誰かに、名前を呼ばれた気がした。
私を気遣う人物など居ないはずだと判っていても、胸のあたりがほわほわと暖かい。
ぼんやりと目に映るものを眺めているうちに、それが天井であることに気がつく。瞬きを二、三度繰り返し、乾いた口内を潤そうと舌をもぞもぞやっているうちに、意識が覚醒していった。
凝り固まった背中が鎧のように重い。私は、先ほどまで自分が何をしていたのかなんぞすっかり忘れて、思い切りのびをした。すると、
「やっと目を覚ましたな。まったく、人の顔を見るなり失神しやがって。礼儀知らずにも程がある」
言葉に反して、愉快そうな声音が降ってきた。
もう少しで再び夢の中に舞い戻る所だった。先の記憶が津波の如く押し寄せる。
そう、私は確か、幽霊を目前にして、屋上で意識を失ったはずであった。慌てて周囲を見渡すと、目が覚めたのは何故か屋上に至る階段がある、踊り場だった。
慌てて声の主を見上げると、意識を手放す前と同じ、細かな炎で形成されたようにおぼろげな「奴」の姿があった。奴は今、ひょいと手を伸ばせばその肩に触れられそうなほど近い位置に居る。
私は呼吸を忘れた。まるで、巨大な氷の棒を口からつっこまれた気分だった。
こちらをのぞき込む、奴の丸い瞳は、まるで部品同士の接続に問題がある液晶画面のように、細いノイズが走ったり、輪郭が歪んでしまったりと頼りない。
思考が完全にショートした状態で、ぼんやりと奴を眺めていた私を見て、奴は眉根をひそめつつ手をひらひらとふってみせ、
「おい、聞いてるか?」
と、不機嫌そうに言った。先ほどの電子音のような声ではなく、人間の男性の、低くて甘い声だった。
「聞こえているけど……」
君に私の声は聞こえているの? そう言いたかったのだが、何も言えなかった。口内が乾ききっていて声が上顎に貼りついてしまったかのようだった。
すると奴は、不服そうに腕を組み、言った。
「もしかして何も覚えてないのか?」
「どういう意味?」
「俺とお前は、前にも会ってるんだけどな」
嘘だ! と叫びたかったが、やはり言葉が出てこない。予想外の事を言われると、私の言葉は喉の奥に引っ込んでしまうらしい。
前にも会っているって? 幽霊に?
そんな衝撃的な出会い、覚えていないはずが無い。
「人違いだと思います……」
「違うね」
恐る恐る言ってみたが、奴は全く動じていない。なんだか幽霊らしからぬ、堂々とした男だ。
奴は口元に手を当て、少しの間無言で何事か思案しているようだった。唐突に訪れた沈黙に居心地の悪い思いをしていると、
「なぁ、お前普段どんな音楽聴くんだ?」
藪から棒に奴は言った。
「あまり聞かないかな。音楽はあんまり詳しくないんだ」
「マジかよ⁉ 人生の三分の二は損してんな」
何故、初対面の幽霊にそんな事を言われなければならないのだろう。
そんな他愛もないことを考えるうちに、私は自分が「奴」の存在を何の抵抗もなく受け止めていることに気がついた。そう、得体の知れぬものへの恐怖心はとうに無く、むしろ彼と会話が成立したことに、僅かながらも喜びを感じる程に。
どうせだったらもっと話をしてみたい。沈黙が会話を断ち切るのを恐れ、私は続けた。
「さっきの音楽は、君が演奏していたの?」
「そう、俺と愉快な仲間達の、れっきとしたオリジナル曲だぜ。すごいだろー」
彼は、えっへん、と腰に手を当てていばってみせる。その仕草がいたずら小僧のようで微笑ましい。
「仲間がいるんだね」
「ああ、馬鹿に付き合ってくれる、いい奴らだよ」
「馬鹿って?」
「屋上で演奏するなんて、どう考えても非常識だろ? 防音設備があるわけでなし」
幽霊の世界でも、野外で演奏をするには許可が必要なのだろうか。それよりも、そもそも彼らは一体どうやって、防音設備のある室内で演奏をするというのだろう。やっぱり、幽霊の世界にも、専用のスタジオがあるのだろうか。スタジオが空くその時を、首を長くして待つ幽霊達……その絵を想像するとなんだか随分滑稽で、私はぷっと吹き出してしまった。
「奴」はそれをどう受け取ったのか、大袈裟な身振りで嬉しそうにまくし立てた。
「俺達さ、結成してそんなに経ってないアマチュアバンドなんだけど、それなりに名は知られてたんだぜ? プロ目指すためにこれから本気で頑張ろうって時に、俺が足引っ張っちまったんだけどな。
でも、それもそろそろ終わりだ。いつまでもぬるま湯に漬かってる訳にもいかない。
――旅立たないと」
妙に現実味のある単語が飛び交うことに可笑しさを感じていたが、彼が「旅立ち」と口にした途端、愉快な気分は吹き飛んでしまった。居心地の良い環境からの旅立ち――幽霊が言う「旅立ち」という言葉で私が連想するのは、霊が天にかえる事――成仏だ。無論、その概念が本当にあるとするならば、だけれども。
彼は元から私の返答など期待していない様子で続ける。
「今日、この場所で演奏しなくちゃ駄目だったんだ。あんたに聴いてもらえてよかった」
