蝉達がサマーライブを終えて眠りにつき、向日葵が一斉に頭を垂れる季節に、俺はバンドアパートの存在を知った。
「な、夏生、やっぱりやめようよ。部外者がスタジオ練習を見学するなんて、良くないんじゃない? だって皆、本気でプロ目指しているんでしょ? 邪魔するのは嫌だよ」
「今日は特別。皆には話通してあるから」
秋雨が頬をひんやりと撫でて、陽の長い黒髪をぬらしてゆく。
水鏡のように街を照らす、水たまりだらけのアスファルトを笑いながら駆け抜ける俺達に、通行人が怪訝な表情を向けた。開店前の飲み屋の群れを通り抜け、トタン屋根の箱みたいな住居を目印に左折、地下のスタジオに続く階段を一段飛ばしで駆け下りる。
***
事の発端は、ベースの秋川との口論だった。
彼は事あるごとに、陽に肩入れしすぎないよう、俺に忠告したのだ。
率直に言って、心外だった。
例えば夏休み以降、俺と陽との仲が急接近して、音楽活動に支障を出しているとか、そういう困りごとがあったのならまだわかる。しかし、そうではない。陽は母親の許可がおりないらしく、携帯電話を持っていないため、夏休み中彼女とは会うどころか連絡すら取れていない。
確かに、妹と似た境遇の彼女の事は心配だし、俺で出来る事があれば喜んで力を貸したいと今でも思うが、頼まれてもいないのに――しかも初対面の相手だ――わざわざ家を探し出してまで、御用伺いをしようとは思っていなかった。というか、それをしたらただのストーカーだ。
陽にだって都合があるだろうし、俺のお節介を望むかどうかもわからない。彼女が白馬に乗った王子様を待つタイプに見えなかったというのもあるが、彼女の母親がどんな反応をするかわからない以上、下手に踏み込んで刺激するわけにはいかないとも思う。
それにも関わらず秋川は、ぐちぐちと、陽を遠ざけろという旨の話をするのだから、俺もいい加減にうんざりしていたのだ。
「そんなに心配なら、あの子と実際に会ってみれば良い。ここに連れてきて、変な事をするような奴じゃないって確かめてみれば良いだろ?」
俺の反撃を予期していなかったのか、秋川クリスは言葉に詰まり、端正な顔をしかめた。
「賛成、ここ数日の秋川、口を開けばその中学生の文句しか言わねーんだもん。そろそろいい加減にして」
セカンドギターのケイがうんざりとした様子で俺に同調すると、
「……あんまり執着しすぎない方が、いいだろうなぁ~」
と、ドラムのシュウも苦笑いするのだった。
せっかく陽を呼ぶのなら、自分たちがどんな音楽を演奏するのか聴かせてやりたい、という俺の我が儘を、皆は了承してくれた。気の良い仲間達の好意に寄りかかっているのは重々承知していたけれど、皆は皆で、まさかアルバイトの面接よろしく、品定めをするためだけに、少女を呼びだす訳にもいかないと思ったようだ。それなら、楽しい時間を共有しようと言うのが俺達の主張だった。――陽が誘いに応じるかもわからないし、俺達の音楽で喜ぶはずだと信じて疑わないあたり、我々も大概、強引で面の皮が厚い集団だと思うけれど。
ふと、この感情は片思いの相手へ向けてのものというよりは、妹に対してのものに近いかもしれないと気が付いた。先日、皆から言われた「陽を雪華と同一視している」という声が蘇りかけ、慌てて呼吸を整える。
「決まりだな」
こうして俺達は当事者不在のまま、スタジオの練習日をプチライブと名付けて、都合の良い時に陽を招待しようと決めたのだった。
――売り言葉に買い言葉で決まった事だ。深い意味なんて、無い――
誰に言うでもない言い訳を脳内にはべらせ、俺は始業式を待った。
そして迎えたその日。陽は高等部の門の前で、可哀そうになるくらい身を縮こまらせて待っていた。
