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第20話

 朝焼けの暁が一日の始まりを告げるなら、一日の終わりへ向かう合図は茜色をした夕暮れだ。

 茜さす空を見るといつも、「始まりも終わりも赤色なんだな」という、何の意味もない思考が浮かんでくる。

 レンタルスタジオでの練習を終え、反省会に向かう途中のことだった。料金の精算と次回の練習日程の予約をベースの秋川に任せ、いつものファミレスへ向かうため、そちらに目を向けると、見事な夕焼けが広がっていたものだから、束の間、我を忘れて見入ってしまったらしい。 


 あれから、俺と陽は交流を深め、ともに過ごす時間が増えた――なんてことにはならなかった。

 会えば話もするし、十回遊びに誘えば一回位は応えてくれるものの、互いの距離が縮まったようには思えなかったのだ。

「親に不審に思われないよう、いきなり習慣を変えないようにしているんだ。昨日まで家に直帰していた娘が、急にどこかに寄り道をして帰ってこない、なんてことになったら、また迷惑をかけてしまうかも知れない。

 夏生の気遣いは本当に……本当に、有難いし、嬉しいよ。

 余計な心配をさせてしまって、ごめんなさい」

 と言われてしまったものだから、こちらも無理に連れ出すことはせず、会った時に構い倒すというスタンスを崩さずにいた。

 それにしても、だ。

 自分が陽の年の頃なんて、寄り道をして家に帰らないなんて当たり前だったし、同学年の女子も似たようなものだったような気がする。そりゃ、門限が厳しい子だっていたけれど、それは「子どもの将来を思って」の事であって、親が子を縛るための枷では無かったはずだ。

 親が暴走することで己の居場所が失われてしまうなら、何も起こらないように立ち振る舞う必要性がある。そんな陽の言葉を聞くと、とても十五歳の言う台詞だとは思えなくって、見たこともない陽の母親に怒りを覚えた。

 今、この瞬間にしか学べないことはたくさんあるのに。

 どんなに後悔してもやり直せない娘の人生の一コマを、親のエゴで潰すことで一体何を得ると言うのだろう。

 子どもにとって一番身近な存在である母親とともにいることで、心が休まらないどころか脅威を感じてしまうのならば、それはきっと、安全地帯の無い戦場で生きているようなものではないか。

 自分が自分らしくある限り、母からの寵愛が受けられないことへの絶望を、俺はよく知っている。陽が、終戦までもたずに力尽きる可能性を懸念するのは、決して的外れではないと思うのだ。

 何か、俺に出来ることはないだろうか。生き残りをかけた戦争の真っ只中にいる同志へ、救援物資を届けるには一体どうしたらいいだろう。そうやって、軽量級の脳味噌を絞る毎日だったものだから、

「夏生って、陽ちゃんみたいな子がタイプなのかぁ?」

 と、ドラム担当のシュウにのんびり言われたときは、何を言われているのかわからなくて、二の句が継げなかった。

「いや……そう言うつもりじゃ……」

 何とか絞り出した言葉を、はた、と客観的に眺めてみる。

 シュウ相手に「戦友を助けたいのだ」と言ったところで、果たして、俺の意図は伝わるのだろうか。

 人の痛みなんてわからない。俺がシュウの苦悩を知らないように。

 シュウは眉毛を八の字にして、困ったように笑った。その笑みの色が、決して嬉しい感情の元に生まれたものでないことを、短くない歳月を経て知っている。

「俺と違って夏生はイケメンだからさぁ、ファンが陽ちゃんに焼きもち妬いちゃうんじゃないかって、ちょっと心配だっただけだよ。ごめんなぁ、変なこと言って」

 のんびりした声音で言いながら、彼は静かに目を伏せた。ドラムスティックを入れたケースに視線が落ちると同時に、笑みが消える。俺は何ともなしにギターケースを背負い直して、アスファルトの上に転がっていた石ころを、スニーカーで突っついた。

