目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第6話

 バンドアパートを見つけるまで、私はまさに野良犬のような生活をしていた。

 家に帰るという選択肢は端から存在しなかった。かといって、他に行くあてもなかった私は、一度だけ寝床を求めて近所の神社へ訪れたことがあった。

 何故神社を選んだのかというと、それもまたなんの根拠もないのだが、「誰かが助けてくれそうな気がしたから」だった。冷静になった今から考えると、私は随分と身勝手だったと思う。


 以前、母がまださほど酒を必要とせず、あの人も善良な父の仮面を被っていた頃のこと。お盆は毎年、近所のお寺にお墓参りをするのが我が家の習わしだった。

 一通り先祖や親戚の墓石に花や線香を供え終わった後、墓地から離れた本堂へあがる。本堂に別途納骨されている先祖に、線香を供えるためだ。

 荘厳な装飾と威厳ある姿をした仏像の見守る本堂で、御住職の説法を拝聴する機会も少なくなかった。御住職の心地の良い声で紡がれる説法は、私の心を穏やかにしてくれた。

「迷ったときは、ご住職のお話を聞くといいよ」

 信心深い父はよく、そう言った。

 そんな経験があったからだろう。なんとなく、お寺に行けば誰かがぽっかりと空いた心の穴を、埋めてくれるような気がしたのだ。


 数年ぶりに訪れた本堂の扉は固く閉ざされており、中に誰もいないことを物語っていた。ふと気がついてぐるりと見回せば、あたりは既に薄暗い。僧侶達は本堂を離れて母家へ移ったようだった。

 僧侶達が生活に使用している住居である母家を見上げてみる。踏みしめた芝生の夜露が、足に纏わり付いてやけに冷たい。

 建物は古い日本建築の質素な二階建ての一軒家。本堂のすぐ隣に建てられている。

 私はとにかく、誰かと話をしたかった。人生の袋小路から抜け出す勇気を、住職の説法から見出したかったのかも知れない。

玄関の引き戸をノックしてみようかと思ったその時、曇りガラスの扉の奥に何か細い影が横切るのが見えた。

 驚いて思わず数歩後ろへ下がる。

 息が止まった――その影が、住居の中に居る人間のものだと気がつくまでは。

 体中から不安を吐き出すように、肺の中を空にした。当初の目的を果たすために、扉の向こう側の人と話をしようとして……、はたと気がついた。一体何を話せばよいのだろうか。

「家出をしたので助けてください」?

「生きるのに疲れたのですが、なにか元気の出る話を聞かせてください」? 

 自分勝手極まりない。

 云十年前はともかく、現代の寺院という施設は――少なくとも目の前のこのお寺――は、家出娘の駆け込み寺として機能しているのだろうか?

 事前情報を何も持たずに、感情と感傷にまかせてここまで来てしまった。何せ、私の家にはパソコンが無かったし、私自身、母からスマートフォンを持たされていなかった。相談出来る大人も身近に居なかった上、モンスターペアレントのこどもとして教師から敬遠されていた私には、何処に助けを求めれば良いのかアドバイスをしてくれる人は居らず、ただただ無知だったのだ。

 私は何をしているのだろう。

気づけば、曇りガラスに映った人影は住居の奥の方へと消えていってしまった。間をおかず、二階の窓明かりが灯る。

 光に引き寄せられるようにして煌々と明るい窓を見やると、見習いだろうか、見たことのない若い僧侶がカーテンを閉めているところだった。私はじっとその僧侶のしぐさを目で追っていたが、彼は私に気がつくことなく、手際よく灰色のカーテンを閉め終えた。

 再び、静寂と薄闇の中に取り残される。

 ――これでよかったのかもしれない。

 私は胸中で独り言ちながら、母屋に背を向けた。

 この時、勇気を出して玄関を叩き、僧侶に「児童相談所に行ってくれ」と拒絶されたり、いっその事、警察に通報されたりしていれば、また違った展開があったのかも知れない。しかしその時の私はあまりに幼く、無知で、世間知らずだった。

 もしかしたら、誰かが救いの手を差し伸べてくれるのではないか、そんな希望が捨てきれず、何かにすがるような想いで私は、後ろを振り返った。

 二階の窓のカーテンの隙間から、糸のように細い明かりが零れていた。まるで、この暗闇から脱出するための蜘蛛の糸のような、脆く美しい、光の糸が。

 水を渇望する乾いた民がオアシスに引き寄せられるかのように、私は、希望の糸をつかむために駆け寄ろうとして――背筋が凍りついた。

 カーテンの隙間から、先刻の若い僧侶が氷のように冷たい眼差しで、じっとこちらの様子を伺っていたのだ。彼は私と目が合うや否や、さっとカーテンを閉めなおし、部屋の電気を消してしまった。

 光は絶たれた。

 若い僧侶は私に気がついていなかったのではなく、初めから私を拒絶していたのだ。

 確かに、本堂を目の前に黄昏れているような少女が、殺人犯ではないなどと誰が言いきれる?

 このご時世、救いを求めて寺にやってくる若者の存在を信じる方が、世間知らずかも知れない。

 そうだ。そうだったのだ。

 現実がどんなものなのか、忘れるところだった。

 誰も私を助けてはくれない。むしろ、助けを求める事すら、迷惑に思われるのだ。

 再び感覚が水底へ沈んで行き、どろりとした液体の中で思考するような浮遊感の中、私はあてもなく彷徨った。

 霧雨に頭をなでられながら暗闇に掻き抱かれる。

 眩い閃光が視界の隅を焼く。背後から無遠慮に差し込む車のヘッドライトに燻し出されてよろけると、足元に長い影が伸びた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?