我が同級生諸君の多くが、育ちの良いお嬢ちゃんお坊ちゃんである事に、彼女は感謝したに違いない。少なくとも奇異な目で見られる事を別にしたら、そっとしておいてくれるのだから。
待ち合わせ場所を変えれば良かった――遅すぎる後悔を噛み潰しながら話しかける。
「よう、久しぶり」
「夏生……先輩!」
流石に高等部の生徒がそこらじゅうに居る中で、俺の事を呼び捨てする勇気は無かったのだろう。取ってつけた「先輩」という言葉に、何故か一抹の寂しさを覚えた。
一方の陽はほっとした顔をして、俺に駆け寄ってくる。
「補習の日は本当に、ありがとうございました!」
がばっと垂直お辞儀をしたかと思うと、華奢な両手に抱えられていた体操服袋が、ずいっと差し出される。微かな柔軟剤の香りが鼻腔を擽った。
おう、だか、あー、だか、言葉にならない相槌を打ちながら体操服を受け取り、何をどう話しかけたら良いものかと思いながら、「その後元気か」だの「夏休みはどう過ごしたんだ」だの話しかける言葉を予行練習していると。
「あの、音楽、聴かせてもらいました!」
意外にも、陽の方から歩み寄ってきた。
「音楽?」
「CD! 渡してくれたじゃないですか! 忘れちゃったんですか?」
どちらともなく校門を背にして、歩き出していた。
俺は陽の信じられない、という表情を見て初めて、補習の最後に自分たちのバンドの自主制作CDアルバムを押し付けた事を思い出した。まさか律儀に聴いてくれているとは思わず、すっかり忘れていた。
「――マジか、聴いてくれたんだ」
無意識に、足は中央公園の方へ向いていた。陽も嫌がらずについてくる。
一人、また一人と高等部生が居なくなるのを確認した後で、陽は少しだけくだけた口調で話しを続けた。
「感想言えって言ったの、先輩じゃんか」
その様子はまるで、子犬が尻尾を振ってじゃれついてくるかのようで、補習の時に感じた、研ぎ澄まされた刃物のような雰囲気とは全く異なっていた。こうやって浮足立った様子を見るに、彼女と妹の雪華は、やはり別人なのだと思い知る。
「私、あんまり音楽に詳しくないから、変な事言ってたらごめんなさいなんですけど、ヴォーカルの声がものすごく優しくて。でも、曲によっては、逆境に食らいついていくみたいに力強くて。なんか、元気貰えちゃったりして」
言いながら恥ずかしくなってきたのか、陽はどんどん俯いてゆく。その姿を見て、なんだか俺まで照れくさくなってきた。
「私正直、この夏休みは色んな事が重なっちゃって、なんかもう頑張れないと思ってたんですけど。先輩達の音楽聴いて、なんか、まだまだ大丈夫って思えました。
こんな素敵な音楽を生み出せるなんて、夏生先輩は凄いです。月並みな言葉ですけど……尊敬しました。本当に、心の底から」
「……ありがとう」
しばし訪れた沈黙はしかし、筆舌にしがたい心地よさを纏っていた。
「あの、もし他におすすめの音楽があったら教えていただけませんか? 私、音楽聴く習慣が無いからわからなかったんですけど、しんどい時に摂取する音楽って、心の汚れを洗い落としてくれるんですね!」
陽の、その独特な訴えを聞いているうちに、真っ黒に汚れたハートの形をした「心」とやらが、洗濯機の中に放り込まれ、大量の水で洗われるような絵面が思い浮かんだ。
知らず、唇の端に笑みが浮かぶ。
「なあ、この後って時間あるか?」
陽は一瞬だけ目をそらして何かを考えているようだったが、つと視線が戻ってきたかと思うと、こくりと頷いた。
「音楽のすばらしさ、俺達が叩き込んでやる!」
そう言いながら俺は、バンドメンバーのグループラインを起動した。