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第9話

 非常階段をかけあがる誰かの足音で、意識が浮上した。

――まただ――。

 幽霊である「彼」と接していると、なんだかすぐに意識が途切れてしまう。字面だけ見れば空恐ろしい現象だが、私はそれを受け入れつつあった。摩訶不思議な体験をしている方が、泥酔している母親と接するよりよっぽど心安らぐのだから、仕方ない。とっちらかりそうになる思考を乱雑にかたづけて、私は薄目を開き、あたりの様子を伺った。他に誰が入ってきた様子も無く、バンドアパートは相変わらず無人コンクリートの箱にすぎなかった。

 体が随分と冷えていた。のびをしようと四肢を伸ばすと、体の節々が情けない悲鳴をあげる。我ながら十代女子の体に相応しくないな、と苦笑した。

 ふと、小鼻のあたりに疼きを覚えて、冷えた指先で強く擦る。ひどく、喉が渇いていた。

 バンドマンの幽霊はどこへ行ったのだろうと周囲を見るが、時代に取り残された無愛想な壁が私を見返すばかりだった。時折、建物の外に車が走る音は聞こえても、ギターの音は聞こえない。今、私の目に映るバンドアパートは白昼の下に照らされるただの廃墟で、幽霊から音楽の素晴らしさを教えて貰えるようなオカルトスポットでは無かった。

 先程の彼とのやり取りが思い浮かぶ。

制限時間、会える時と会えない時がある、いつでも話ができる訳でもなければ、長話も難しい――。

彼の言っていた言葉は思い出せども、それを「いったいどういう事だ」と問える相手は居ない。

――またな――

消える間際の彼の言葉を思い出して、少しだけ寂しさが和らいだ。

彼は消えたわけではない。きっとまた会える。おおかた、どこかに帰っていったのだろう――例えば霊界にある彼の家にでも――思ったそばから、己が思考の滅茶苦茶さに苦笑する。

ギタリストの幽霊など存在しないとか、全ては精神の弱った自分が見た幻想に違いないとか、現実的な方向に脳のリソースを使った方がはるかに有意義だというのは、痛いほどわかっていた。

けれども私は、彼の存在を否定したくなかった。まるで、溺れる者が藁に縋りつくかのように、僅かな希望に縋りついていた。

ひりつくような喉の渇きが、これ以上、この場でぼんやりすることの無益さを忠告してくれたので、重たい体を、壁に寄りかかりながらヨロヨロと起こす。足先に感触が無かった。身体を冷やしすぎたのだろうか。

アパートの外へ出たくはなかったが、そうもいかないのが生身の人間の悲しさか。顔を拭えば嫌な風に油っぽいし、髪もなんだかぺしゃんとしている。今だけは鏡を見たくないし、誰にも会いたくないと思った。

痺れた指でなんとかショルダーバックをひっつかみ、中から財布を探し当てる。のろのろとチャックを開けて、中身を確認した。残金は案の定、ビジネスホテルに泊まるどころか、インターネットカフェの滞在費用にすら届かない。かすかな望みを吐き捨てるように溜息をつくと、無造作に財布をしまって、恐る恐る、部屋の外の様子を伺った。

すらりと伸びる細い廊下を目で辿ると、階段の踊り場にある、小さな丸型の天窓が見える。そこから、ギラギラとまぶしい陽射しが差し込んでいた。直線的な光の柱を取り巻くように、細かな埃がふよふよと舞う。

真っ昼間だ。

今日が平日なら、誰にも会わずに家へ帰ることができるはず。

私は、アパートの空気を肺いっぱいに吸い込んだ。そして心中の淀みと一緒に、ゆっくりゆっくり、吐きつくした。淀みの欠片が米粒ほどにも残らないように、慎重に慎重を重ねて肺がよじれるほど、吐き出し続けた。

肺が空になると、ショルダーバックを肩にかけ、勢い良く部屋の外へ出た。

カンカンと、耳障りな音を振り切るようにアパートの階段を一気にかけおりて、ボロボロの玄関マットを踏み越え、光の中へと飛び込んでゆく。

降り注ぐ陽射しの暴力的な暑さに、夏を思い出す。冷え切っていた身体が手っ取り早く熱を取り戻そうと、光合成をする植物よろしくその場に根をはりたがっていたが、なんとか宥めて家路を急いだ。

人の視線から逃れる事に安堵した己の精神状態に、一瞬危機感が首をもたげたが、気がつかないフリをした。


 アパートを出ると、うねうねと曲がりくねる細い小道があらわれる。明るいオレンジ色をしたレンガ造りの塀の向こうには、枝垂れ桜が鬱蒼と茂っている。レトロモダンな印象を与える塀を左手に見ながら、足場の悪い細い道をしばらく歩いて行くと、大通りに辿り着く。「トンネルを抜けたらそこはコンクリートジャングルだった」と形容したくなるほど、先程まで歩いていたどこか非日常的な雰囲気のある小道とは一線を画した空気感に、否が応でも現実に引き戻される。六車線をまたぐ歩道橋に取り付けられた信号が、赤く光った。

