俺の父は、コンビニエンスストアを経営している。
それがどうした――俺ならそう思うけれど、母は違った。
学のない自分たちをコンプレックスに思ってか、俺達には必要以上に厳しく教育を施した。これからの社会を生き抜いてゆくにはどの程度の学力が必要か、から始まって、その趣味は教育に悪いだの、誰々とは付き合うなだの……比喩でも何でも無く、俺と妹は箸の上げ下ろしひとつすら、母の求める理想に従わなければならなかった。
「出来損ないは生き残れない」というのが母の口癖だった。
そういう母自身は、家の事情で進学を諦めざるをえなかったのだという。就職など念頭に入れずに学生時代を送っていた母はやっとの思いで職にありつき、社会人として働き始めてからも、相当苦労したと聞いている。
俺達へ厳しく接したのは、我が子には同じ思いをさせまいという親心による「教育」だったのかも知れない。
しかしすぐにそれは、度の過ぎた「教育虐待」に変貌していった。母はいつしか、我が子が〝落ちこぼれ〟になる事を極端に恐れ、ヒステリックに怒鳴り散らす事でこども達を支配するようになった。
こつこつ努力すれば偏差値は上げられるけれど、地頭が特別に良いわけでは無い俺は、勉強よりも音楽が好きだった事も相まって、母からよく折檻された。よい子のふりをして母好みのこどもに擬態するには、俺の我は強すぎたのだ。
母との思い出と言って思い出すのは、ばきりと割られ、粉々になったCDアルバムだ。
俺が小学生の頃だった。幼なじみかつ、高校生となった今ではバンド仲間でもある、〝シュウ〟の影響でロックが好きになった俺は、母の目を盗んで、ひたすら洋楽を聞いていた。
はじめはシュウの家に入り浸ってひたすら音楽を摂取していたのだけれど、それだけでは足りなくなって、家でもあの素晴らしい歌を聴きたくなったのだ。
しかし、母が良い顔をしないのは、火を見るよりも明らかだった。巷で流行っているアイドルの出すCDすら毛嫌いし、どうしても音楽が聴きたいのなら「教育に良い」と名高いクラシックを聞けと押しつける人なのだ、息子が「社会をぶち壊してやる」なんて歌詞の洋楽を聞いていると知ったら、発狂しかねない。
俺は小遣いをためて欲しかったCDを買い、学習机の奥の方に隠しておいた。当時はスマートフォンも、iPodの類も持っていなかったから、そうするしかなかった。
辛いことや悲しい事があると、父から譲ってもらったポータブルCDプレイヤーを引っ張り出してクローゼットの中にこもり、そのCDを聴いた。聞き取れない言葉ばかりだったし、シュウに教えて貰わなければ歌詞の意味もわからなかった。しかし、そんな事すらどうでも良くなるほど、俺はその音楽に魅了されていた。人を惹きつけて止まないメロディライン、ヴォーカルの甘い声、それらを先導するギターの叫び声に、疾走感抜群な重低音――全ての音が、縮こまっていた背筋をしゃんとさせ、前を向く勇気をくれた。
どんなに母から無価値なこどもだと言われても、音楽が俺を励ましてくれるから平気だった。
しかし、小さな隠れ家で過ごす夢見心な時間は、あっけなく終わりを告げた。
何がきっかけで秘密がばれたのかは覚えていない。母は抵抗する俺からCDをもぎ取り、床に叩きつけた。プラスチックのケースが開き、中からディスクが顔を出す。取り返そうと慌てて手を伸ばした俺の前で、母はケースごとディスクを踏みつけたのだ。
バキリという音が耳を劈いた瞬間、世界中から音が消えた。
目の前の出来事が、信じられなかった。
CDケースだった物を恐る恐る開くと、パラパラと、ケースとディスクだった物の破片が床に零れ落ちた。同時に俺の心も細かな破片となって、そらへ消えてゆくような錯覚に陥った。
心の拠り所が奪われてしまったと理解した時、まるで世界の底が抜けてしまったかのようだった。それも、俺を良く思っていない奴が悪意を持って行ったのではない。愛憎あれど、一番身近で、かつては文字通り心と体の全て預けた、母親が、俺の宝物を――それに心酔する俺そのものを――唾棄すべき存在として扱った事に、俺は絶望した。
母は、俺の心の中にある安息の地すら、検閲するのだった。
その日を境に、俺は母の期待に応えるのを辞めた。
自分の大切な物は己が手でしっかりと抱きかかえておかないと、この家では奪われてしまうのだ。
奪われてたまるかと思った。
しかしながら、小学生の自分は両親の庇護無くては生きてゆけない。従って、選択肢は二つ残された。
