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第15話

 ひりつく喉の渇きに眉根を顰めると、瞼の裏に無数の光の粒が瞬いた。無軌道に彷徨いながら常闇を照らす薄ぼんやりとした小さな光が、幼い頃に見た蛍の姿へと重なってゆく。

 ふらふらと頼りなく闇夜を泳ぐ光の豆粒は、夜空に瞬く星の群れからはぐれてしまった、迷子の星屑のように見えた。


 ――蛍はね、地上に舞い降りた流れ星。捕まえると願いが叶うのよ。ほら、行ってらっしゃい――。


 記憶の底に沈めたはずの囁き声に、背筋が凍った。

 脳裏に蘇るのは、薄紅色の口紅で彩られた母の唇が、三日月のように、にんまりと弧を描く光景だった。そのいつもと違い、妖艶な母の様子に違和感を覚えながらも、俺は、早く蛍を探しに行こうとぎゅうぎゅう手を引っ張る妹の主張に負けて、母に背を向けるのだ。


 俺が小学生の頃。夏休みに母の田舎へ帰った時の話だ。

赤く燃えていた空の端が少しずつ冷えてゆき、夜の帳が降りようとする頃合いだったように思う。この時分になると母は俺達に蛍を探させ、自分は体の具合が悪いからと自室に閉じこもっていた。

 よく考えれば日中も母の様子はおかしくて、目の前にいる俺達の事を眺めながらも、心はここにあらずというような、ぼんやりしている日が続いてた。

 今から考えれば不自然な母のその態度に微かな違和感を感じつつも、夕方以降も好き放題遊んで良い自由な環境が嬉しくて、俺はただただ、目の前の楽しみだけを追っていたように思う。

 母は自室に引きこもっているし、父は仕事の都合で帰省していなかった。その上、祖父母は自営業が忙しくて夜遅くまで帰って来ないとなれば、俺達に門限をとやかく言う大人は誰も居ないのだった。

「お兄ちゃん、蛍、今日こそ捕まえられるかな」

「お前には無理だよ、だってトロいもん」

「意地悪! もし捕まえられても、お兄ちゃんの願い事なんて絶対叶えてあげないから」

「ごめんごめん、言い過ぎた。ほら、行こうぜ」

 少しずつ闇に飲み込まれてゆく獣道を用心深く歩きながら、妹と二人で目が暗闇に慣れるまで待つ。夜に溶けかけた細い道はぐにゃぐにゃと曲がりくねりながら、山奥へと続いている。

「お母さんも一緒に来ればいいのにね」

 雪華が寂しそうにぽつりと零す。それには全く同感だった。

 ――いつから母さんは俺達と一緒に遊ばくなったのだろう。

 それはなんとなく、父と母とが夜中に何かを怒鳴りあうようになった頃が境だったように思えたが、その事について考えると、ますます不吉な〝何か〟を呼び込んでしまうような気がして、俺は頭を振って思考を離散させた。

「蛍捕まえたらさ、一匹目は母さんにあげようぜ! 願いが叶うんだろ? 母さんの病気を治して、また一緒に遊ぶんだ」

 しょんぼりと足元に視線をおとしていた雪華にそう言うと、妹はぱああっと花が綻ぶような笑みを浮かべて、力強く頷いた。その笑顔に、俺は弱い。気が付けば右手に握った虫取り網を、強く握りしめていたのだった。


 母さんが神聖視していた迷子の星屑は、思ったよりあっけなく捕まえることができた。

 弱り切った個体だったのだろうか、その蛍は草の上でじっとしていて、微動だにしなかった。俺ははやる心を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐いた後、蛍に向けて虫取り網を素早くかぶせた。網の中の獲物を虫かごに入れる時は、緊張で手が震えて、危うく取り逃がすほどだった。

