ノイズ交じりの軽快なパーカッションがリズムを刻む。二本のギターが鏡に映した放射線のように、いつまでも交わることなく、互いの領地で羽を広げる。それは、すこしでも均衡を崩してしまったら、ただの不協和音になってしまいそうなほどに脆い、硝子の翼のようだった。ベースは、黙々と一定のメロディーを奏で続けることで、ギターの特異性を引き立てる役に徹している。
ひとしきり暴れた後、眠ってしまった母を置いて、私は再びバンドアパートに来ていた。
母が自ら望んで破滅の道へゆくのなら、その後始末も自身で何とかして欲しかったし――荒れた家を片付けるのも、近所からクレームを受けた時に頭を下げるのも、私なのだ――母を救い出せぬ事で、澱のように心の底に積み重なってゆく罪悪感とも、無縁でいさせて欲しかった。取り乱す母に対して、いささか冷たいだろうかとも思ったけれど、連日母の弱さを眺めるうちに、私の心も疲れ果て、麻痺していたのかも知れない。
幽霊との交流は所詮、逃避行動にすぎないと解ってはいたものの、それなら一体どこに助けを求めれば現状が変わるのかわからなかった。前述のように、頼れる大人の心当たりは無く、所持金も心もとない。何より、常日頃から母の毒素にあてられていたせいか、己を取り巻く環境を変えようという気力がどこかへ行ってしまったのが大きかっただろうと思う。結局私は、手負いの獣のようにふらふらとアパートに引き寄せられて、蹲る事しか出来なかった。
アパートに戻った私を、出迎えてくれたのは幽霊の「彼」だった。
昼間に姿を消していたから、彼にはもう会えないのではないかと漠然と思っていた私は、彼の姿を見て全身の力が抜けるくらい安心していた。思った以上にバンドマンの幽霊を心の支えとしていた自分の不健康さを、いかがなものかと思わないでもなかったが、今はこの不思議なやりとりを楽しみたかった。
アパートに戻ってきた私を見て、彼は何も言わず、ポータブルスピーカーを用いて自分たちのバンドの曲を披露してくれた。
三曲目の彼らの曲は、その不思議な内容の歌詞だった。
少女が地面の上に大きな丸を描いている。その円の中で、彼女は宇宙と交信するのだ。
円の外に居る人々と、決して交わることなく孤独を選んだ少女だが、彼女はちっとも寂しくなかった。何せ、彼女には壮大な宇宙がついているのだから。
やがて円の外に居た人々は家路につき、少女は一人、その場に取り残される。それでも、彼女は幸せそうにしていた。暗闇の中に居ても、誰にもその行動を理解されずとも、異星人と交信さえしていれば彼女は十分に満たされていたのだ。
それが彼女にしか聞こえないものであったとしても。
そんな、寂しいながらも楽しそうな少女の歌だった。
歌の中の少女が、自分と重なりいたたまれなかった。
狭いアパートの中で幽霊と交信し、一人ぼっちでも平気だとうそぶく私は、一人円の中で宇宙と交信して自己完結している「少女」とどこが違うのだろう。そんな事を考えているうちに、音楽は終わった。幽霊の彼は、コンクリートの箱に揺蕩う残響見守ってから、スピーカーの電源を切った。
二人とも、しばらく何の言葉も発しなかった。
垂れこめた沈黙をどうにかしようと言葉を探してると、以外にも彼が先に言葉を放った。
「『俺』がここに来れるのは、たぶん、今日で最後だと思う」
頭の中が真っ白になる。
彼が何を言っているのか理解するのに一呼吸、とにかく何か返答をしようと言葉を紡ぐのに、もう二呼吸必要だった。
「どうして……?」
時間を要した割に、平凡な言葉しか吐き出せなかった己が恨めしい。バンドマンの幽霊はわざとらしい仕草で肩をすくめて、言葉を続ける。
「だんだんお前が見えなくなってるんだ。お前も、俺が見えていないようだったぞ。
昼間だって、あんたの前に立って一生懸命話しかけてたのに。気づかなかっただろ? 白昼堂々、アパートの外にスタスタ出てっちまったから、驚いたよ。お前はここから出られるんだなって」
もしや、先程入浴のために自宅へ戻った事を言っているのだろうか。それにしても、〝お前はここから出られるんだな〟だなんて、妙な事を言う幽霊だ。
「当然だよ。――私は生きているもの」
――君はそうじゃないかも知れないけれど――流石にそうは言えず、私は言葉を飲み込む。
彼は私の言葉を聞いて、その大きな目を、零れ落ちてしまいそうなほど見開き、言った。
「本当に、何も覚えていないんだな」
「――出会った時もそんな事を言っていたけど、君は私を別の誰かと勘違いしてるよ。私は君と、そもそも会った事が無い。このアパートでギターを振り回す君を見つけたのが、初めてだ」
