夢を見た。
朦朧とする意識のまま周囲を見渡すと、そこは箱のように狭い空間だった。
意識がはっきりしてゆくうちに目が慣れて、壁も天井も打ちっ放しのコンクリートで出来ていると知る。どういう訳だか俺は、その無機質な空間に一人たたずんでいるのだった。
ふと振り返った視線の先に、堅く閉ざされた錆まみれの扉があった。
肺に貯まった埃臭い空気を吐ききってから、もう一度ぐるりと見渡してみると、錆び付いた安っぽい扉がある他に、何もない。
試しにドアノブを回してみるも、ぴくりとも動かない。ドアに小さく空いている覗き穴を除くと、曇ったレンズから浅縹色の空が見える。
まさかこんな味気ない所に閉じこめられっぱなしなんてことは……無いだろうなと思い、再びドアノブに手をかけてみるも、やはりそれは微動だにしない。
全身の毛穴という毛穴から脂汗が噴き出すと同時に、血の気が引き潮のようにざあと引いた。俺は自分が夢の中にいると言う事も忘れ、無我夢中で他に部屋から脱出する方法がないかどうか探したが、無駄な抵抗に終わる。
「簡便してくれよ……」
外へ出る事が絶望的だと知った俺は、扉に背を預け、頭を抱えながらずるずるとその場にへたり込んでしまった。しかし同時に、コンクリートに触れているはずの箇所から、ちっとも温度を感じないのに違和感を覚えて、やっと、これが夢の中の出来事だと思い出した。
安堵で強張っていた体から力が抜ける。
けれども、たかが夢だろうが、持て余すだけの時間は苦痛で、不快な状況下にいる事には変わりなかった。
いかに時間を有効に使ってやろうかと、作曲中の新曲を口ずさむ。
すると、それは突然の出来事だった。
不意に、呼吸を含むその場の音が周囲から消える。おやと思う間もなく、無音の空間に一節のメロディーが流れた。
無意識にそれを舌にのせ、唄にした瞬間、形容し難い衝撃に襲われる。
これは俺が創った曲じゃない――確信だった。
突然生まれたこの硝子細工のように美しい旋律は、今まで俺が作曲してきたどの曲とも違う、異質な輝きを放っていた。俺の無意識下から浮かび上がってきた歌と言うよりは、誰かが気まぐれに俺へと授けてくれた作品なのだと、どういうわけだか確信があった。
天から音楽が降ってきたのだ。
迷うことなく主旋律を口ずさむ。文句のつけようの無い完成度だった。
体が歓喜に震える。
天からの贈り物を壊してしてしまわぬよう、丁寧に、丁寧に唄い上げてゆく。
――もっと唄いたい。この素晴らしい唄を確実に自分の物にしたい。
強く願うと全身がみるみる高揚してゆき、ワンフレーズ唄う度に電流のような何かが全身を駆け抜けていった。
(一刻も早くみんなと打ち合わせしなきゃ! 次のシングルはこれで決まりだ!
――ああはやくスタジオで唄いたい‼
目を覚ましてくれよ、俺! 眠ってる場合じゃないだろ‼)
夢の中にいる自分にビンタでもかましてやりたいと思ったその時だった。
ギィ――。
合格――……そう告げるように、先刻までピクリとも動かなかったドアがゆっくりと開いた。
ひゅうとドアから入り込んできた冷気に身を竦めると、なんということだろう、まるで蝋燭の火が消し飛んだかのように、唄が頭の中から跡形もなく消えてしまったのだ。
――嘘だろう⁉
泣き出したくなるほどの焦燥感をなんとか宥めつつ、先の曲を再現しようと歌ったけれど、輝きは蘇らなかった。似たようなメロディーを創ってみたものの、俺が無理やり捻り出した音楽は先の天啓とは本質から異なっていて、出来の悪い模造品にしかなっていないのは明らかだった。
肺を刺す乾いた空気が、天からの贈り物を俺の中から 摘まみだしてしまったのだ。
掴み損ねた栄光に縋りつこうと手を伸ばすが、虚しくも浅縹の空を掻くだけに終わる。
ギィ……ギィ……と、ボロ扉の蝶番が嘲笑うように軋んでいる。
――覚えていろよ、また来るからな。あの唄は絶対俺の物にしてみせる――。
のろのろと部屋から出ると、腹いせにバタンと大きな音を立てて、ボロ扉を閉めてやった。
肩越しにドアノブを睨みつける。銀色の光が弧を描いた。
残念ながら、一向に夢から覚める気配が感じられなかった為、仕方なく、狭苦しいコンクリートの部屋を出て、歩きながら狭い廊下を観察する。
そこは廃屋と言っても過言ではないボロアパートだった。
朽ち果てた、かつてはドアだったものをひっぺがして室内を覗いてみると、かつて居住空間だったと伺える場所は今や、生活感が消失し、コンクリートで出来た棺桶のようだ。
夢の中の出来事とわかっているせいか恐怖心は無いけれど、あまり長く留まっていたい場所とは思えずに、出口を求めてあたりを見渡していると、廊下の突き当りに非常階段が見えた。
迷わず駆け下りる。階段を踏みしめる音が四方八方に転げ落ちてコンクリートにぶつかってゆく。耳障りな残響を払いのけながら最後の段を踏みしめた時、
「誰」
背後から、聞き覚えのある声が投げかけられた。
恐る恐る振り向くと、階段の上には、ボロボロにくたびれたTシャツに薄汚れたジーンズという格好の少女が立っていた。
「……陽?」
陽は、華奢な肩にかけた布製のショルダーバッグを、痣の目立つ両手でぎゅっと抱きしめている。先日会った時とはどことなく雰囲気が違っている気がした。うまく言葉には出来ないけれど、なんだか帰る場所を失った野良猫のように、覇気が無いように思えたのだ。
「夏生、どうしてここに?」
「どうしてって……」
自分の夢の中の出来事に、どうしても何もないだろうと思ったが、口には出さなかった。
――正確には、出せなかった。
ふらふらとこちらの様子を伺う少女の双眼から、光が消えていたからだ。
彼女はどこかぼうっと虚空を見つめ、今にも崩れ落ちてしまいそうな脆さを隠し切れずにいる。
「……何かあったのか?」
夢であることなどすっかり忘れて、俺は階段を駆け上がり、少女の華奢な両肩を掴もうとして――。
「え?」
伸ばした両手は、宙を掴むだけだった。
予期せぬ事態に混乱し、たたらを踏む。陽にぶつかってしまうと身をよじったが、要らぬ心配だった。
いつの間にか少女は姿を消し、不愛想なコンクリートのみが、俺を見下ろしていたのだから。