いつの間にか、彼は階段に腰をかけて祈るように両手を組んでいた。茶色の長い前髪の奥に、穏やかな笑みが隠れている。そこで初めて、彼の姿が先ほどのようなノイズ混じりの映像ではなく、普通の人間の姿になっていることに気がついた。
彼は私より少し年上だろうか――とても端正な顔立ちをしていた。睫毛なんて私の何倍長いのかわからない。長い手足に小さな顔――もしも彼が生身の人間だったら、間違いなく絵のモデルを頼みたい位、「恵まれた人」という言葉が相応しい容姿だった。
「……そういえば、誰かに向ってギター振り上げていたね。もしかして、演奏を止められて怒っていたの?」
彼の抱える事情について深く追求する勇気も無かったので、なんだかぼんやりとしてしまった頭をふりながら、少しだけ話をそらしてみる。
「お前、そんなところから見てたのかよ⁉ うわ、超ハズイし」
「びっくりしたよ! 誰に止められたの?」
「このアパートの管理人」
「え⁉ そ、それって」
彼が管理人と呼んでいた人物もまた、この世の者とは思えない姿形をしていたのを思い出した。――そもそも、管理人が人間だったら、酔っ払って寝ている私はとっくに通報されているに違いない。と、いう事は、だ。
管理人さんまで死んじゃって今は幽霊だってこと⁉
飛び出しかかった言葉を、私はあわてて飲み干した。
なんとなく、幽霊だとかあの世だとかそういう霊的なものを話題にしたら、奴との軽快な会話が終わってしまう気がして、嫌だった。
いつの事だったか、テレビのオカルト特集で、スピリチュアルカウンセラーという肩書の芸能人がこう言ったのを覚えている。
「幽霊の中には、自分が死んだことに気がつけぬまま、現世をさまよい続けてしまう者も居る」と。そういう幽霊を相手にして、無理に現実をつきつけてしまうと、霊は自分が死んでいるという事実を受け入れられなくなってしまって、かえって良くないということだった。
もし、「奴」がその類の幽霊だったとしたら?
「旅立つ」と発言しているからには、自分がどのような状態にいるか全くわからない訳ではないだろう。しかし、もし、この手の話題が幽霊の間ではデリケートな問題だったなら……? 私は、言葉を選んで話をしようと心に決める。でも、どうやって? 幽霊と話した事なんて無いのだから、わからない。
彼は私がぐるぐると思考を巡らせている様子に興味は無いのか、その端正な顔を拳で隠したまま私から目をそらして、どこか別の場所を注視していた。その目は、先の好奇心にあふれた丸い瞳ではなく、感情などとうに飼い慣らした冷徹な研究者のように鋭かった。
「いずれは俺もここからいなくなる。でもその前にもう少しだけ、ここに通おうかと思ってね。――せっかく、あんたにも出会えたことだし?」
鋭利な刃物のような視線が、瞬く間に人懐っこい若者の仮面の奥に隠される。その豹変ぶりにおや、と思った。どうやら軽薄なだけの男ではないらしい。
「……君のギター、ずっと聞いてたよ」
「ずっと?」
人の良さそうな丸い目のまま、きょとんと首をかしげて彼は言う。
「いつからかは思い出せない。最近、さっぱり日付の感覚がわからなくて。でも、一ヵ月前から、かなぁ? この建物の中でぼーっとして毎日を過ごしてたら、時々ギターの音が聞こえるようになって。その時からずっと聞いてた」
「……」
ふと、彼が言葉を失ったように黙ったのに気が付いた。どうかした? と、口を開きかけると、目の前を大きな蛾が横切る。不規則に私達の間を行ったり来たりしてから、最終的には天井でその身を休ませる。なんだか、私と奴の奇妙な関係をからかわれているような気分になった。
彼がふと、目を伏せた。長い睫が栗色の瞳を覆う。
「なあお前、普段は音楽聴かないって言ったな」
顔を上げた彼の双眸が星のようにきらきらと輝いていて、私は思わず見惚れてしまう。
「俺の歌を聴いていけよ。どうせする事も無いんだろ?」
彼は私の返答など端から聞く気は無いかの如く、勢いよく立ちあがると、己の左胸をばんと叩いて宣言をした。
「決まりだ! 音楽の素晴らしさ、俺が叩き込んでやる!」
――別にそんなことをしなくても構わない――私は何度もそう言って彼の親切の押し売りをかわそうと試みたのだが、奴は「もう決めたことだから」と全く聞く耳を持たなかった。
幽霊という得体の知れない存在と接触を続け、今後の人生に悪影響はないのだろうか、という現実的なのかそうでないのかよく判らない心配があり、私は彼の申し出を断り続けていたのだが、ついに奴が、
「お前のその死んだ魚のような目を、俺の歌で宝石に変えてやる!」
という、凄まじく失礼かつ青臭すぎる言葉を掲げた所で、彼のやりたいようにやらせようという気になった。諦観、もしくは自暴自棄。全く、本人を目の前にして随分な物言いをする幽霊である。
こうして私は、熱血幽霊のリサイタルに付き合うはめになったのだ。
全く、どちらが生きていて、どちらが死んでいるのやら。