バスドラムとスネアドラムによって交互に生み出される低音と高音に、己の鼓動を折り重ねた。主旋律を奏でるメインギターの隣にセカンドギターが並び、単調なリズムに遊びを持たせる。その飛び跳ねるようなメロディーはさながら道化師のようだった。
道化はコンクリートジャングルを軽やかな足取りで駆け抜けて、ケタケタケタとやかましく笑いながら曇り空を背景に振り返り、仰々しいしぐさでお辞儀をする。
そして、ゆっくりと手を差し伸べるのだ。彼の世界に引き込むために。
――今すぐ唄いたい。
突き抜ける激情を右手の拳で握りつぶそうとしたがうまくいかなかった。仕方が無いので、レンタルスタジオに蔓延する、ホコリ臭い空気を肺に詰め込んでやり過ごす。
今はバンドの音を引き立たせる時。歌は不要だ。
頭の中では判っているのだが、何故か今日は、己に潜む暴れ馬が静まろうとしなかった。
手のひらが湿っぽい。
マイクをしっかりと握り締め、体の底から突き上げられるような衝動を必死でなだめすかす。
唐突に陽の眩しい笑顔が蘇った。
こみあげそうになる感情があふれ出てしまわないように、そして、心をあたためるそれの正体を明らかにしないように、あわてて目を閉じてシュウが叩くドラムの音に集中した。
セカンドギターを担当する、ケイの奏でるアップテンポなメロディーが唐突にその軽妙さを失い、どこか物悲しい途切れ途切れの主旋律へと変化する。
そっと救いの手を差し伸べてくれそうな優しい弦の音は、暗澹と垂れ込む雲から光を纏って地上に降り立つ蜘蛛の糸。
ケイのギターに秋川のベースが交わると、銀色の蜘蛛の糸に虚無を纏う氷のリボンが絡み合い、氷塊の階段を織り上げる。俺達の歌を届けるためのステージだ。
やっと、俺の出番が来た。噛みつくように、マイクへしがみつく。
歌に想いをありったけ詰め込んで、仲間のメロディーが創りあげた氷塊の階段を駆け上がる。
はじめの一フレーズを唄ったその瞬間、脳天から足先へと稲妻が突き抜けるような感覚に陥った。声を出すその度に体が激情に震え、まるで自分が管状の楽器になってしまったようだった。
「歌に文句をつけようとは思わないが、ひどい顔色だな。体調でも悪いのか?」
「――え?」
火照ったままの体を持て余すように指先を宙でひらひら泳がせていた俺の指を、秋川がトンボを摘むような仕草で捕まえた。それは彼にとっては何の悪気のない仕草だったのだろうが、俺はなんだか子供扱いされたようでむっとした。
なんでもねーよ、と、手を振り払おうとして、
「幽霊にでも会ったような顔をしている」
ユウレイ――
呼吸も忘れて絶句する。
音楽で得た高揚はすっかりなりをひそめ、ぞくりと背筋が粟立った。答えの出ない思考回廊へ転げ落ちてしまわないように、意識を腕に抱え込んでぎゅっと目を閉じる。すると瞼の裏に、陽の射るように真っ直ぐな瞳が浮かんできた。
その切れ長の双眸は雄弁に語るのだ。『私は絶対に負けない』と。確かにその鋭さと、それ故の脆さは、妹のそれに似ていたかも知れない。
バンドメンバーに陽の事を打ち明けてみるも、その反応は芳しくなかった。
練習後のファミレスでのミーティングにて。練習の反省と今後の予定を打ち合わせた後の雑談が始まる前の空白に、補習の日にあった出来事を打ち明けたのだ。
和やかな空気が一瞬で冷え、誰も何も話さない。
――皆が言葉を失う気持ちもわかる。「死んだ妹と似た境遇の後輩を助けたんだ」と仲間から打ち明けられたら、俺だって何と言って良いかわからないだろう。それだけじゃない。せっかく出来上がりつつある瘡蓋を自らひっぺがして、傷口をほじくりまわすような真似だけはしてくれるなよ、と思ってしまうかも。
凪いだ水面に小石を投げ入れるかのように、俺たちの沈黙を破ったのは、幼なじみでドラム担当のシュウだった。
「夏生は優しいからなぁ。そういう子見ると、放っておけないんだよな」
筋肉質な体に似合わないのんびりとした口調に反し、普段だったら柔和な表情を浮かべているその顔は今、強張っている。
その態度を見るに、シュウが俺の人助けを手放しで喜んではいないのは明らかだった。
「優しいっていうか――一種の強迫観念なんじゃないか?」
ベース担当をチラリと一瞥した後、俺に向き合ったのは、セカンドギターのケイだ。シュウと対照的な棒のように細い体型に、オーバーサイズの黒いパーカーを無造作に身につけている。長い前髪が邪魔してその表情はよく見えない。
「強迫観念って?」
ケイの言わんとすることがよくわからずにきょとんとしている俺に対し、彼は言い辛そうに話を続けた。
「……困った奴を見たら、必ず助けなくちゃって思ってないか? あの愛美とかいう陽キャに構ったのも、あいつが家族と上手くいってないって知ってからだったろ?」
かっと頭に血が上ったが、ケイの指摘もあながち的外れとは言い難い。俺は努めてゆっくりと息を吐き、乱れそうになった呼吸をなだめた。
「じゃあ俺は、あの中学生を放置していれば良かったってのかよ」
「そうじゃない。その子も助かったろうし、夏生はすんげー良いことをしたと思ってる。
でも……」
「随分歯切れが悪いな」
