非常階段を駆け上がる甲高い音が響き、続けて鍵と鍵がぶつかるチャラチャラという音が零れ、鈴の音がそれを追いかける。非常口の扉に鍵を挿そうとしては失敗しているのだろう、時折それまでに聞こえていたものより幾分鈍い金属音が金属協奏曲に合いの手を打っている。
私は缶ビールをコンクリートの床に置いて、音の行方を追うために耳をすました。
しばらくは、青白い蛍光灯に蛾が焼かれる、電線がぶちきれるような音しか聞こえなかったが、ここで退屈に負けて興味を失えば、後には何も残らない事は判りきっていたので、そのまま微動だにせず音の源に神経を集中させていた。
肩にかけたショルダーバックを引き寄せる。アルミ素材のペンケース内につまっている鉛筆やらカッターやらが音を立てないかどうか、なんの脈絡もなく心配になってしまう。指先でペンケースの感触を確かめたあと、その隣に詰め込んだ小さなスケッチブックにも同様のことをした。このままじっとしていれば、この静寂を打ち破らなくてすみそうだ。
非常階段の音の主は、私が六回目の深呼吸を終えた頃に、再び鈴の音を纏わせながら扉に鍵を差し込んだ。
今度こそ正しい鍵を選ぶのに成功したようだ。
先までのごちゃごちゃとした騒音は全て演技だったかのように、あっけなく鍵が挿入される音、そして錠が跳ね上がる甲高い音がコンクリートの天井に反響した。
唐突に、今すぐ音の主を追いかけたいという衝動が首をもたげた。しかし先日、思いのままに動いたせいで、音の正体を探れなかった屈辱を思い出して、なんとか己を鎮める。
ギギィ……と、錆びた扉が開く不快な音が蛍光灯の切れた廊下の果てで響くと、紋切型で言うところの「絹を裂いたような女の悲鳴」によく似た声の氷風が、私の頬に爪を立てて暗闇の彼方に消える。
奴は、非常階段の向こう側の、屋上へ出て行ったようだ。
異変はいつも、この後から始まる。
私は自分でも意識しないまま缶ビールを片手に持って、誰かに呼ばれたようにゆらりと立ち上がっていた。空いた方の手で鼻の下をこする。指に染み付いた煙草の匂いがやけにきつい。ショルダーバックの中身を今一度確認してから、歩き出した。
扉が閉まる重々しい音が、嘲笑うかのように反響する。
まるでアゲハ蝶を捕まえようと虫取り網を片手にしのびよる小学生の如く、胸を躍らせながら、私は薄暗いコンクリートの床を踏みしめた。
音を立てないように、気づかれないように――今日こそ、奴らの正体を暴くのだから。
手探りに進んでゆくと次第に闇に目が慣れて、どこに何があるのかがなんとなく判るようになってくる。闇の中の薄明かりを頼りに奴らが開けた扉を探すと、それはあっけなく見つかった。暗闇がひび割れていて、凍てついた青空がドアと壁の隙間から顔を覗かせている。奴は、きちんとドアを閉めなかったらしい。
手の平が汗ばんでいる。耳の裏が、やけに熱い。
手にしていた缶ビールがへこむ耳障りな音が天井に反響し、熱に浮かされていた私の正気を引き戻す。知らぬうち、指に力が入っていた。
〝奴ら〟にこの音が聞こえただろうか。
息を殺しあたりの気配を探った。額に汗が吹き出ている。それをぬぐうことすら奴らに私の存在を知らせてしまうのではないかと思い、棒立ちのまま闇の中、ただただ耳をすませていた。
すると、扉の向こうでギターをかき鳴らす音が静かに聞こえてきた。どうやらまだ、〝奴ら〟は私の存在に気がついていないようだ。誰にも気取られぬよう、安堵のため息をつく。ギターの調子はずれな音がそれをかき消した。
自慢ではないが、私は音楽に詳しくない。
扉の向こうでかき鳴らされるギターが、何の曲をどんなコードで演奏しているかなんて、全く見当もつかない。かなり速いテンポで同じフレーズをひいているのが辛うじてわかる、という有様だ。
といっても、〝奴〟が壊れたオーディオのように同じフレーズを繰り返しているのではないことは聞き取れた。時折、絶妙なタイミングで別のフレーズをひいているためか、ギターの奏でる音に単調さは全く感じられない。かといって、己の存在を主張するでもなく他者を圧倒させるでもなく。主役の良さを最大限に引きだそうとするそれは、まるで極上の前菜だ。
私はショルダーバックに手をかけた。まだ早いかも知れないと思いながらも、スケッチブックの表紙をバックの布越しに確認する。
すると、ギターを追いかけるようにして、一際音の低い弦の音が――ベースだろう――加わり、仲の良い兄弟のように互いを引き立てだした。
私は手を止め、しばらく扉のむこうで飛び交う音たちを堪能することに決めた。
するとそれを待っていたかのように、もう一本ギターが演奏に加わった。初めに聞こえたギターの音はそのままに音の幅が広がるというのは、つまるところそういうことなのだろう。
続けてドラムが参加して、ビートを刻みだす。曲に疾走感が付加され、音の連なりそのものがまるでひとつの車輪となって、凍てついた空を転がってゆきそうな、このまま空の色を塗り替えてしまいそうな、力強い音楽の力が産声を上げた。
ギター以外の楽器の音を聞いたのは、今日が初めてだった。
というのも、私はいつもギターの音が聞こえ次第、一体誰が演奏をしているのかを突き止めるためにこの扉を開いてしまうからなのだ。そして、誰もいない屋上を見下ろす冬空を、失望とともに眺めるのが常だった。
そう、奴は愉快な音楽を置き土産にその姿を消してしまう、謎の音楽家だ。
謎といっても一つだけ明らかなことがある。それは、どう考えても奴が人間以外の存在であることだ。そうでなければ、ドアを開けた途端にその姿が一瞬にして消滅するという現象に説明をつけられない。
今日こそ奴の姿を拝んでやるぞ、と、意気込んでは失敗し、再挑戦しては煙に巻かれるのを私はここ最近、繰り返している。
まさか、幽霊相手に暇つぶしをする日が来るとは思わなかった。自然と笑みが零れるのを意識しながら、これからどうするかを考える。
今、目の前の扉を開けば、奴らはたちまち愉快な音楽とともにその姿を掻き消すだろう。それならば。
私は、音を立てないように缶ビールを床に置き、扉に背を向ける姿勢で、ひんやりと湿ったコンクリートの上に腰をおろした。
目をつむり、〝奴ら〟の音楽を最期まで味わうことに決めたのだ。
私は目を閉じて、瞼の裏側に大きなスクリーンを思い浮かべた。私のイメージを忠実に再現する空想上のスクリーンには、空の色を塗り替えるために、雲海の上を空飛ぶ原付バイクにまたがった少年が疾走している。BGMはもちろん、奴らの騒がしい音楽だ。
少年はウエストポーチに大量のペンキやら絵筆やらを突っ込んで、陰鬱な色の雲に向かい、「辛気臭い色しやがって、さて、どんな色に染めてやろうか」とでも言いたげな、悪戯っぽいくしゃっとした笑みを浮かべている。
――この映像が、描けたなら……――。
私は一瞬、バックの中のスケッチブックを取り出そうかと考えた。しかし、心の底からどす黒いものが埃のように巻き上がって、どうしても指を動かす気にはなれなかった。