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第8話

 かつて、一人でいる事はさほど苦痛ではなかった。

バンドアパートで得られる耳が痛くなるほどの静けさと孤独は、私が私でいられるための必須条件だった。私の一挙一動に口を出しては呪詛を吐く、母と一緒に暮らすという、まるで長く険しい登山道を登り続けるような毎日の中で、誰にも何も言われないこの場所は、唯一安らぐことのできる、休憩所のようなものだった。

沈黙に身を置くには、どうしても人から離れなければならない。特に母の傍に居ると、静けさと安らぎからは無縁になる。それは私の心の平穏を大きく乱すのだ。

平常心でいられなければ、学校で「普通の子」の演技が出来ない。普通の子でいなければ、教室での居場所をなくしてしまう。もしかしたら、誰かが助けてくれるかもしれないという希望的観測が頭をよぎったが、すぐにそれを振り払う。そうやって期待してさんざんな結果にあったというのに、私という人間はすぐに、天から蜘蛛の糸が垂れてきやしないかと考えてしまう。

浅ましいな、と苦笑した。

――私は一人で良い――

大多数の人々はあえて孤独を選ばずとも、日常の中で心を解放出来るのだろう。家族や仲間と接する事で、傷ついた自身を癒す経験をしているのだろう。私と違って。

――大丈夫、私には孤独が味方してくれるから――

友情を深め、眩しい笑顔を浮かべてはしゃぎまわる同級生を横目に、そう己に言い聞かせる。歪だという自覚もあったし、時には寂しさに打ち勝てない事もあったけれど、どうしようも出来なかった。私は要領が良くないから、いくら「普通の子」を取り繕ってもすぐにボロが出てしまう。その、普通の仮面がはがれた後でも普段通り接してくれる友人には、ついぞ恵まれなかったのだ。

青春を謳歌する同級生達の無邪気な笑みは、夏の海に反射する太陽のギラついた光の如く、強く、美しく。私の濁った目には眩しすぎる。太陽を直視した時のように、目を閉じた後も、瞳の裏側に残像が、いつまでもいつまでも消えなかった為、私は陽のあたる場所に背を向けた。

青春は、私の住む世界とはあまりに違って、苦しかった。

友情という陽だまりはとてもあたたかくて、まどろもうものなら、母からの暴言から自分を守るための氷扉が、溶けてなくなってしまうかも知れなかった。

母の攻撃から心を守るシェルターがなくなってしまったら……。私は、理性を保ち続けられるのだろうか?


信頼できる大人に相談してみようかと、考えなかったわけじゃない。

母が、自分の気に食わないことがあると烈火の如く、教師に向かってもかみつくような人間でなければ、私も腫れ物に触るように扱われず、誰かしらを通じて外部に助けを求められたのかも知れない。

少なくとも、私の通う学校では、母の猛攻をいなして私を導いてくれるような大人は居なかった。それどころか次第に、私は家庭環境に問題のある助けが必要な生徒ではなく「ちょっと口うるさい心配性の母親が居る、普通の生徒」として、初めから何の問題も抱えていないように扱われるようになっていった。

学校という場所では「普通」の家庭以外の家族の在り方は、ガラスのように透明な存在で、大人の目には留まらないようだった。

 私は、誰に助けを求めれば良いのか、どうすればいいのかすらわからぬまま、己の感情を押し殺して嵐のような毎日をやり過ごしていった。情報収集をしてこの境遇を抜け出そうとするより、理不尽を我慢する方を選ぶのは、愚かだったかも知れない。しかし、自身の体にあるいくつもの痣を、なあなあな対応しかしない大人に見せた所で、誰も私を守ってくれないような気がしたのだ。中途半端な対応をされて万が一、私が家庭の事情を話したことだけが母の耳に入り、より激しい折檻が行われたら――それもまた、恐怖だった。


 友人に相談するのも、もっての外だった。

 小学生の頃にはまだ、私の境遇を心配してくれた友達がいた。現に、その子が自分の親に私の境遇を話し、親御さんが母に「何か助けになれることは無いか」と話しかけてくれた事もある。しかしながら、私達を助けるために差し伸べられた手は、母にとって、彼女を責め立てるためにさされた指に見えたのだろう。母は友達一家に連日乗り込み、罵倒した。

友人のお母さんはノイローゼになってしまい、一家は逃げるように引っ越してしまった。

 私と関わりさえしなければ、友人らの家族の平和は壊されなかっただろう。償えない傷跡を、母は友人家族につけてしまったのだ。

取り返しのつかない事をしてしまった。謝罪の機会すら与えてもらえなかった私は、涙が枯れるまで泣き続けた。

 それ以来、私は悩みを打ち明けられるような友人を作れなくなり、ボールが袋小路に転がり込んでゆくかのように、孤独に追い込まれていった。

それでも氷扉のメンテナンスをするには、一人の時間が不可欠だった。母の罵声もグラスを割る音も聞こえない、ピンと張り詰めるような静寂が。



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