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第4話

そのアパートは有名なデザイナーが手掛けたとの事で、細部の創りまでとても繊細で、かつては流行の最先端と褒めそやされた建築物だったそうだ。その魅力は経年劣化した今でも衰えることなく、新たな魅力を醸し出している。

 時を重ねてくすんでしまった、元パステルカラーの煉瓦でできた洋風のテラスから、蔦が垂れている。持ち主なき今、彼らは手入れされなくなったにも関わらず、建築者の美意識を継ぐが如く、調和を乱すことなくアパートの美しさを引き立てている。まるで、そこだけ日本ではないような――少なくとも、周囲のコンクリートビルディングの群れと同じ時間を共有したとは思えない、洒落た年の重ね方をしていた。

 その外観の美しさと、予想を裏切る手軽な家賃がうけて、アパートとして利用されなくなった後も、画廊や芸術家の卵たちの展示スペース、法律事務所の本部として使われていたという。

 取り壊されるだの、造り替えられるだの、建物の行方に関する話は腐るほどあったが、今までに一度も実現されていない。何故なら、実際に工事に取り掛かろうとすると、誰もいない現場から、どこからともなく、陽気な音楽が聞こえてくるというのだ。不気味に思った関係者達が原因を究明しようと、アパートを隅から隅まで捜索するも、結局何もわからなかったらしい。

 たかが騒音、怪我人が出るわけではないのだからと、工事を再開しようとすると、例の陽気な音楽はみるみるうちに音量を増し、鼓膜が耐えきれない爆音で現場に響き渡り、とても作業が進まないという。いくら優れた防音グッズを使おうが、謎の陽気な音楽は現代科学を嘲笑いながら彼らの鼓膜を支配するという、怪奇現象と呼ぶには珍妙な現象が後を絶たなかったという。

 中には、奴らの陽気な音楽をバックミュージックにして仕事をすればいいのではないか、と発想の転換をした底抜けの楽観者もいたらしいが、終ぞ、彼らが仕事を終えたという報告は誰も受けていない。

 そんな噂がつきまとういわくつきのこの物件は、いつしか「バンドアパート」と呼ばれるようになった。

 もし私が彩り豊かな毎日を過ごしていたのなら、バンドアパートには見向きもしなかっただろう。

 居心地の悪い学校へ行き、心を許しあえる友人もいない中、絵を描いて退屈をやりすごし、なるべく遠回りをしながら家へ帰る――この「遠回り」の加減がまた難しい。まったく家に寄り付かなくなれば、普段は私のことなど視界の端にも入れようとしない母親が職員室へ「うちの娘が帰ってきていない、どうなっているんだ」とがなりちらしにやってくる。それも、わが子を心配しての行動ではない。都合の良い操り人形が、己の支配下から外界へ出てゆこうとするのが許せないから、〝心配している親〟という仮面をかぶり、私を鳥かごの中に押し込めようとしているだけなのだ。そうしないと、誰も母のために酒を買ってはくれないし、食事の用意だってしてくれない。

 鬼のような形相で詰問された教師達は、私に「寄り道することなく帰るように」と指導するだけ。誰も母の横暴を諫めやしない。面倒に巻き込まれたくないのは誰しも同じという訳だ。しかし私とて、母の忠実な駒に擬態し続ける程、自我を捨ててはいなかった。かといって、ほかに身を寄せる場所も思いつかない。公的機関に相談するという案を教えてくれる大人は周りに居なかったし、私自身も無知だった。よって、母親の機嫌を損ねず、私の息抜きができる程度の遠回り――この匙加減を覚えるのにずいぶん時間がかかった――をすることで、正気を保っていたように思う。

 色彩の褪せた世界の中で唯一の彩であった、絵を描く気力が失せ、いよいよ白と黒の濃淡のみで構成された世界を彷徨うはめになった私の眼の中に、唯一、色を纏って飛び込んできたのが、バンドアパートだった。

 外観のモダンさからは想像できないほど、寒々しいむき出しのコンクリートの床を、一歩踏みしめた途端、まるでシャボン玉が割れたかのようにあっけなく、私の世界に色彩が戻った。

 その瞬間、忘れようと氷扉の奥に閉じ込めておいたものが染み出してゆき、鼻の奥がツンと痛くなった。頬がみるみるうちに濡れてゆく。

 やっと、泣くことのできる場所を見つけたと思った。

 氷扉の奥に仕舞い込んでいた凍てついた心が息を吹き返し、奥歯で噛み潰した様々な想いが嗚咽となって、涙と共にぼろぼろと零れ落ちてゆく。

 私は糸が千切れた操り人形のように、コンクリートの床へ崩れ落ちて思う存分に泣きじゃくった。誰にも邪魔されることなく涙を流すことが、どれほど貴重な事か痛感した。


 一通り涙を流し終えると、冷たいコンクリートにごろりと寝っ転がって、何をするわけでもなく垂れ下った何かの配線をぼんやりと見ていた。何の気なしに、届かない指でその形をなぞっていると、ギターを掻きならす音が聞こえた。

 それが奴との出会いだった。



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