「あっちぃなー」
重なり合う木の葉のカーテンの隙間から容赦なく降り注ぐ、ぎらつく真夏の陽射しを全身に浴びるより、ライブハウスのスポットライトを浴び続けていたい。アマチュアバンドの分際でそんな分不相応な願いを口に出す度胸は無いが、いつかは必ず! という願いは無碍にしたくない。そんな脈絡もない事を考えながら、重い足取りで中央公園へ向かう。学校へ行くのに、調度いい近道なのだ。これで補修さえ課されていなかったのなら、ベンチで新曲の歌詞を考えるのも一興なのだけれど。
――暑くてそれどこじゃねぇか――
〝それ〟が見える条件では無い事を密かに確認しつつ、のたのたと歩みを進めていると、甲高い声が俺を引き留める。
「夏生(なつお)!」
声につられて振り返ると、長い金髪を縦に巻き、隙無く化粧を施した――平たく言えばギャルの――愛美が、華奢な腕をぶんぶんと振り回してこちらへ走ってくるところだった。ピンクのキャミソールと大きな赤い花がプリントされているミニスカートが、真夏の青空に良く映える。
己の境遇を思い出して、何をどう説明しようかと考えているうちに、愛美は俺の隣におさまり、猫のように体をしならせた。
「具合は大丈夫なの?」
「当然」
「良かった! 教室で突然倒れたって聞いて、ほんとぉーに心配してたんだから」
けたたましい嬌声が真昼の団地に反響する。流石に近所迷惑かな、という考えが頭の隅によぎると同時に、愛美が大きな瞳を潤ませて上目遣いで尋ねてきた。
「今日は補習でしょ? 終わったらご飯でもいかない?」
計算とも天然とも判断つかぬ見目麗しい仕草に、心を奪われそうになる。しかし――
「――悪い、今日は予定があるんだ。また今度な」
明るく言ったつもりだったのだが、愛美は一瞬だけ傷ついた目をした後、誤魔化すように「そう」と言って大きな瞳をさっと伏せた。瞬きを二つした後、再び俺を見据えた大きな目からは、先ほどの悲しげな色は微塵も伺えない。いい子だな、と、俺は素直に感心した。
「気が変わったらいつでも電話して! マナ、今日は暇なのー」
「サンキュ」
じゃあな、と互いに笑顔で別れると、数歩、歩いた所で愛美は再び俺を呼び止めた。肩越しに彼女を見ると、彼女は大きな目を潤ませながら精一杯の笑顔で言った。
「マナ、諦めてないから。じゃーねっ」
――付き合ってください――かつて、茹で蛸のように真っ赤な顔をして潤んだ瞳で俺を見つめた愛美の姿が、鮮やかに思い出された。今はそんな気分になれないと断ったのも、記憶に新しい。
自分だったら好意を受け取らなかった相手に対して、あんなに明るく振る舞えるだろうか。強い子だ――俺と違って。そう思いながら顔に苦笑を貼り付けて、再び彼女に背を向けた。
額から一筋、汗が降りて首元を濡らす。
じーわじーわとアスファルトに反響する蝉の声に耳を傾けながら、新曲のメロディを舌の上で転がした。木漏れ日のシャワーに歌詞を見出そうと空を仰げば、足下の石ころに躓いてしまう。そんな間抜けな様子が、自分という人間の本質を表しているように思えて、うんざりした。
気を取り直してスマートフォンを確認する。補修開始の時間にはまだ余裕が有った。飲み物でも買って時間を潰そうかと考えながら、中央公園に足を踏み入れる。ぐるりとあたりを見渡しても、人影は無かった。尤も、こんな殺人的な暑さの中、遊びに来る物好きも居ないだろうが。俺だって補修が無ければ今すぐに帰りたいと思う。何せ、今は夏休みの真っ只中なのだから。
石畳を道なりに歩いて行くと、噴水広場に辿り着く。円を描くように配置された噴水の側には水飲み場があり、自動販売機のある休憩コーナーへ行くには、それを左に見て小道を抜ける必要がある。
何気なく目線を水飲み場に移してみて、驚いた。先客が居たのだ。
小柄でおとなしそうな少女だった。見覚えが有る服を着ていると思ったら、俺の通う学校の中等部の制服だった。猛暑にふさわしくない長袖の白いブラウスに、チェック模様のスカート。暑くないのかとか、彼女も貴重な夏休みを補習に費やしてしまった口だろうか、とか、取り留めなく考えながら、何の気なしに彼女を目で追う。
次の瞬間、俺は我が目を疑った。
彼女は手洗い用の蛇口を最大限に捻って、制服を着たまま、頭から思い切り水をかぶりはじめたのだ。みるみるうちに少女の四肢に水がつたい、豊かな黒髪が濡れそぼった動物の尻尾のようになってゆく。
――何してんだ⁉――
俺はその場で硬直したまま、少女の奇行をぽかんと見守っていた。
彼女は全身びしょびしょになりながらもしきりに制服を水洗いしている。
制服が汚れたのならわざわざ頭から水をひっかぶらなくたって、制服だけ洗えばいいだろうに。一体、何故?