彼は言葉を失い、二の句が継げずにいるようだった。その、腫れ物に触れるような勘違いも甚だしい態度に、私は何故か無性に腹が立った。
「ねぇ、君はずっと何かを知っている風に話すけれど、一体何なの? 本当に、君の言う通り私と君が会った事があると言うのなら、いつの事だか教えてよ」
「……」
彼の瞳に初めて、迷いが生まれた。長い睫毛が一瞬伏せられ、細かく震える。図ったようなタイミングで、彼の姿にノイズが走り、一瞬だけぐにゃりと歪んだ。
途端に、前回、砂嵐のような電子音とノイズに掻き消された彼の姿を思い出す。すると、自分でも当惑する程、強烈な焦燥感に駆られ、まるで身を焼かれているかの如く、私は冷静ではいられなくなった。
「まだ、音楽の素晴らしさなんて全然教わってない。君たちのバンドの曲だってちょっとしか聞いてないじゃんか。そもそも勝手だよ、訳の分からない事言って人をふりまわして、思わせぶりな事を言って――挙句の果てには、もう会えない⁉」
まるで口先がマシンガンの銃口にでもなってしまったかのように、言葉の弾丸が止まらない。彼の姿にノイズが走るたびに、震えあがりたくなるような強烈な感情が、理性を焼いた。
――行かないで――
身を焦がす感情を吐き出してみれば、なんと陳腐な言葉だろうか。
――行かないで欲しい? 出会ったばかりの非現実的な存在相手に、私は一体何を求めているのだろう。
私の中の何が、バンドマンの幽霊をここまで引き留めるのか、皆目見当もつかなかった。孤独を選んだつもりでいて、いざ一人取り残されたらその重圧に耐えられないという事だろうか。それとも彼の言う通り、私は本当に何かを忘れているとでもいうのだろうか?
ありえない――そう思う一方で、心の何処かで〝そうであって欲しい〟と願う自身が居るのを、痛いほど自覚した。
そう、私はきっと〝何か〟を忘れている。本当の私は、一人ぼっちで廃墟に引きこもるつまらない〝私〟などではなくて、彼のように個性的で魅力的な人に覚えていてもらえる程度の存在感を持った人間。ゴミクズのような家庭環境も、希望の見えない自身の現状も一新出来る切り札を内に秘めているのだ――忘れているだけで。
――ばかばかしい。
そうだったなら、どんなに良かっただろう。そんな事、ただの夢物語でしかないのに――。そう思った刹那、こみ上げてきた涙を押しのけるようにして、〝何か〟が私の視界を奪った。
それは、映像だった。あるいは記憶と言っても良いかもしれない。
夕方、バンドアパートに続く小道を大通り側に歩いてゆくと見えてくる、国道沿いの歩道橋を私は歩いていた。鉛のように思い気持ちと足取りで階段をのぼってゆくと、何故か階段をのぼった先に母親が現れた。彼女がアルコール漬けの脳味噌のままその場にいるのは明らかで、門限を大幅に遅れて外を出歩いている私を、周囲の注目も構わず罵倒しはじめたのだ。私はいつものように自分の心を氷扉に避難させ、ただただ「申し訳ありませんでした」と言う置物役に徹しようとした。
その時、背後で人が動く気配を感じた。驚いてそちらを見やると、誰かが私を庇うようにして母の前に立ちはだかっている。その横顔は街灯が反射してよく見えなかったけれど、間違いなく、バンドマンの幽霊である「彼」だった。
「選手交代だ。記憶が追い付いてきた。今の『俺』の役割はここまでなんだろう」
彼の言葉が、浮遊しかけた意識を現実に引き戻す。バンドマンの姿はノイズと共にうっすらと透けており、背後にあるコンクリートの壁が見えている。
「待って! まだ消えないで!」
思わず伸ばした手は、彼の腕を掴むことなく、その姿をすり抜けてそらを掴んだ。それが引き金になったかのように、私の手を中心に彼の姿がうにゃうにゃと歪み始め、バンドマンの姿はあっけなく掻き消えてしまった。
「そんな顔すんな。選択を誤らなければ、また会える。――負けんなよ、陽」
――彼は何を言っているのだろう。それに、何故私の名前を知っているのか――。
甘い声が部屋の中を転がって、謎を残して消えてゆく。
私は自身でも当惑する位、大きな喪失感に全身を串刺しされ、身動きが出来ないでいた。
陽が落ちてアパートがとっぷりと闇に漬かるまで、私はその部屋に立ち尽くして自らの記憶の本棚をひっくり返し、彼との思い出を探していた。しかし、いくら考えても彼と共に過ごした記憶は見つからなかった。
彼は一体何者なのだろう――。その疑問は、思ったより早く解けることになる。