 りーりー、と、周囲から聞こえる虫の声がやけに耳についたのを覚えている。

 〝捕まえたら願いが叶う〟という大層な伝説を持つ生物なのだから、捕まえるのにもう少し苦戦するのではないかと思っていた俺達は、思わず顔を見合わせた。

 警戒をしていたのか、虫かごの中でじっとしていたその虫が、再びぼんやりと発光しだすのを見て、やっと俺達は我に返る。妹と一緒に、声にならない悲鳴を上げて喜んだ。

 なにせ、〝願いが叶う〟のだ。

 母さんの病気を治してもらえるかも知れないし、もしかしたら、父さんと母さんが夜な夜な喧嘩する原因も解決できるかも知れない。

また、家族四人で仲良く過ごす日々が戻るかも知れないと思うと、俺は居ても立ってもいられない思いだった。

 その時初めて俺は、妹の手前強がっていたけれど、本当は自分だって寂しかったのだと痛感した。ともすれば別の世界へ意識が飛んで行ってしまう母を、俺達という現実にしっかりと繋ぎとめておきたかった――ひょっこりと顔を出したそんな事を願う自分に驚いたけれど、全て今日で終わりだ。

蛍を使って、俺達が終わりにするのだ。

 お母さんに見せてあげなきゃ! と、どちらともなく言い合って、俺達は一目散に家へと走り出した。まるで、幸せの青い鳥を捕まえたような高揚感を胸いっぱいに抱きしめながら。

 夜露にぬれた草に足を絡めとられながら、俺達は全速力で裏庭へ転がり込んだ。母が休んでいるはずの寝室へ向かおうとして――初めて、なんだかいつもと様子が異なる事に気が付いた。

 暗闇にぼうと浮かび上がる障子の向こうから、母と、初めて聞く男の声が聞こえるのだ。お客様でも来ているのかと思った刹那、「ふふふ」と笑う母の艶っぽい声にぎょっとして、俺達は思わずその場に立ちすくんだ。そんな風に笑う母さんを、俺は知らなかったのだ。

「こどもたちは大丈夫なのか?」

「平気よ、蛍を探すように言ってあるもの」

 妹も何か感ずる所があったのだろう、微動だにせず寝室を見つめていた。

 足の裏に根っこでも生えてしまったかのように、二人でその場から動けないでいると、やがてくすくすという笑い声がやみ、布が擦れる音や、犬が舌を出して体温調節をするような荒い呼吸が聞こえてきた。不自然な水音が虫の声の合間を無作法に滴り落ちて、猫の鳴き声に似た甲高い声が静謐を破る。

「行こう」

 それらの音が具体的に何を表すのか、その時はちっともわからなかったけれど、母が家族を裏切っているというのは、小学生だった俺でもわかった。

 なんだかその場にとどまっていてはいけないような気がして、妹の手を握り、足早に元来た道を引き返す。文句の一つや二つ零すかと思いきや、雪華は大人しく俺に従った。

 夏の虫の大合唱を耳障りに思いながら、二人で黙々と獣道を歩いた。

 利き手に握った虫取り網が、いつもより重く感じられる。何なら寝室に向けて投げ捨ててくればよかった。そうすれば、あの別人のように豹変した母の目を、覚ませたかも知れないのに。

 鉛を飲んだような重苦しい気持ちを少しでも楽にしたくて、天を仰ぐ。満天の星空をぼんやりと眺めていると突然、俺の抱く母への想いは、もしかしたら片思いなのかも知れないと思えてきた。

「お兄ちゃんさ、幸せの青い鳥の物語って知ってる?」

 唐突に雪華が言った。こんな時に何を、と、神経がささくれ立つ思いだったが、妹が先の光景を見て何を思ったか判らなかった為、何でもない風を装って返事をする。

「捕まえると幸せになれる青い鳥を探す冒険の話だろ? 結局、捕まえられなくて家に帰ったら、家で飼っていた鳥こそが幸せの青い鳥だったって言う奴」

「うん、そう。幸せは外の世界ではなくて、身近な場所にあるんだよって教訓の話」

「……うちにも居れば良かったな、そんな鳥」

 雪華は少しだけ沈黙した後、弱々しく言った。

「私にとっては、居たよ。

 お父さんとお母さんとお兄ちゃんと私で、ご飯を食べながらテレビを見て、その日にあったくだらない話をして……将来の事とか、人と比べてどうとか、そんな事考えなくて済むような、ゆっくりと過ぎるあたたかい時間。あれこそ、私にとっては幸せの青い鳥だった」