 シュウが、愛美のことを言っているのは明白だった。


 そういえば、陽に構うようになってから愛美の口数が減ったような気がしなくもない。あまり気に留めていなかったけれど、時々、愛美と陽が居合わせると、陽が怯えたような態度をとることがあって不思議に思ってはいたが、深く考えやしなかった。何故かと言えば、愛美は派手な格好をしているし気も強いしで、大人しく真面目そうな陽にとって、とっつきにくい相手なのだろうと勝手に思っていたが、それだけじゃないのだろうか。

 よく勘違いされるが、愛美は恋人ではない。

 俺だって、異性に興味が無いなんて気取った態度を取るつもりは毛頭無いが、今はとにかく「それどころじゃない」の一言に尽きる。幽霊に怯えながら自分と母親に呪詛を吐く日常のどこに、恋愛要素を挟みこめというのだ。最も、全ての事情をわかった美女が俺に寄り添ってくれるという、都合の良い妄想すら抱かないかと言われれば、そこまで俺は潔癖ではないと答えるけれど。

 しかし、その欲望を叶える相手に、愛美を選びたいとは思っていなかった。愛美にも、一度そういう空気になりかけた時、はっきりと伝えてあった。

 同情と情欲を混同するのも、その場の雰囲気に流された結果、母親と同じ道を辿ることも、ごめんだった。


「シュウは心配性だなぁ、気にしすぎだって」

 軽口を叩いて流したつもりでシュウに視線を戻してみれば、彼の顔は険しく強張っており、己が彼の地雷を踏み抜いたことを悟る。

 放った言葉は取り消せない。

 シュウの瞳に映る俺は、どんな奴なんだろう。少女の恋心を見て見ぬふりをする、軽薄な男なのだろうか。

 ギターケースがいつもより重い気がして、再度背負いなおした。ついでにポケットからスマートフォンを取り出して、特に用も無いのに、通話アプリケーションを弄ってみる。

 アプリケーション内に作成した、バンド専用のグループチャットに、セカンドギターのケイが投稿した、先の練習風景の動画の一部がアップロートされている。反省会用の教材だ。

 仕事が早いなと周囲を伺うも、ケイの姿は見当たらない。

あいつは俺以上にマイペースなやつで、時々ふらっといなくなるのだ。放っておけば帰ってくるし、いなくなる前に声をかけろと何度注意しても変わらないので、メンバーは彼を「きっと野良猫の生まれ変わりなのだろう」と言い、悪癖に対しては思考停止をしている。

 消音にして動画を再生し、意識をそちらにやろうとしたが、駄目だった。

 顔を顰めたままのシュウと、愛美の姿が脳裏をチラついて集中できやしない。

 俺が悪いのか?

 と言うのが、正直な感想だった。

 愛美と付き合っていれば話は別だが、そうじゃない。その気が無いことだって、とっくに本人へ伝えてある。

 周囲の目を気にしてモタモタしている間に、陽が死んだらどうするのだ。

「秋川の時と同じだな」

 シュウがぽつりと呟いた。先刻までの厳しい表情ではなかったものの、いつもの柔和な笑みも浮かんではいなかった。

「応える気もないのに優しくして。それが悪いとは思わないけどさ、トラブルになるのはわかってるはずだろ。もっとうまく立ち回る方法を考えればいいのに」

「具体的にどうしろと? 是非、ご教示いただきたいね」

 理性はクールダウンを推奨していたが、口をついて出てきたのは思考放棄故の自棄っぱちな言葉だった。

 シュウとの間の空気が張り詰めてきたところで、

「俺が何だって?」

 割って入ってきたのは、引き合いに出された秋川本人である。

 スタジオ代金を精算した後、先に反省会の会場であるファミリーレストランへ向かう俺たちを追いかけるはずが、追いついてしまったのだろう。

 感情を押し隠した秋川の低い声に、俺とシュウは現実に引き戻される。

秋川の背後に、俺達を遠巻きに眺めて心配しているケイの姿を見つけた。放浪していた訳ではなく、援軍を呼びに行っていたという訳か。

 まずは落ち着こうと息を吐くと、先ほど、気を紛らわすために出したスマートフォンが振動した。

 予期せぬタイミングの着信に驚き、落っことしそうになりながら、画面を確認する。

 着信は親父からだった。

「わり、先行ってて」

 スマートフォンの画面を秋川にひらひら見せびらかしながら、電柱の影に隠れて、通話ボタンに触れる。

「何?」

 と言えば、必要以上に大きな声が鼓膜を劈いた。

「夏生、悪いんだが今日、二時間後に出勤してくれないか?」

「いいけど」

 親父の言葉からは余計な情報が排除されているため、何が何だかさっぱりわからなかったが、大方、猫の手でも借りたい事態に陥っているのだろう。幸い、指定された時間にはまだ余裕がある。