一つは、母の支配を受け入れたふりをして要領よく立ち振る舞い、独り立ちの機会をうかがう道。そしてもう一つは、徹底的に反発をして、自分の人生を歩む道だ。
俺は言わずもがな、後者を選んだ。
そして、妹の雪華は前者を選んだ。
雪華は頭の出来が良く、母さんのお気に入りだった。また、我を通す俺とは違い、母さんの求める〝良い子〟に擬態するのも上手かった。元々派手な洋服やおしゃれを好むでもない、大人しいながらも強かな妹は、俺と正反対の性格で、互いに解り合えない事も少なくはなかった。しかし、「横暴な母と、それを諫めない頼りない父」という共通の敵の存在が、俺と妹の仲を強固にしていたと思う。
だからこそ、母の不倫が発覚して両親が離婚すると決まった時、不倫相手と再婚する母について行くと言った妹が、信じられなかった。俺と同じく、父と暮らすとばかり思っていたのだ。
理由を問い詰めると雪華は、珍しく感情的になって言った。
「お兄ちゃんにはわからないと思うよ。
人生をかけてでも成し遂げたい事があって、それに向けて突き進んでいく強さもあって。なんだかんだ人から好かれる――コミュ障な私みたいに、煙たがられる事もなくて――いつも人の輪の中にいる、お兄ちゃんには。
私には何もない。やりたい事も、人と上手く付き合っていく能力も。だから、学歴が要るの。
ヒステリックなお母さんは嫌いだし、親のひいたレールの上ばかりを走るつもりも無い。これまでとは違って、母さんと戦わなくちゃいけない事も出てくるかもしれない。それも、仕方が無いと思ってる。
だって、お父さんについていったら、バイトしないと大学生活が成り立たないはずじゃない。私にバイトが出来ると思う? こんな、ブスで、すぐ人を見下すから友達も居なくて、どこに行っても馴染めない私みたいな人間が!
そんな事無いよって、お父さんもお兄ちゃんもいつも言ってくれる。その優しさには何度も救われたけど、この年になれば客観的に見た自分の評価だって知ってる。バイト先でもいじめられて、大学にも行けなくなるに決まってる! そんな事になるくらいなら――私は、お母さんを選ぶよ」
目の前にいる少女が、姿形だけ妹によく似た、宇宙人のように思えた。
確かに、母の再婚相手は経済的に裕福な人だった。不倫の慰謝料を支払ってなお、連れ子に高水準な教育を提供できる程に。学生時代から母に想いを寄せていたあの男は、父の将来性を悲観して不安定になっていた母を言いくるめ、略奪したのだった。
その男について行くという事は、激務に耐えながら俺たちの教育資金を必死に捻出してくれていた父の想いを、踏みにじる事になると、雪華はわかっているのだろうか。
そもそも母だって、どうしても父への不満が払拭できないというのなら不倫などせず、話し合いでもなんでもして、正式な手順を踏んで離婚をすれば良かったのではないか。俺にとってはそんな卑怯な真似をする奴が、実の母だという事実すら嫌悪の対象なのに、妹は違うのだろうか。
例えば父が、妹の大学進学を反対しているのならばまだ、父の元を離れたいと言うのもまだわかる。しかし父はそれまで、雪華の希望する進路に意をとなえた事など一度も無かったのだ。
俺は何度も雪華を説得した。「自分の人生」を生きるのに、母は大きな障壁になるとしか思えなかったから。
経済面についても、せめて決断を下す前に一言相談して欲しかった。妹の導き出した結論は正直、狭くなった視野で無理矢理決めた、歪なものにしか思えなかった。
進学費用については、進学するつもりのない俺の分の資金を雪華に充てれば良いと考えていた。それでも不足があるのなら、俺が就職した後に仕送りをしても良い。それを父が許すかどうかは別問題だし、楽観的すぎる展望だと言われてしまえば返す刀は無いのだけれども。
アルバイトをしなくちゃいけない場合だって、コミュニケーションが苦手なら無理して人前に出なければ良い。自分に合った仕事なんていくらでもある。
自らの自由と将来を母にゆだねずとも、やりようはいくらでもあるはずだった。
我が家の財政は確かに、贅沢出来るほどの余裕は無く、例えば雪華を、一流の講師が教える進学塾に通わす事は出来なかったかもしれない。しかし父は――後から聞いた話によれば――一般的な塾にかかれるだけの費用は用意していたのだ。