関わらない方が自分のためかもしれないと目を逸らそうとしたのだが、少女が濡れそぼった制服を持ち上げた瞬間にチラリと見えた、体の痣を見た途端、頬を叩かれた心持ちになった。
驚いて少女の顔を見る。彼女は涙を零す訳でもなく、怯えた様子を見せるでもなく、一見、無表情に見えた。しかしその切れ長の双眸には確かに、静かな怒りの炎が燻っていた。
その目の色は、見たことがあった。もう二度と見る事の出来ないその激情に、再び触れる事になるとは思わなかった俺は、気がついたら吸い寄せられるように少女の元へ近づいていた。
「大丈夫か?」
声をかけると、少女はビックリ箱のように飛び上がってこちらを振り返った。見開かれた瞳が警戒の色に染まる。
沈黙を破りそこねた俺たちの間を、じゃぶじゃぶという水の音が取り成した。何か言わねばと言葉を探していると、刺激臭が鼻孔をついた。この場に相応しくないその臭いは、アルコール――父が晩酌をしていた時に嗅いだそれ――と同一の物のように思えた。
少女がさっと顔を伏せ、己をかき抱く。制服を隠そうとしたのだと気づいたと同時に、再び刺激臭が漂った。どうやら臭いの源は少女のようだ。よく見れば、彼女の来ている長袖のブラウスは、衿口から腹にかけて、琥珀色の染みが大きく広がっていた。
俺の視線に気づいた彼女は、黙って俺に背を向けた。その仕草を見て初めて、少女の奇行の意味を理解する。彼女は制服に染みこんだアルコールを洗い流そうとしていたのだ。染みの大きさと形から判断するに、もしかしたら、頭から酒をかけられたのかも知れない。
「それ、どうしたんだ? 酔っ払いにやられたのか?」
「……」
そう言っておきながら、内心ではそんな訳ないだろうと思っていた。さっき自分でも感じていたのだ、「この場に相応しくない」と。
この近辺の治安は良い。教育機関が集まっており、風紀に目を光らせる人間はいくらでもいるし、近くに繁華街も無い。教育に熱心な家庭が多く住む地方都市。すなわち、相応の税収も期待できる層が集まる地域であり、治安の強化にも十分予算が割かれているはずだ。少なくとも俺は、このあたりで日の高いうちから酔っ払いに遭遇した経験は無い。
それに――瞼の裏に、彼女の体にあった痣が浮かぶ――。
「虐待」の二文字が頭によぎった。肌が粟立ち、喉の奥に氷の塊をつっこまれたような感覚に襲われる。
動揺しないよう、崩れてしまわないよう……少女に気取られぬよう、呼吸を整えた。
――早まるな、まだそうと決まったわけじゃない――
少女は黙りこくって制服を洗い続けている。その姿はとても痛々しかった。
「なあ、制服着てるって事はこの後、学校へいくんだろ? 着替え、あるのか」
「……」
弾かれたように少女が振り返る。その双眸は険しく、まるで「あんたに関係あるのか」と言われたような気がした。堅牢な城のように崩れる事の無い彼女の警戒心に気圧され、思わず怯んでしまう。
堪らず目をそらすと、少女の腕が目に留まった。細い腕にべたりとはり付いた季節外れの長袖ブラウスが、水に濡れて透けて見え、赤黒い痣が複数、両腕に咲いているのが見えた。
想像していたよりはるかに多い痣の数に、頭を鈍器で殴られたような気分だった。
身を固くした俺の様子に気づいたのか、少女の顔からはみるみる血の気が引いてゆく。俺の視線から素早く逃れ、
「大丈夫です」
と一言だけ呟く。その声はか細くて頼りなく、震えていた。
「使えよ」
「?」
スクールバッグの中に無理やり押し込んだジャージを取り出し、おどおどとしている少女に押し付けた。夏休み明けに一つでも荷物を持たなくて済むよう、教室に置いておこうと思って持ってきた物だった。
「他に着るもん無いんだろ? そんな恰好して風邪でもひかれたら、俺も目覚めが悪い。――この後、補習か?」
少女は力なく頷いた。
「行くか? それとも休むか?」
「――休みたいけど、そうもいかないから……あ、でも、ジャージ……本当に借りて良いんですか?」
「良いよ、後で利子は請求するけどな」
「……はい⁉」
少女は目を真ん丸に見開いて硬直している。先程の切羽詰まった様子から、うって変わって年相応の表情になったことに、ほっと胸を撫でおろす。