「頼んだぞ」

「ん」

 互いに余計なことは言わず、通話を切る。

 親父は寡黙だ。夫として、それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、家長としての親父のあり方は嫌いではない。

 反省会は欠席だな、と、グループチャットに連絡をしようとして、

「欠席だろ? 言っといた」

 電柱の影からぬっと現れた人影に、俺は今度こそ腰を抜かしそうになったのだ。

「あ、ああ、悪い。バイト入っちゃってさ」

「そう。俺も今日は用事がある」

「珍しいな」

「そうでもない」

 シュウの様子を思い出すと、このまま帰るのは後ろ髪をひかれる思いではあったが、もう一度顔を合わせたところで何が変わるわけでもない。日を置いてきちんと話をすることにして、帰路についた。

 一方の秋川は、ひかれる後ろ髪など持ち合わせていないかのように、スタスタと歩いて行ってしまう。楽器も荷物も、軽いものでは無いはずなのだけれど。

 夕日が秋川の金髪を紅く染め上げて、まるで宗教画でも見ているかのようだった。

 確か彼は、クォーターだっただろうか。ブリーチで脱色した金髪とはどこか違う、金糸が風に揺れている。顔立ちが端正であるのはもちろんのこと、手足は長いし顔も小さく、骨格からして恵まれた造形であるのがわかる。同性の自分が見ても、一瞬見惚れてしまう瞬間があるのが憎らしい。

 現実離れした絵を前に、思考が浮遊しかけた頃だった。

「最後まで面倒を見られないのに優しくするのは、残酷だと、俺も思う」

 首元に刃物を当てられたかの如く、ヒヤリとした感覚に襲われる。

 秋川は相変わらず俺に背を向けたままだったけれど、どんな顔をしているのか容易に想像できた。だからこそ、その言葉がどういう意味なのかきちんと確認せねばなるまいが、問おうにも、舌の上に言葉が貼りついてしまって出てこない。

「でも――」

「夏生!」

 秋川が続けようとした言葉を押しのけるようにして、軽やかな少女の声が飛び込んできた。

 驚いて視線をそちらにやれば、切羽詰まった表情をした愛美がこちらに駆け寄ってきて、必死に呼吸を整えながら口元だけの笑みを浮かべていた。

「良かった、追いついた。シュウに聞いたら夏生、帰っちゃったって言うから……。ゴハン、いかないの?」

 秋川君も、と慌てて付け加える愛美を、驚いたように凝視していた秋川は、「俺も用事だから」と言いながら俺たちから視線を外し、ふいっとどこかへ行ってしまう。気を利かせてくれたのか、ゴタゴタに巻き込まれたくなかったのか、あるいはその両方か。

「バイト入ったから、今日は帰るわ」

 俺の返答を聞くと、愛美は何かを言おうとして口を開き、思いとどまったのか視線を地面に泳がせて言葉を飲み干した。

 いつもなら、しつこいくらいの姦しさでまとわりついてくるのに、妙だなと思って眉を潜めていると、意を決したのか、少女は静かに俺を見つめた。

「本当にバイトなの?」

「は?」

「マナも一緒に行っていい? 夏生のお父さんのところでしょ? 手伝うよ」

「駄目に決まってんだろ、何言ってんだよ」

「何で駄目なの? ねえ、本当はバイトが入ったなんて嘘だからじゃない?」

 シュウの言葉が脳内を反響する。

〝ファンが陽ちゃんに焼きもち妬いちゃうんじゃないかって、ちょっと心配だっただけだよ〟

「あの子から呼び出された? 助けてって連絡が来た? それとも、あの子と付き合うことにしたの? だから、いきなりマナに冷たくなったんだ。あの子、マナよりずっとわかりやすく、カワイソーだもん。夏生はそう言う子、ほっとけないんだよね。マナのこと、いつまでも突き放せないみたいに」

