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第14話

 美術教師の病欠により、美術の補習は中等部の学生と合同で行うと聞いて、真っ先に思い出したのが陽のことだった。高等部生のジャージを着て登校せざるをえなかった理由を上手く説明出来ているといいが、そんな器用なタイプには見えなかった。いらぬ誤解を招いてやしないだろうかと、どこか他人事のように思う。

彼女の境遇を想像するたび、妹の憎しみに満ちた両目が少女のそれに重なって、脳味噌がしびれたようになる。意識が薄い膜の中に埋もれていって、曇ったフィルター越しにしか物事を感じ取れないような感覚。

窓ガラスから妹の視線を感じたような気がして、きつく目を閉じ、思考を意識の隅に追いやるように、頭を振った。

 美術が最後の補習科目だったため、終わったらそのまま帰れるように荷物を整理する。余計な事を考えないように、指先に触れる教科書や文房具に無理やり意識を集中させた。まるでテトリスのように教科書を詰め込んだスクールバッグのファスナーを勢いよく閉めて、肩に背負いながら高等部の敷地を後にした。

 俺の通う高校は、歴史ある中高一貫校として地元ではそこそこ名を知られている。残念ながら偏差値は年々下降傾向をたどっており、俺たちの代では決して生徒として誇らしいだの、ブランド価値があるだの言えたもんじゃないのだけれど、歴史ある建築や自然に恵まれた環境、広大な敷地の価値は変わらない。

 ――だからといって、補習を一緒くたに行うのはどうなんだと思わないでもないけれど――

 補習内容は美術の実技と聞いていたが、学年の違う者同士を集めて、採点基準はどうなるのか。疑問が頭をかすめたが、教師陣の事情をあれこれ考えるのも面倒になって、俺はその思考も放り投げた。単位不足により、高校生活そのものが首の皮一枚で繋がっている俺のような劣等生は、ただ指示に従うまでだ。

 恐る恐る中等部の敷地に足を踏み入れる。背負ったスクールバッグがいつもより重い気がした。

構内を見回すと、校庭で部活動をしている集団を除き、生徒の姿はまばらだった。それに安堵する程度に、俺は小心者だ。見ず知らずの後輩から「補習を受ける先輩」だと思われたってどうって事は無いはずなのだけれど。

 校内をうろつく許可を得るため、上履きをぺたぺたいわせながら中等部の職員室へ向かう。と、窓越しに見慣れた緑色のジャージが見えた。着ている生徒の顔を確認すると、やはり、陽だった。

声をかけるため、職員室の引き戸に手をかけると同時に、甲高い叱責が耳をつんざいた。

「嘘おっしゃい! 通学路のどこに酔っ払いがいるというの⁉ 本当はお酒をかけられたんじゃなくて、そのジャージの持ち主と、あなたがお酒を飲んでいて服を汚してしまったんじゃありませんか⁉」

 水を打ったように静かな職員室の中心で、陽が、がみがみ口うるさい事で有名な小池先生に叱責されて、小さくなっていた。陽は俺が思うよりずっと、世渡りが下手なタイプらしい。

「嘘じゃないっすよ」

 慌てて二人の間に入る俺を、小池先生が出目金みたいなぎょろりとした目でねめつけた。中等部の頃だったらひるんでしまったであろう、妙に威圧感を放つ視線だった。余計な刺激をしないよう、あえて陽の方は見ずに小池先生の目をしっかり見据える。

「あら桐乃君。美術の補習かしら? 嘘じゃないって、何か知ってるの?」

「このジャージは俺のです。俺、中央公園で偶然、樋口さんを見かけて。なんか制服から変な匂いがして、マジ授業とか出れる感じじゃなくって。彼女めっちゃ困ってたからジャージ貸したんすけど……なんかマズかったっすかね?」