「お前、スマホ持ってる?」
「も、持ってません」
「マジか、じゃ家にパソコンは?」
「……ありません」
まるでカツアゲにあっているかのように、少女は身を小さくした。なんだかかわいそうになってきた。
「マジか、でも大丈夫。ネット環境が無くても――ホレ」
俺は再びバッグをごそごそやって、
「これ、俺達が作ったオリジナル曲。あ、俺バンドやっててさ。布教のために持ち歩いてんだ。利子代わりに聴いてくれ!」
自主制作したCDアルバムを取り出し、少女に押し付けた。彼女は狐につままれたようにぽかんとしている。とても、先程までの険しい顔をしていた人物と同一とは思えない程、その表情は無垢だった。
「俺は、桐乃 夏生。お前は?」
「え?」
「名前」
「あ、えっと」
少女は一瞬だけ躊躇ったようだったが、無理やり持たされたジャージに視線を落とし、自身に向けてだろうか、こくりと頷いてから俺を真っ直ぐに見据えた。
「樋口 陽」
「ハル、か……じゃあ俺達、春・夏コンビだな」
「そっちの春じゃなくって、『太陽』の『陽』一文字で、ハルって読むんです」
「へぇ、そうなのか。良い名前だな」
少女はさっと俯き、蚊の鳴くような声で「ありがとう」と言った。なんだか俺まで恥ずかしくなる。
「着替えてこいよ。制服洗うの手伝ってやるから」
立ち上がりかけたところで陽は、はたと動きを止め、ゆるゆるとこちらを振返る。
「あの……桐乃先輩」
「敬語やめろ、夏生でいいし」
何も考えずに言い終えた後、人との距離感がわからない奴だと思われるかも知れないと思った。
脳裏に警鐘が鳴り響く。
得体の知れない少女相手に踏み込みすぎではないか、と。しかし、目の前少女を放っておいて良いのだろうか。〝痛みを知る俺〟がすべき事は、おそらく同士である、彼女を見捨てる事なのだろうか?
五月蠅いだけのサイレンは鳴らせておくまでだ、と思い直す。
陽は俺の葛藤をよそに、言い辛いのか口をもごもごさせていたが、やがて遠慮がちに話しはじめた。
「水洗いした制服……補習までには乾かないよね、いくら真夏日だからって」
「無理だろうから、ジャージ貸すんだろ?」
陽は今にも泣き出しそうな顔をして、
「夏生……さんのジャージで補習に出たら……迷惑をかけちゃいます」
「迷惑? なんで。俺、今日ジャージ使わねーよ」
「その……私、問題児というか……面倒くさい身内がいて……担任から煙たがられてて。だから、夏生さんまで変な目で見られるかも知れなくて」
つっかえつっかえ言葉を吐き出す陽の姿を見ているうちに、聞こえないはずの〝声〟が鼓膜をかすめた。愛しくも恐ろしい、俺の思考を刈り取る声が。
――おにいちゃん――
ひゅうと、喉が笛のような音を立てる。
先程放っておこうと決めた身の危険を知らせるサイレンが、一層大きく鳴り響いた気がした。
不安そうに俺を見上げる陽の双眼が、水面のように揺れている。
両腕に咲き乱れる痣に、ハリネズミのような警戒心の強さ、そして「面倒くさい身内」の存在――。
陽は、妹にそっくりだった。
「……お前さ」
眉間に皺を寄せ、生真面目そうな表情を作って陽に詰め寄ってみる。
「この俺が優等生にでも見えんの? 茶髪にピアス、外見の印象を裏切らねえ怠惰さ――補習出てんのが良い証拠。今更どんな理由で誰にどう思われようが、どうでも良いっつの」
陽はしばらくの間きょとんとしていたが、やがてくしゃりと泣き出しそうな顔をして、ふふふと笑った。破顔と言って良いその笑顔は、人から見られる事など視野にも入れていない、心からの叫びに思えた。
野良猫をおっぱらうように手の平でしっしとやって、陽をトイレへと追いやる。その間に自動販売機へ向かい、小銭を入れてサイダーのボタンを押す。ガコンという音と同時に、ちらと横目でトイレの方を盗み見る。
小銭の感触を確認して残金を確かめた後、もう一つサイダーを買った。先に出てきた分を取り出さないでもう一つを買ってしまったせいで、陽のために買ったサイダーが俺のサイダーの上にゴトンと落ちてきて、取り出し口にひっかかり、二つのアルミ缶を発掘するのに一苦労した。相変わらずの間抜けっぷりに苦笑する。
俺に英雄ごっこは似合わないんだろうなぁと、ぼんやり考えた。