のようにやり過ごせた。

 雪華の言葉は、俺の本質を決定づけるような神の宣告に近い。雪華が「裏切り者」と言ったら、俺は、「裏切り者」で、「卑怯者」と言ったら「卑怯者」以外の何者でもないのだ。

 真っ青な顔をして硬直している俺に向けて、秋川が何か話しかけているのがわかったが、耳を傾ける余裕は無かった。

 ボロボロと刃こぼれしてゆく理性のかけらが、痛みとともに肺と喉に突き刺さる。

「おい、桐乃!」

 秋川に両肩を強く抱かれ、顔を覗き込まれた。

 亡霊から無理矢理視線を逸らせたのは幸いだった。この隙に何とか息を吸おうと、俺は、秋川に意識を集中させしようとした。しかし、亡霊から意識を反らそうとすればする程、憎悪の視線がべったりと背中に貼り付いているような気がして、理性の修復がうまくゆかないのだった。

 発作に屈服する前に、と、ポケットからピルケースを取り出して中の錠剤を手のひらに転がそうとするが、手元が狂ってケースごと床に落としてしまう。ばら撒いた薬を拾い集めようとして、よろけた様がよほど異様に映ったのだろう、秋川の顔からさっと血の気が引いたのがわかった。美麗な双眼が恐怖に慄くのを見て、明日以降きっと、今まで以上にクラスの腫れ物扱いされるであろう、自分の未来が垣間見えた気がした。もはや、自分たちのバンドに王子様を引き抜くなんて、到底不可能だろう。

 血液が沸騰するような感覚に襲われて、すぐに思考が掻き消えたのは、不幸中の幸いだったかも知れない。

 何はともあれ薬を飲もうと秋川から目を逸らした時、

「焦るな。息がしやすい姿勢を取れ、座っていいから。吸って……ゆっくり吐いて……」

 秋川は、俺に声をかけながら薬を拾い始めたのだ。

 予想外の対応に驚いている余裕も無かった俺は、まずは酸素の確保に集中した。同級生の思ったより低い、穏やかな声を聞いているうちに、不思議と少しずつ症状が落ち着いてゆく。

「――秋川サン、もしかしてベースだけじゃなくてヴォーカルもできちゃう感じ?」

「は? 何いきなり」

 ごもっともな返答に、先程の心地良い声音の余韻は微塵も無い。

 醜態を晒した恥を隠すためか、このチャンスを物にしようと躍起になったのかは覚えていないが、後から秋川本人から聞いた事によると、俺はこの時、死にそうな表情のまま、彼を自分たちのバンドに勧誘したらしい。俺はさっぱり、覚えていないのだけれども。さぞかし、怖かっただろう。本当に申し訳ないと思う。

 時間が経って症状が落ち着いてくると、

「水要るか?」

 秋川が、俺のピルケースを差し出して言った。

 いつの間にか、散らばった薬を拾い集めてくれていたのだ。申し訳なさと羞恥心が入り混じって、首筋が粟立つような感覚を堪え、よろよろとピルケースを受け取った。

「……いい」

 眉を顰める秋川を目の端に追いやって、錠剤を口内に放り投げる。そのまま唾液で飲み込んだ。

「な、夏生?」

 トイレへ行ったきり帰ってこない俺を心配したのだろう、シュウが俺の姿を認めるなり、転げるように飛び込んできた。

「大丈夫、少し休めば元に戻る」

「とてもそんな顔色には見えない」

 秋川が俺の言葉を遮るようにして言った。強がりを一瞬で看破されて居心地が悪くなる。

「秋川サン、随分手慣れてんな」

 苦し紛れで発した一言に、秋川がはっと息を飲んだような気がした。おや、と、様子を伺っていると、

「弟が過呼吸で悩んでいて。それで――」

 そう、躊躇いがちに言った

「……そっか。余計な事聞いて悪かった。……助かったよ」

 少しだけ伏せ目がちになった紺碧に、ほんの一瞬、影がチラついた気がした。教室での彼からは想像できない〝痛み〟が、垣間見えた瞬間だった。

 教室での秋川はそんな物とは無縁の、陽光の下で笑っているのが良く似合う男に見えたが、実際は違うのかもしれない。

 その非凡な外見から、彼に悩みなんかないんじゃないかと決めつけていた、浅はかな自分に気づき、心底恥ずかしく思った。

「なかなか帰ってこないと思ったら、何がどうなんてんだぁ? あんたら知り合い?」

 いつの間にか、ケイも駆けつけてくれていた。

秋川が俺に変わって、泣きそうな顔をしているシュウに事情を説明しだす。

 小学生の頃、架空のヒーローを夢想しながら孤独感に苛まれていたけれど。それはもはや過去の話で、今はそばに、俺の体調を心配して右往左往してくれる仲間が居た。そう気が付いた途端、胸の奥から込み上げる感情が、涙腺から溢れてしまいそうになって、俺は誰にも顔を見られないように、体育座りをしながら俯いた。

 天に蜘蛛の糸は垂れていなかったけれど、俺の横には気の良い友人達が居るのだ。


 ようやく普通に息が出来るようになってから、シュウと二人で帰路に着いた。これほどギターケースの重量を恨めしく思った日は無い。

 ケイと秋川には先に帰ってもらっている。俺が〝この状態〟の時は、あまり多くの人にそばにいてほしくない事を知っているケイが、後髪を引かれるように何度もこちらを振り返る王子様を促して、その場から離れてくれたのだ。

「ずいぶん優しい王子様だったなぁ。弟さんが過呼吸? なんだっけ? どういう病気かよく知らないけど、なんか、大変な思いをしたんかもなぁ」

 先程の対応を思い返しているのか、シュウはうんうん、とひとりで頷いている。

 何気なくスマートフォンの画面を確認すると、打ち上げで盛り上がったには遅すぎる時刻が表示された。続けてシュウの屈託のない表情を見て、俺の胸の奥はずしりと重くなる。

 シュウの家は厳しい。

 俺の母親のような支離滅裂な八つ当たりとは違うから、シュウが家に帰ったあとにボコボコにされるなんて事は無いけれど、音楽活動をするなら、やる事をやってから、と、口を酸っぱく言われている。

 遅く帰ってきた理由も一から説明を求められるだろう。

面倒をかけてしまった事がとにかく申し訳なくて、絞り出した俺の謝罪に対し、幼馴染は〝気にするな〟と言うかのように、俺の背中をバンバンと叩いた。


途中の道でシュウと別れ、気の進まぬまま、ダラダラと歩みを進めて帰宅する。

 父はまだ帰っていなかった。

 ほっと一息ついて、荷物を整理する。吐き出した息のどこかに寂しさがチラついた気がして、あわててキツく目を閉じた。

 鏡やら写真立てやら、自分の姿を映す物からなるべく目を逸らしつつ、鉛のように重い体をなんとか二階の自室へ引き上げた。ギターを定位置に確保すると、その他の荷物はその辺に放り投げる。参考書の角が床にあたる鈍い音が、暗い家の中で谺した。

――親父は今日、夜勤かなんかだっただろうか――。

 シャワーを浴びる気力は無かった。制服を脱ぎ捨てながら箪笥をこじ開けて、部屋着を引っ張り出す。ふと背後を振り返ると、あちらこちらにとっ散らかった制服が、蝉の抜け殻のように服を脱いだ時の俺の姿を保持していて、笑えてきた。

 明日の自分に後始末を押し付けて、ベッドに潜り込む。


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