「おい陽、起きろ! しっかりしてくれ!」
聞き覚えのある声が降ってきたかと思ったら、ガクガクと体を揺すられ目が覚めた。同時に、自分がいつの間にか眠ってしまっていた事に戦慄する。あんなに彼の消失を悲しんでいたはずなのに、一体いつ眠ったというのだろう。なんだか物事のつじつまが合わない気ががして、背筋が凍った。気味の悪い違和感に思考が飲み込まれそうになったけれど、私を覗き込む目の前の人物を見るや否や、それらの懸念は雨雲が去ってゆくかの如く離散した。
私の体を揺さぶって心配そうにこちらを覗き込んでいるその人こそ、先程消えたはずのバンドマンの幽霊だったのだ。
「君……! 良かった、消えたんじゃなかったんだね!」
がばりと身を起こす。彼はほっとしたように表情を和らげ、私の肩からそっと手を離した。一連の動作に違和感を覚える。すぐに原因は明らかとなった。
「……君、どうして私にさわれるの? さっき、私が手を伸ばした時は駄目だったのに……」
彼の手が私の肩に触れていたのだ。先程、私が伸ばした手を中心に、そらへ掻き消えて行った彼の姿を思い出す。あれは決して幻覚でも勘違いでもなかったはずだ。そもそも、私達が触れ合えると言う事は即ち、目の前のその人は幽霊でも立体映像でもない、肉体を持った存在だという事で。
驚きを感動が飲み込んでゆく。
――もう会えないと言っておきながらこんなにすぐに再開できるなんて、驚かさないでよ――そう言ってやろうと彼の顔を見て――喉の奥で言葉が凍り、声帯を突き刺した気がした。
「何言ってんだ? こんな時にふざけんなよ」
彼のアーモンド型の瞳の中には、明らかな怒りの炎がちらついていた。先程までの、私の様子を慮って口を閉ざす穏やかな印象の青年から打って変わって、今の彼は苛立ちを隠そうともしない、こどものようだった。落ち着き無く目を泳がせながら、彼は言葉を続ける。
「また〝ここ〟に戻ってくるなんて最悪だ。せっかく出れたはずなのに。お前もだぞ。俺がここに戻ってくるのはまだわかるけど、なんでお前まで居るんだよ」
「ちょっと待ってよ、何を言っているのかさっぱりわからない」
「わからない? この間ハッキリしたばっかりだろ。ここに居るって事は、俺もお前も死に魅入られている……要は生と死の狭間に居るって事だ。とっとと出ていかないと、また取り込まれちまう」
――生死の狭間に居る⁉ この私が? そんな馬鹿な。
彼の言っている事は突拍子も無く、とても信じられなかった。ついでに言えば、私ともうまく会話が嚙み合っていないのだが、彼は他に気を取られる事があるのだろう、私との齟齬などどうでもよいかのような印象を受けた。
「お前は生死の狭間に居る」と言われて「はいそうですか」と答える者がどれだけいるだろう。それに、私は日中、家に帰って入浴を済ませたし、水も飲んでいる。生死の狭間に居る存在にそんな芸当が出来るとは思えない。
「やっぱりわからない。何度も言うけど、私は生きてるもの」
そう言い切った刹那、脳裏に閃光が走るが如く不安が駆け抜けた。
水こそ飲みはしたものの、いつまでも空腹にならない事や、自分の内面をのぞいているうちに気が付いたら何度も意識を手放している危うい精神状態を思い出したのだ。
埃のようにふわりと舞った不安感を振り払おうと頭を振るが、効果は無かった。何か、ボタンを掛け違えてしまったかのような違和感を自覚した途端、早鐘のように鼓動が鳴る。
彼は、取り乱す私を見て顔をしかめた。
「――わからないって……お前だってその目で見たろ? まさか忘れたなんて言わないよな?」
「そんな物見てない! なんなんだ君は、最初から最後まで私を知っている風に話すけど、君と過ごした時間はこのアパートで音楽を聞かせてくれた事くらいだよ。私は君の名前すら知らない!」
言葉が終わるか否かの瞬間に、はじかれたように彼は立ち上がり、目を丸くして言った。
「覚えてないのか? 俺の事も、なにもかも」
「だから何度も言ってるじゃないか、君の事なんて知らないよ」
バンドマンの幽霊は硬直し、これでもかと目を見開いている。似たような会話は前回もしたはずなのに、今、初めて重大なニュースを聞いたような反応だった。沈黙が忍びより、何とも言い難い居心地の悪さが二人を包む。
彼はしきりに私の事を「忘れたのか」などと言うが、彼の方こそ私とのやりとりを覚えていないじゃないか。
まるで先のやりとりなど存在しなかったかのような振る舞いや、感情をあらわにあけすけに物を言う態度は――比喩表現でもなんでもなく――「今までの彼」とは別人のように見えた。それこそ非現実的な考え方だが、他に彼の変貌ぶりを説明する手立ては無いように思えるのだ。そう考えた刹那、胃がひっくり返るような不快感が全身を蝕み、脳天に雷が降ってくるかの如く、天啓を受けた気がした。「この場所に留まってはいけない」と。
もう一度、彼を見る。彼は微動だにせず真っ直ぐに、私を見つめていた。
私は居てもたってもいられなくなり、その場から逃げた。何度も通った廊下を全速力で走り、階段を転げ落ちるようにして降りて入り口へ向かう。陽が落ちた後の空が見える窓はまるで、底なしの闇のように真っ黒で、鏡の如く私の慌てふためく姿を四方八方から映し出す。その鏡のどれかに、〝彼〟の姿が映り、私を暗闇へ引きずり込むのではないかという恐怖に苛まれながら、走った。額から大粒の汗が噴き出してくる。荒い呼吸を繰り返した肺は、今にも壊れてしまいそうだ。
やっとの事で入り口まで辿り着き、最後の力を振り絞って全速力で外へ向かった。体が外気に触れた途端に、安堵で体中の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになる。そんな私に向かって鋭い声が投げかけられた。
「危ない!」
とっさに声がした方に視線をやると、いつの間に追いついてきたのか、バンドマンの幽霊がこちらを見ながら、大通りの方を指さしていた。つられて指の先を見てみると、荒っぽい運転をする車が一台、すごいスピードで大通りからこちらへ迫り来る所だった。
けたたましいブレーキ音と共に車がぐるりとスピンする。止まりきれなかった車体が凄まじいスピードで、私に向かってきた。
――轢かれる――‼
どうしてか目を瞑れないまま、体を庇うよう縮こまりつつも、車が体を踏み潰す瞬間を指の隙間から見ていた私は、衝撃で肝を潰す事となった。確かに、私の体には車が触れたはずなのに、何故か、いつまで経っても、何の衝撃もやって来ないのだ。それもそのはずで、車は私の体を勢いよくすり抜けていき、
「あっぶね、ぶつかる所だったわ」
「マジ死ぬかと思った」
という運転手の軽薄な声だけをその場に残し、Uターンして大通りへ戻って行ったのだから。
運転手達に私の姿が見えていないのは明らかだった。
――知らなかった、私は死んでいたのか――
そんなはずはない。家に帰って水を飲んだ記憶は、そして自宅で入浴した記憶は一体何だったと言うのか。
そこまで考え、ふと、母の取り乱した様子を思い出した。もしあの行動がアルコールのせいだけではなく、死者である娘の姿が見えて恐怖に怯えるが故の反応だったなら?
わからない、わからない。
私は目を瞑ってかぶりを振った。夢なら早く目覚めてくれと願いながら。