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第19話

「ここが、スタジオ?」

 息をつく間もなく地下への階段をおりきった俺達を迎える防音扉を前に、陽が言った。俺は目いっぱいの笑顔を返事がわりに、力いっぱいドアを開く。

「ようこそ、俺達のプチライブへ!」

 景気づけのために声を張り上げたら、バンドメンバーは一瞬だけ互いの顔を見合わせて笑ったあと、俺のノリに続いてくれた。

「プチライブって言う名前の、スタジオ練習だけどなぁ。はじめましてー」

 シュウが人懐っこい笑みで、陽に握手を求めた。陽はあわてて自分の手を制服でふいた後、がっしりとしたシュウの手を恐る恐る握った。

「今日は貴重な練習時間にお邪魔してしまってすみません……」

 消え入るような声に覆いかぶさるようにして、ケイが言う。

「ダイジョブダイジョブ、俺達もあんたに会ってみたかったしさ。ま、楽しんでいきなよ。なあ、秋川」

 ケイの視線の先に居る秋川は、鋭い目つきで陽を射た。金髪碧眼の美形から急にガンを飛ばされ、身をすくめた陽に対して、ケイが続ける。

「悪い、あいつ色々めんどくさい奴なんだわ。誰に対しても最初はああだから、気にしないで」

「はぁ……」

 そう言われて、本当に気にしない奴なんているだろうか。と思いはしたが、あまり陽にかまってばかりいると事態が悪化するかも知れない。俺は苦笑しつつ、自身の練習準備に集中した。


 歓迎の唄が終わり、スタジオ内に充満する熱狂の渦も落ち着いてきた頃、「歌詞に対して演奏が鋭すぎる。解釈違いだ!」とケイが叫び、シュウとクリスが招集された。打合せなら俺も行かないと、と思って近づくと、ケイはあからさまに嫌な表情をこちらに見せて、右手で、シッシッと猫でもおい払うような仕草をした。――おそらく、奴なりに俺が陽と話せるよう気を使ったんだろう。

俺はケイの粗削りな気遣いに甘んじることにして、来る途中で買ったミネラルウォーターを二本取り出し、一本を陽に差し出した。彼女が戸惑いながらも遠慮がちにそれを受け取ったのを見届けてから、自分の分のキャップをこじあけ、ミネラルウォーターを喉の奥に流し込む。いつもと違う幕間は、妙に気持ちを浮足立たせる。

「なんか、本当にごめんなさい。貴重な練習日に……」

 もごもごと続きを言おうとする陽を手で制して、「お前ひょっとして、ごめんなさいが口癖?」と言いながら、ペットボトルのキャップを閉める。

「スタジオに呼んだのも、生演奏聞いて欲しいって言ったのも、俺だし。お前が謝る事じゃない」

「なんていうか、せんぱ……夏生には、してもらいすぎているっていうか。ほら、制服の件でも助けてもらったし、CDももらっちゃったし、挙句の果てには生演奏でしょ? うまく言えないけどその……どうして夏生は、私みたいにあからさまな、訳アリってわかる奴にここまでしてくれるの? 私なんかと関わって、迷惑じゃないの?」

 そんなことあるわけない、と、卑屈な言葉で紡ぎあげられた陽の防御壁を、吹っ飛ばしてやりたかったが、まずは彼女の言い分を聞こうと、その衝動を堪えた。

「もう判ってると思うけど、うちの母親は普通じゃない。普段は家事諸々を全部私に任せて、自分は無気力にソファーの上で寝転がっているだけのくせに、お酒が入ると突然豹変するんだ。小さい頃からそうだった。友達の家で遊んでいたら、私がその友達にいじめられてるって妄想しはじめて、家へ怒鳴り込んできたり、担任の先生に、訳の分からない言いがかりをつけたり。……その友達は引っ越しちゃったし、当時の担任の先生は、ノイローゼになって退職しちゃった」

 陽は、ぽつりぽつりと胸の内を明かし出した。まるで他人事のように淡々と、自分の境遇を語る少女の姿は、思った以上に痛々しく見えた。

「そんな事があっても、学校でいじめられはしなかった。皆、お母さんの復讐が怖いから。その代わり、誰からも腫れ物みたいに扱われるようになったけど」

 陽は言葉を切って、深く息を吐いた。

あくまで冷静な陽の口調に、雪華のそれが重なった。二人とも、どうしてこんなに悲しくて理不尽な目にあっておきながら、冷静でいられるのかと思っていたけれど、陽の様子を見るに、もしかしたら、彼女らは理不尽な体験を繰り返すうちに、自分の気持ちに蓋をするのが上手くなってしまったのかも知れない、そう思った。そうしなければ、とても平静を保っていられなかったのではないだろうか。