 小池先生の眉がぴりりと痙攣した。中等部時代、愛想がよかった俺はどちらかといえば彼女には気に入られていたような覚えがあったのだが、今回はばかりはその「お気に入りの生徒貯金」では切り抜けられそうになさそうだ。

「樋口さんとは初対面ですし、俺は昨日の夜、ずっと親父の店を手伝ってましたから、彼女と酒盛りはしていません。つか、高等部生のジャージなんか着て登校したら、あからさまに目立つし問題になるってわかりますって。そもそも、わざわざ制服でお泊り会なんてしないでしょ。夏休みなのに。

彼女はそれを着るしか選択肢がなかったんすよ。水浸しの制服、見たでしょ?」

「桐乃君の言う通りかも知れないわね……でも、お酒をかけられたというのは不自然じゃありません事? 昼間から酔っ払いが出歩けるほど、このあたりの治安は悪くありませんのよ?」

 犯人が家族の中に居たとしたら、どうするんだ?

あんたがこの子の家庭問題を解決してくれるのか? 助けてくれるのか?

下手にいじくって被害を拡大させないように、立ち振る舞えるっていうのかよ? そんなデリケートな所まで考えて抜いて発言しているのなら、こんな人目のつく場所で怒鳴り散らさないよなぁ。

――本音をぐっと奥歯で噛み潰して、俺は何でも無いような顔をして言った。

「そんなの知らねっす。俺が知ってるのは、もうすぐ補習始まるって事だけ。

高等部、桐乃夏生でーす。入室許可お願いしまーす」

 騒ぎを遠巻きに眺めていた教師陣に声を投げかけると、ひょろっとした背の高い男性教員が、ばつの悪そうな顔をして出席簿をチェックしはじめた。凍り付いていた職員室の空気が、少しずつ柔らかくなってゆく。

 視界の端では小池先生がわなわなと震えていたけれど、気が付かないふりをしておいた。中等部校内への入室許可を得るが否や、くるりと踵を返して美術室へ向かう。

「待って、あのっ、桐乃先輩……じゃなくて、な、夏生」

 大股でずんずんと歩く俺の速度についてこれないのか、背後から陽の弱弱しい声がぱたぱたという足音と共に聞こえた。叱責から解放されたのか、それとも隙をついて逃げ出してきたのだろうか。

 なんとなく振り返るのが億劫で、歩く速度こそ落としたものの、視線を美術室へと延びる廊下にあわせたまま、返事をする。

「ずいぶんわかりやすく、目ぇつけられてんな」

 流石にこれ以上は意地悪かと思い、短く息を吐いた後、陽に視線をおとした。

少女は顔を真っ赤にして、荒い呼吸の合間に、とぎれとぎれになりながらも事情を説明してくれた。

「うちの保護者ちょっと変わってて、あんまり先生達から良く思われてないって言うか……先生達はいつも、腫れ物に触れるみたいに、遠巻きに私の様子を見ているだけだから、今日の災難も見て見ぬふりされて終わるんだろうなって思ってた。まさかあんな風につるし上げられるなんて思わなかったよ」

「本当の所、どこで酒かけられたんだ?」

「……家」

「……そっか」

 気まずい沈黙が二人の間に横たわる。

「ジャージを貸してくれた恩があるから打ち明けるけど……泥酔した母親にやられたんだ。そんな事、先生相手に正直に言える訳ないし。言ったところであの人達は、母さんに電話して厳重注意して終わりだよ。そんな事になったら――」