 地方都市独特の光景なのだろうか、学生やサラリーマンなどで賑わう大通りから一本別の道に入ると、周囲は驚くほど寂れている。〝表〟はタワーマンションや閑静な住宅街、洒落た自然派食品を扱うスーパーマーケットなどが立ち並び、美しく整えられているけれど、小道に入って〝裏〟へゆけば、トタン屋根の昔ながらの小さな住宅や、継承者不在のため打ち捨てられた空き家が散見されている。噂によれば、バンドアパートもそれらの物件の一つであるらしい。

 私は人通りの少ない〝裏〟道から、自宅のあるマンションへ向かった。

暴力的な日差しが頭をぼうっとさせ、先まで冷えて縮こまっていた四肢を解きほぐしてゆく。こうなると余計に、己の汚れが気になって仕方が無かった。誰にも見つからないよう祈りつつ、何かから隠れるようにして家路を急ぐ。幸い、マンションへ向かう道中も、マンション内のエントランスから自宅へむかう間も、誰にも会う事はなかった。

脇に抱えていたスクールバッグから玄関の鍵を取り出した。アクリル製のキーホルダーがじゃらりと鳴ると、脳裏にあたたかな思い出が再生されそうになり、あわててそれを掻き消した。氷扉を溶かす力をもつその思い出は、もしかしたら忘れてしまった方が良いのかも知れないのだけれど、それはどうしても、出来なかった。

玄関の錠が上がる音を聞いてから、ゆっくり肺の中を空にした。全身の感覚を研ぎ澄まし、針が落ちる音すら聞き逃さぬように、耳を澄ませながら自宅に入る。音を立てないよう慎重に玄関の扉を閉めて、曇りガラスの向こうのリビングから母がやって来る気配がしないかどうか探る。大丈夫そうだと判断し、足音を消してキッチンへ向かう。室内に誰も居ない事を確認しながら、食器棚からグラスを取り出そうとして――思わず手が止まった。グラスが一つも、棚の中に入っていないのだ。

もしやと思いながらシンクに視線を移すと、グラスは全て荒れ果てたシンクの中に重ねて放っておかれていた。汚れた皿と一緒くたにして置いてある為、前日にでも作ったのだろう、カレーの油膜がグラスに薄くこびりついている。

吐き気がした。

グラスを洗う時間も惜しい程に喉が渇いていた私は、蛇口をひねり、出てきた水を噛み付くようにして貪った。まるで犬のようだと思いながらも止まらない。唇から零れた水滴が、首筋を通って鎖骨を撫でる。

――そういえば、昨日はビールを飲んだだけで、他に何も食べていないはずなのに、お腹が空かないな――。

されど、こんなにも喉が乾くのは何故だろう、と、どこか他人事のように思いながら、私は喉を潤した。

一息つくと、物音を聞き逃さないように注意しながら、まずは自分の部屋へ向かった。途中、リビングを仕切るドアの曇りガラスを覗くと、向こう側に人の影が見えた。母だ。こんもりと山のような灰色の後ろ姿は、横になって動かない。昼寝でもしているのだろう。曇りガラスの向こう側からは、芸能人が次々に調理器具だの健康食品だのを、誉めそやす声が響いている。通販番組を嫌う母がその手の番組を視聴しているとは考え難い事から、彼女の眠りは深いのだと私は考えた。ならばしばらくの間、母は動かないだろう。

好機を逃してなるものか、と、私は足音が立たぬ程の全速力で自室へ上がり、着替えの服と下着を取り出して風呂場へ急いだ。

我が家の風呂場には、鏡が無い。酔っ払った母が割ってしまったきり、業者にも大家にも連絡せず、放っておいているからだ。この家の荒れ様を如実に語る、母のずぼらさのおかげで、私は自分の乱れた姿を見なくて済んだ。詳しい日数は覚えていないが、本当に久しぶりの入浴である。さぞかし、見るに堪えない格好をしていたことだろう。

自暴自棄な生活をしておきながら、今更身だしなみに気をかけるなんて一体どういった心境の変化なのか。自分でもよく判らなかった。

湯船にはあらかじめ、なみなみとお湯が満たされていた。壁に埋め込まれた操作パネルを見ると、電源が入ったままになっている。母が入浴後に電源を切り忘れたのだろう。おかげさまで、すぐにシャワーからお湯が流れ出した。

身体の汚れを洗い流してから、あわてて湯船に浸かる。冷え切って感触の無い指先を中心に、ビリビリとした痛みが全身に走った。ぎゅっと目を瞑って身体が温まるまで待つ。固まってしまった両手をこわごわと開くと、赤ん坊のように縮こまっていた両指が、なんとか日常生活をこなすことのできる程度までには、和らいだ。