 鉛を飲み干したかのように、腹の奥が重苦しい。

「陽とはそんなんじゃない」

「嘘! じゃあ、何であんなに入れ込むの⁉」

 そんなこと、アンタに言ったってわからないだろう、と言ってしまいそうになって、ぎりりと歯軋りをする。噛み潰した言葉が舌の上で鉄の味に変わってゆく。

 俺の痛みは、愛美にはわからない。当然だ。俺だって、愛美がこんなにも取り乱す意味が判らないのだから。ついさっき、シュウとのやり取りで痛感したはずの事を、もう一度なぞっている。

「今は、誰とも付き合う気にはなれない。前にも言ったはずだ。それに、誰かと仲良くなるのにアンタの許可が必要か?」

 なるべく平坦に言ったつもりだったが、きっと上手くできていなかったのだろう。愛美のどんぐり眼からすうっと光が消えてゆくのがわかった

 愛美は、そう……とぽつりと言ったきり、怒るでもなく泣くでもなく、ぼんやりとした目でこちらを眺めていた。

 俺にもっと人を思いやる度量があったなら、彼女にこんな顔をさせずに済んだのだろうか。それとも、そんなことを考えることすら傲慢なのだろうか。よくわからない。

「ずっと思ってたんだけどさ」

 愛美が、すっと自分の足元に視線を落として、拳を握ったのがわかった。そのまま、絞り出すように言葉を続ける。

「夏生は、〝カワイソー〟な人としか仲良くできないよね。それってどうなの? ヒーローのつもり? カワイソーな人を侍らせて、自分の居場所を必死で守っているみたい!」

 ハイブリーチをした明るい髪が風にそよぐ。甘たるい香りが鼻腔をくすぐると「お気に入りの香りなんだ」と得意げに笑う愛美の姿がフラッシュウバックした。

 続けて、「マナ、親と、うまく行ってなくてさ」と、こぼれ落ちた己の本音に当惑しながら「忘れて」と取り繕った、危うげな表情が。

 俺たちの歌をすがるようにして聞いていた彼女の様子が、洪水のように記憶の底から溢れ出す。

 もし、彼女が未来に何の不安も抱いていない天真爛漫な普通の少女だったなら、俺は彼女にどう接していたのだろう。自分たちの創作物を気に入ってくれたことにのぼせ上がったとしても、ここまで肩入れはしなかったかも知れない。

 薄ぼんやりとした毎日を繰り返している俺の隣で、彼女はとっくに、俺の正体を見抜いていたのだろうか。

「ごめん」

「……何が?」

「愛美の言う通りかもしれないと思って。

 確かに俺は、底抜けに明るい人間とは仲良くできないかも知れない。

 同じような境遇の奴を見ると、広大な砂漠の中で仲間を見つけたような気持ちになって、助けなくっちゃとか、俺に出来る事は無いかって、冷静じゃいられなくなるんだ。

 愛美の言うことを否定したくてたまらないけれど、正直、自分のことがよくわからなくなってきた。

 ――だから、ごめんな。俺、ろくでもなくて」

 こんなちっぽけな男の歌に救いを見出していたのかと、少女は時間の浪費を嘆くだろうか。それとも、そんな暇さえ惜しいと勇往邁進するだろうか。

 彼女がどんな道を選んでゆくのかはわからないが、一つだけはっきりしているのは、俺と愛美の歩む道は今この瞬間を持って、二度と交わらないだろうという事だ。

 初めて会った時、茹でだこみたいに真っ赤な顔をして俺に声をかけてきた愛美の大きな瞳が、今は、堪えきれずこぼれゆく涙の奥でやはり真っ赤に染まっていた。

 こんなところにも、始まりの赤と、終わりの赤だ。

 少女はそれきり何も言わず、俺に背をむけて走り去っていった。



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