陽の場合、助けを求めようと伸ばしたその手が、誰かの日常を壊してしまったのだから、猶更だ。

ふいに、公園の中で突然水を浴び出した陽の事を思い出した。あれは、誰にも助けを求められず、どうすればいいのかわからなくなった上での、奇行だったのだろう。

 母親によって人間関係が壊される経験ばかりを積み重ねた彼女は、誤解してしまったのだ。自分が人と関わると、その人が母親によって傷つけられてしまう、と。

「今日、CDの感想を言えてよかった。それだけじゃない、こんな素敵な音楽を、間近で聞かせて貰えて、どんなに嬉しいか――うまく言葉にできないよ」

 まだアルバイトすら出来ないこどもが、自宅と言う、最も安全であるべき場所で安心して過ごせないなんて。いわゆる、退屈な日常すら得られないなんて、なんて残酷な出来事だろうか。

 俺がよっぽど酷い顔をしていたのだろう、陽は一瞬だけ驚いたように目を見開いてから、努めて明るく言った。

「夏生、今日は、ありがとう。なんだか、生きる糧を得られた気分だよ」

 紡ぎ出された言葉は、卑屈な程に控えめで。俺は無性に、悔しくなった。アマチュアバンドの生演奏を聴いただけで、生きる糧を得ただって? 冗談はよせと言ってやりたかった。

もっと大きな幸せを求める資格が、陽にはあるのだから。

「俺には、妹がいて……さ――」

 気が付いたら、言葉が零れ落ちていた。

 次々に転がってゆくそれらは、妹について語り始める。彼女の生い立ちを、「負けない」と断言したその意志を、そして、最期の瞬間を。

 スタジオ内にはメンバーがそれぞれの楽器をチューニングしている雑多な音が、そこらかしこで転げまわっている。

 いつの間にか、残り少ないミネラルウォーターは、すっかりぬるくなっていた。


 狭いスタジオの天井に、バスドラムの音が何発か打ち上げられる。打上げ花火を先導するメインのリズムであるその音に不満があったのか、シュウの眉間に深い皺が寄る。

あの深さなら一円玉くらいなら挟めそうだな、なんて他愛もない事を考えながら、肺の中身を吐ききった。

 陽に、雪華の事を話してしまった。

 余計な刺激を加えたら一瞬にしてオーバーヒートしそうになる思考を、なだめるように、そろりと息を吸う。

 ――このまま息絶えてしまえば楽なのに――

 そう感傷に浸ったところで、思春期真っ只中のこの肉体は明日を求めて何度でも立ち上がるのだ。それを、太陽を追いかけるひまわりのよう、と形容しようとして、あまりにも気障な言い回しに、目が眩む。

 脇道に逸れてゆく思考にあえて手綱はつけず、ゆっくり、ゆっくりと、呼吸を繰り返す。次の音が最上のコンディションで聴こえるように。

「私は……なんて馬鹿なんだろう」

 澄んだソプラノが、震えている。驚いて陽に目をやると、彼女の潤んだ切れ長の双眼と目があった。陽は今にも、泣き出してしまいそうな顔で俺を見ていた。

「――どんな言葉で何を言っても、きっと不適切で、不十分だと言うのはわかってる。でも……」

 あわててハンカチをバッグからひっつかんで鼻と口を隠す。きつく目を閉じて、必死に涙を見せまいとしているようだった。

 陽が、途切れ途切れに続ける。

「夏生はすごい。

 そんな思いをしたのに、見ず知らずの私を助けてくれたんだ。

 私だったら自分のことでいっぱいいっぱいで、同じ立場の人に手を差し伸べるなんて出来ないし、そもそも、自分こそが一番惨めな存在で、より大変な思いをしてる人がいるなんて、想像も出来ないよ」

 何の返答も思い浮かばなくて、俺は、手にしていたペットボトルを、音を立てて潰し、ゴミ箱に放り投げた。

「全然、すごくなんか、無い」

 コン、という間抜けな音と重なって、もしかしたら俺の声は陽に届かなかったかも知れない。でも、言葉にしておかなければならない気がした。

 自分の器が大きいから、陽に手を差し伸べられたというわけでは無い。

 夏生という人間は、可愛い妹を守れなかったどころか、未だに亡霊として幻視している臆病者だ。

 ことあるごとに己を責め立てる雪華の姿をしたそれが示すのは、妹を己の脅威と見なしたと言う事実であって、それは何だか、許されないことのように思えた。

 この感情をぶつけるに相応しい憎むべき対象は他に居るのに、その被害者である妹に恐怖を抱くなんて、冒涜に他ならないのでは無いだろうか。

 結局、俺は、正気を失わないよう理性をつなぎとめ、その日を生き延びているだけなのだ。妹の死を乗り越えてなんかいないし、周囲には迷惑をかけ通しのまま。それだけのちっぽけな存在に過ぎない。

 残響が弾けるスタジオで、俺は「サバイバー」である陽の――すなわち、俺の戦友と言うべき、傷だらけの生き残りの――力になれたらと強く思った。

 陽との出会いを後悔したくない。そんな事が起こらなければ良い。

 そんな、願いに等しい俺の勝手な感傷が、二人の運命を狂わせることになるなんて、その時は思ってもみなかったのだ。



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