 陽の表情に影が落ち、切れ長の双眸から光が消える。

「余計に事態が拗れるもんな。わかるよ」

 努めて感情を排して言った言葉を、陽は目を丸くして聞いていた。俺がそんな事を言うなんて予想もしていなかったんだろう。その場で人形のように固まってしまった。

「補習、行こうぜ」

 声をかけると少女はハッと我に返り、小走りに俺の後をついてきた。まるで雛鳥を飼っている気分になる。

 二人の間のぎこちない空気を変えようとしたのだろう、努めて明るい声で陽が言った。

「……次の美術の補習、私達だけなんだって」

「マジかよ、何すんのか知ってっか?」

「お互いの似顔絵を描くって言ってたかな」

「へぇ、俺みたいなイケメンをモデルに描けるなんて、お前は幸せだな」

 場の空気が少しでも和めばいいとおどけてみるも、陽はきょとんとした顔で

「うん、私もそう思う」

 と言ってのけた。面食らった俺は、顔から火が出るくらい恥ずかしくなった。てっきり、冗談として笑って受け流されると思っていた。

「……冗談だよ」

「そうなの? 夏生は綺麗な人だよ。モデルを頼みたいくらい」

「モデル?」

 陽ははっと目を見開き、再び顔を真っ赤にして頭を振った。

「その、私、美術部で、絵を描くのが好きなの。ごめん、ずうずうしい事言っちゃった。忘れて」

「……へぇ、それじゃあお手並み拝見といきますか」

「そ、そんなに期待されても困る。絵が好きなだけで、才能があるわけじゃないから」

「良くわからんけど、ブサイクに描いたら承知しないからな」

 なんだか、うまく噛み合わない歯車のような会話をしながら、俺たちは美術室へ向かった。


陽の絵の腕前はなかなかだった。少なくとも、謙遜の言葉が大げさに思える程度には。

確かに、彼女の描く絵は美術の教科書に載っているような、今にも紙面から飛び出してきそうな作品ではない。いわゆる、一般的な美術教育を受けた者の絵とは違う。しかし、そのタッチは繊細で、今にも光に溶けてしまいそうな儚い美しさがあった。明らかに、陽の素描能力は中学生の平均値を飛びぬけて上回っていた。

 俺はこっそりと、自分の描いた幼稚園児の落書きのようなスケッチを机の上に伏せた。陽と俺の画力は、月とスッポンだったのだ。

 陽は俺が覗き込むのも構わず、スケッチブックの上で鉛筆を踊らせている。少女の右手はまるで指揮者のように滑らかに動き、みるみるうちに、紙の上に世界を創っていった。

「――すごいな」

 スケッチブックには、儚い美しさをたたえる美青年が静かに目を伏せていた。陽が描いた俺は、まるで誰かを慈しむかのように、静かに微笑んでいる。

「陽は――美術系の進路に進むのか?」

 スケッチブックから顔をあげた少女は、きょとんとした顔で俺を見た後、まさかと俺の言葉を笑い飛ばした。

「ただの趣味だよ。プロでやってく実力なんて無い」

「そうなのか? こんなに上手いのに……。専門的な勉強をしたら、違うんじゃないか?」

 素朴な疑問を投げかけたつもりだったけれど、陽はしばらくの間、それには答えず、首をかしげてスケッチブックの一点を凝視していた。聞いてはいけない事を聞いただろうかと慌てていると、陽は一瞬だけ目を伏せたあと、静かな双眸で俺を真っ直ぐ見据えて言葉を続けた。

「もうわかっていると思うけどさ、私の家ってちょっと複雑で、母さんと折り合いが悪いんだ。だから、高校を卒業したら家を出たいの。そうなると、一人で確実に生きてゆけるような進路を選ばなくちゃいけない。――美術で食べていける人は一握りでしょ。そんな賭けは出来ないし、するつもりもないんだ。賭けが出来るほどの実力が、私にあるとは思えないから。

母さんも許さないだろうし――隠れて努力するにも限度がある。美術部に居るってだけでグチグチ言う、偏見の塊のような人だから」

夕日が陽の横顔を照らす。頬の産毛が茜色に照らされて、きらりと光ったように見えた

「父親は母親を止めたりしないのか?」

「……とっくに出てったよ。ま、学費と生活費には困らないようにしてくれてるから、その点だけは感謝してる」

 ふと、歪んだ陽の笑みを見て、そんな表情をさせてしまった事に強い罪悪感を覚えた。

陽は俺の内面には気が付いていないようで、ふうと言いながら目を伏せ、話を続ける。

「学費は何とかなるから、高校はこのままエスカレーターで進学して、就職したいと思ってる。前途多難なのはわかってるけど、私は母さんから離れたいのは勿論、父さんの世話になるのも嫌なんだ。だから、まずは自立を目指す。――落ち着いたら、また絵を描きたいとは思ってるんだけどね」