母にとって重要なのは、「一流」の環境で雪華を鍛え上げる事だ。何故なら、彼女にとって必要なのはそこそこ勉強が出来る優等生では無いからだ。母が欲したのは、知性で他者を圧倒出来るような、常勝の天才だ。その証拠に当時の母は、社会的に「一流」では無い俺と父に対して、嫌悪感を隠さなくなった。俺だって数年前の「教育」の影響で、そこそこの偏差値の私立高校に通っているのだけれど、その程度のレベルでは母の虚栄心は満たされないのだろう。
そんな母の思想に、妹は少しでも賛同しているのだろうか? 俺が見る限り、雪華は自分の成長のためには、父を踏みつける事に自覚的だったように思えた。
実際の所、真相は判らない。聞けなかったのだ。本当の事を確認してしまうと、雪華との仲に致命的な溝が生まれてしまうような気がして。
ともかく結論から言うと、雪華は最後まで俺の説得に耳をかさなかった。だからといって、俺達兄妹まで疎遠になった訳ではなかった。確かに、両親の離婚の件ではわかり合えなかったが、俺達は禄でもない家庭環境を生き抜いた同士なのだ。互いの事は気にかけていたと思う。
もし、母と雪華の仲が良好であったなら、俺も余計な口出しはしなかっただろう。しかし母は、お気に入りであるはずの妹相手にすら、自分の思うように支配するため、恐怖政治を行うような人間で、決してえこひいきをしたり甘やかしたりをしない人だった。雪華はいわゆる、愛玩子ではなかったのだ。
テストの点数が悪ければ、妹が大切にしていた画集を八つ裂きにして、見せしめとした。それに抗議しようものなら、今度は妹の服をカッターで切り刻んだ。
雪華から涙ながらの連絡を受ける度に、俺は母親に食ってかかって抗議したし、妹にも母と距離を取れと言い続けた。それでも雪華は、首を縦に振らなかった。
「お母さんの期待に応えたい自分も居るんだ」
そう言われてしまうと、俺は二の句が継げなくなる。
何度母から痛めつけられても、雪華は母親の元へ帰っていった。当時の俺には妹の行動が理解できなかったが、今なら、母と娘が依存関係にあったのかもしれないと推察出来る。
自己実現に優秀な娘を必要とした母と、己を認めて欲しいあまりに無理をして頑張ってしまう娘。互いに相手を激しく求めてはいるものの、本当に求めているのは、あるがままの相手の姿などではなく、自分勝手に理想化したその人なのだ。
決して手に入らない、己が世界にのみ住まう理想の「その人」を手に入れようとする様は、まるで雲を掴むに等しい行為。
そんな母子の歪んだ愛を見ているうちに、俺は少しずつ、雪華を説得するのに疲れていった。
何を言おうが結局、兄の俺の言葉は雪華の心に根付かないのだから、仕方無い――一日、二日と連絡を取らない日が増えてゆく度、己にそう言い聞かせた。
第一、俺だって父の店の手伝いや学生生活、音楽活動に忙しい。人の人生をどうこう言えるような立場じゃない。
そうやって、問題があるのに気づきながら、すこしずつそれから目を反らしていった。
だって誰が想像できるだろう、それが妹との最後の思い出になるだなんて。
父から妹の訃報を聞いた瞬間、俺は衝撃と共に、意識の片隅では「いつかこうなるかも知れない」と思っていた。そんな事を冷静に思う自分の冷血具合に、肌が粟立った。
きっかけは中学受験の失敗だったとか、不合格を母が激しくなじったとか、再婚相手がそれを庇わなかったとか、つらつらと並べ立てる父の声が鼓膜を上滑りしてゆき、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
唯一確かだと思えたのは、俺は、妹を見捨てたのかも知れないという、考えただけで視界が暗転するような禄でもない事実だった。
力ずくで、妹を母から引き離していたら、こんな結果にはならなかったかもしれない。本人の選択を尊重するのではなく、他にすべき事があったのかも知れない。それを俺は、二人が依存的関係にあるのを良い事に、見ないふりをしたのではないか。妹のために出来た事はもっとあったかも知れないのに、足元に纏わりつく泥沼を視界から追い出して、自分だけ、空に輝く星空を掴もうとしていたのではないか。
そこまで考えが及ぶと、ふと、背中に視線を感じた。神妙な顔をして何かをしゃべり続けている父をよそに、俺は背後を振り返る。廊下奥の細く空いたドアから覗く鏡台に、燃えるような目をしてこちらを睨んでいる、雪華の姿が映っていた。
俺はその日以降、妹の幽霊に憑りつかれている。
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