ケイはそこまで言うと急にふつっと黙り込んでしまった。続きを話すよう促すも、口を固く結んで答えない。
それを見ていたベースの秋川が、ケイの後を引き継いだ。
「俺たちは皆、ナツを心配しているだけだ」
「心配?」
秋川は俺の返答を聞くや否や、俺の視線から逃れるように、机の上で汗をかいているグラスを見下ろした。数秒の間沈黙していた秋川だったが、意を決したように、碧眼の美しい双眸で再び俺の両目を捉え、言った。
「その子は、雪華ちゃんじゃない。だから――もし、罪滅ぼしのつもりでその子にかかわるつもりなら、俺は反対だ」
一瞬、頭の中で何かが真っ白に弾けたような気がした。
「そ、そんな事」わかってる――そう続けようとするも、喉の奥で呼吸がガラスとなって突き刺さり、俺は声が出せないでいた。それを気取られまいとわざとらしく咳をしてみせたが、それに騙されてくれるメンバーではない。
精神的に過度な負荷がかかると声が出なくなるという、ヴォーカルにとって致命的なこの症状は、雪華が命を絶った次の日に発症した。片っ端から病院へ行ったものの、身体に異常なし。精神的な問題だろうと医師は口をそろえて言った。
一時は歌えなくなるほど酷い状態だったけれど、少しずつ薄皮を剝ぐようにして回復し、やっとこの頃、音楽活動に支障が出なくなったところだった。それでも時々、精神状態が悪いとこうやってうまく喋れなくなってしまう。雪華の幻影に悩むだけに留まらず、追い詰められると簡単に調子を崩してしまう、そんな己の脆さが嫌で嫌で、仕方が無かった。けれど。
俺は唾を飲み込み、ゆっくりと言葉を吐いた。
「罪滅ぼしのために声をかけたわけじゃない。放っておけなかっただけだ。
確かに、その子に妹の姿を全く重ねなかったと言えば嘘になる。だからって、自分の罪を赦して貰うために、人を助ける訳じゃない。
今までも、そしてこれからも。
そもそも、何をすれば贖罪になるって言うんだ?」
ふと、誰かの視線を感じてそちらに目をやった。咎めるような気配の正体は十中八九、店員や周辺の客による、急に大声を出した俺への非難のまなざしだっただろう。しかし、俺には違ったものにしか受け取れなかった。なぜなら、視線の先にうつるファミリーレストランの窓ガラスには、妹の姿が映っていたからだ。
喉元のガラスが再び己の存在を主張する。ひゅ、と、喉から嫌な音がした。
(あれは雪華じゃない。俺の作り出した幻覚だ。しっかりしろ――)
いくら言い聞かせても振り払えない底なしの恐怖を、頭を振って追いやろうとして。
――その子の事は助けるんだね。私の事は、助けてくれなかったくせに――。
それは確かに、妹の声だった。
脳天から足の爪先までを、何かに串刺しにされたような衝撃に襲われて、
「何をしたって俺の罪は赦されない!」
堪らず、自分の支払い分の現金を机の上に叩きつけ、仲間の反応から目を逸らしてその場を後にした。
皆が俺の事を心配して言ってくれるのはわかっていた。警告として受け止めておけば良かったのだろうけど、どうしても感情が抑えられない。
もし、彼らの懸念が一部なりとも真実だったなら――そんな気は毛頭ないと言う事は易しいが、それを神に誓えるかと問われたら尻込みしてしまう、己の矮小さに気づき、愕然とした。
赦されるものなら赦されたいと、「そう思わなかった日が無い」なんて断言できるほど俺は強くない。けれども、妹を救えなかった無念を晴らすため、その代理を似た境遇の少女に演じてもらい、誰かを助けたふりをする。そんな三文芝居に出演するなんて、死んでもごめんだった。己にそんな浅ましさがあるとは、たとえ仮定の上でも受け入れ難い。
クーラーの効いたファミリーレストランから、アスファルトを焦がす八月の太陽の下へ勢いよく躍り出たものだから、体が驚いたのだろうか。ふと、意識が途切れかかった。ぼんやりと視界がにじんでいって、天と地が溶けて混ざり合う。息を吸っても吸っても視界は鮮明にならず、酸素が体に行き渡ってゆかないような錯覚に襲われる。
慌てて周囲を見回すと、整然と並ぶ街路樹の間に古びたベンチを見つけた。俺は這いつくばるような心地でベンチまで身を引きずると、そのままそこに崩れ落ちるように座った。
まだ意識の方隅に、誰かから見られている感覚がある。粟立つ肌から目を逸らし、スクールバッグの中から、いざという時のために突っ込んでおいたビニール袋を取り出した。口元にあてて呼吸を繰り返す。自分の体に集中している間は、誰かの視線にも幻聴にも悩まされずに済んだ。
しばらくそうして呼吸を整えていると、不思議な事に過呼吸は収まったものの、今度は意識だけがぼんやりと遠のいてゆく。
猛暑の中、ベンチで動けなくなってしまうなんて危険極まりないとはわかっているものの、体が言うことを聞いてくれない。
――あの子は助けるんだ。私の事は放っておいたくせに――
(俺はいつまで、雪華に詰られ続ければ良いんだろう。
――俺のした事は赦されないとして、なら一生、この幻覚と付き合っていかなくちゃいけないんだろうか――。それなら、いっそ)
まとまりに欠ける思考が糖蜜のように溶けてゆき、混じり合う。たまらず目を瞑ると、まるで何かに導かれるように、俺はすとんと眠りに落ちた。