 陽の将来に関する展望を聞いて、俺は自分が恥ずかしくなった。ある種の覚悟を持って地に足をつけた将来像を描く陽とは対照的に、俺は「親父の店を手伝いながら音楽の道を目指す」という、家族頼りの博打のようなプランしか持ち合わせていないのだ。

「しっかりしてんな」

「まさか。生き残るために仕方なく……ってやつだよ。手持ちのカードが少なすぎるだけ。――私は、それよりも」

 そういうと陽は、真っ直ぐな目で俺を見た。

「夏生みたいに、好きな事にとことん打ち込める人の方がすごいと思う。――好きな事を続けるのだって、楽しいことばかりじゃないでしょう?」

不意打ちだった。

「……俺はただ、音楽の事しか考えられない、馬鹿なだけだよ」

 陽は俺の言葉を聞いてふわりと笑う。「嘘だ」と言いながら。その透き通った笑顔が眩しくて、俺は思わず目を反らす。妹みたいだと思っていた後輩相手に、淡い想いを抱きかけたのだと気づいて、何故か、一抹の罪悪感を覚えた。

 かつては己の鬱憤を発散するために。そして今は、妹の亡霊から逃れたいがため、俺は音楽に没頭しているのだ。それは、好きな事にとことん打ち込んでいると言えるのだろうか。

俺だって、他に選択肢が無かっただけだと言っていい。

 冷静に、自分のすべきことを見据えているように思える陽から、何の根拠も無いのだけれど、妹が俺に隠していた類の危うさが垣間見えた気がして、おせっかいだとわかっていたけれど、俺は口を出さずにはいられなかった。

「陽は凄いよ。冷静に、逆境に立ち向かっている。しかも地に足が付いた形で。なかなかできる事じゃない。

 ――でも、限界が来る前に、きちんと誰かに助けを求めろよ。一人でなんでも背負い込まない方が良い。迷惑をかけるからとか遠慮しねーで、例えば、俺相手に愚痴るとかさ」

 陽はそんな事を言われるとは思ってもいなかったのだろう。目を白黒させた後に顔を真っ赤にして、ふいと横を向いてしまった。それが俺を拒絶しての態度ではないと、故意に視線を合わせない潤んだ瞳が物語る。

 そんな物を見たら、俺まで変な気分になってしまうじゃないかと胸中で毒づいた。耳たぶが熱かったが、それはきっと気のせいで、少しだけ早くなった鼓動は、体調不良の前触れだ。きっと、そうだ。

――そう、〝そんなん〟じゃない。俺は陽と雪華を重ねているだけだ――繰り返し、自分に言い聞かせる。

「ジャージ、いつ返せばいい?」

「始業式ん時でいい」

「じゃあ、始業式の日の放課後に。……高等部へ行くの、緊張するなぁ」

「俺が中等部へ行ってもいいけどな」

「どちらにせよ、目立つね」

「気にすんなそんなもん。それより、利子! 忘れんなよ」

 利子? と言って、陽はやっと俺の方を振り向いた。きょとんとした表情は年相応で、その時やっと、少女の素顔を見たような気がした。

「CDだよ、俺たちのバンドの。ちゃんと聴けよ! 感想言えるくらいにはな」

「……センパイ、感想は強要するものじゃないと思いまーす」

「うっせー」

 ころころと鈴の音のような笑い声が美術室に転がった。このまま、補習の監督官がいつまでも来なければいいと、俺は強く思った。



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