 急に大人びた口をきいた妹に驚いて、俺はまじまじと雪華を見た。暗闇に紛れてその表情はうまく読み取れなかったけれど、彼女の細い両肩が震えているのを見て、俺は胸が締め付けられるような思いだった。

 妹は、母の裏切りをはっきりと理解していたのだ。

「本当は、蛍が願いを叶えてくれるなんて本当かなあって思うこともあったんだ。でもきっと、蛍を捕まえたら、お母さんは喜んでくれると思ってた。だってあんなに楽しそうに、迷子の星屑の話をするんだもん。まさか、どうでも良かったなんて……私達を外へ追い出すための口実だったなんて……思わなかったよね」

 俺は何も言えなかった。

 心から憧れていたお伽噺の真の姿を知ってしまったかのような。大切にしていた何かが、両手から零れ落ちてゆく感覚に陥りながら、ひたすら妹を抱きしめるしか出来なかった。

 虫かごに目をやると、蛍は我関せずといった風にぼんやりと光り続けている。

 雪華はしばらくの間、俺の胸の中で泣いているようだった。やがて、震えが止まったと思ったら、今まで話していた声音より一段低い、まるで怒りを湛えているかのような固い声で話を続けた。

「一般的に知られている『幸せの青い鳥』は絵本用に作り替えられたお話でね。実は原作と違うんだよ」

 急に様子が変わった妹に驚いて、俺は怖々と雪華の顔をのぞき込んだ。

「冒険から帰ってきたチルチル達が飼っていたのは、確かに幸せの青い鳥だったの。二人はもう大喜び。それでね、この青い鳥に何を食べさせようか相談している所で、なんと青い鳥は逃げていってしまうの。 どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞ僕達に返してください。僕達が幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥が必要になるでしょうから――こんなセリフで物語は終わるの」

 雪華の双眸には明らかに、怒りの炎が燻っていた。俺は、幸せの代名詞である『青い鳥』の意外な結末に驚きはしたものの、豹変した妹の様子に気圧されてしまって、それどころではなかった。一体どうして、彼女がその話を持ち出したのかもわからなかった。

 そんな様子の俺を見て、雪華は確かに〝嗤った〟。今の今までしがみついていた家族相手に、「所詮お前はそこまでしかたどり着けない存在なんだ」と、嘲るように。

 ――それは只の、被害妄想だったかも知れない。しかし、俺にはとてもそうは思えなかった。それほど、俺の内面を突き刺した妹の視線の奥にあるものは、激しかった。

「幸せを捕まえても、あっという間に逃げてってしまう、そんな救いの無い物語の方が、私達にはぴったりだ。……でもね」

 自嘲気味に吐き捨てた言葉の残響が消えて間もないうちに、雪華はすうっと虚空を睨みつけて、続けた。

「青い鳥が逃げるなら、追いかければ良いだけ。私は絶対に、負けない」

 そう言い切る雪華の表情は、俺が知っている妹ではなく、別人のように見えた。

 俺はただ、母の裏切りに傷ついて立ち尽くすばかりなのに、妹は同じものを見て、今後迫りくるであろう逆境を予測し、それをも乗り越えようと決意していたように見えた。

 そんな妹の姿を見たからだろうか。俺と違って、妹は強いのだ、と。だからと言って放っておいて良いわけではないけれど、なんだかんだ言ってこいつが逆境に負けることはないだろうと、俺は、思ってしまった。

 今から思い起こせば、それらは妹なりの虚勢だったのかもしれない。なけなしの最後の力を振りしぼって己を鼓舞していただけかもしれない。

 真相はわからない。どんなに望もうと、もう二度と、答え合わせなど出来ないのだから。


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