半身を湯船に浸からせたまま、お気に入りの、みかんの香りがする洗顔フォームを手の平に取って、効率よく泡立ててゆく。ホイップクリームのような、きめ細かな上質の泡の塊がすぐに出来上がったので、マッサージをしながら洗顔をした。小鼻は特に念入りに洗わないと、すぐにニキビができてしまう。見知らぬ空き家に居場所を求めるような禄でもない生活をしていても、習慣としてそんなことを考えてしまう自分が、酷く滑稽だった。

にゅうと、上半身だけを浴槽から出し、湯船に泡が入らないようにして、シャワーで洗顔フォームを洗い流した。

次は髪だ。頭を垂れ、シャワーで髪をぬらしながらシャンプーのボトルに手をやろうとして、私の右手は空中を掴んだ。見当がはずれたか、と、シャワーの水流をそのままに、右目だけ薄く開いてボトルの位置をチェックしたところで突然、風呂場のドアが開く音がした。

ゴトン、と、何か質量のあるものが脱衣所の床に落ちる音がして、背筋が凍る。お気に入りのみかんの香りを押しのけて鼻腔につく、微かなアルコール臭。顔を真っ赤に染め上げた母が、目を見開いてこちらを凝視していた。

 全身が凍り付いたような気がした。後に津波のようにやってくるだろう叱責に備えて、身を固くする。

 平日の昼間に、学校へも行かず入浴している時点で完璧に私の負けだ。とんだ弱みを晒してしまった。そう、思った。

普通の家庭であれば、親はこどもの家出を叱りはするだろうが、同時に心配もするだろう。だが、私の母は違う。彼女の前で弱みを見せることは、自身をサウンドバッグとして提供するのと同じこと。母は私を的確にいたぶり、憂さを晴らす。躾という大義名分を振りかざし、私の人間性を、はてには外見や身体的に劣った箇所を、これでもかと攻撃するのだ。

それらはうさばらしなどではなく、叱責なのかも知れない。乱暴な言葉の裏には、私の事を考えての発言があったのかも知れない。だからといって、何を言っても構わないとは、私は思わない。娘が精神的に立ち上がれなくなるまでいたぶる必要性は、はたしてあるのだろうか。

そんな経緯があって、母と鉢合わせないよう、家に帰る必要のある時は彼女が普段から酔い潰れている時間だけを選んでいたのだが、今日は当てが外れてしまった。

歯がガチガチと音を立てている。身を庇うように両手で身体を隠しながら、母から距離を置いた。

罵倒の嵐が通り過ぎた後に、少しでも私の尊厳が残っているといいなと祈る。耳をふさぎたくなる気持ちを押し殺して――そんな事をすれば余計に母は調子に乗るからだ――身構えていると、彼女は焦点の合わない真っ黒な双眸をかっと見開いて、こちらを凝視するばかり。予想していた攻撃はいつまでたってもやって来なかった。その代わりに、

「ああああ……ぎゃぁあああぁあぁっ!」

母はまるで化け物と遭遇でもしたかのような形相で、口の端から涎を垂れ流しながら、全速力でリビングへ走り出すではないか。ごろり、と、床に転がる酒瓶が私に口を向ける。バタンと力強く閉められた曇りガラスのドアの向こうで、カーテンを引きちぎる音と、獣のような叫び声が聞こえた。とても人間のものとは思えないそれらを、私はその場で硬直したまま、聞いていた。ぬくもりを取り戻したはずの身体が冷えてゆく。全身の血液がざあっと引いてゆく様は、まるで引き潮だ。

震えながら風呂場から出て、ジーンズに体をねじこみ、Tシャツを被る。

曇りガラスの向こうには、狂気が渦巻いていた。

何が母をそうさせたのか、まったくもって見当が付かなかった。

胸が押しつぶされてしまったように苦しくなって、私はその場に蹲った。

母は、初めから「こう」だったわけじゃない。うちだって、人並みに遊園地へ行ったり、バーベキューをしたり、平凡だけれど笑顔の耐えない普通の家庭だったはずなのだ。それなのに、それなのに。

一体どうして? 一体いつから? 一体何がきっかけで?

もしも、私がもっと早くに母の歪みに気がついていたなら。もっと早くに母から酒を取り上げていたなら。両親の笑顔の裏に隠された事情を、察する事が出来ていたなら。母は、私の知る母のままだったのだろうか。

今更考えてもどうにもならないあれやこれが、脳内をメリーゴーラウンドのようにぐるぐる回って、気が付いたら、大粒の涙で頬が濡れていた。

母が狂ってしまうのを、止められなかった――その想いは私の中で、絵の具を水に溶くようにじんわりと広がってゆき、やがて鉛となって沈殿していった。

涙とともに搾り出された私の悲鳴は情けない程か細くて、誰の耳にも届きそうになかった。


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