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第十八章 【さらけ出す勇気】



本日、月曜日、16時15分─。

イタリアン酒場TATSUは定休日。

わたし中条雪音は、自宅の全身ミラーで1人ファッションショーを開催中である。


というのも、ネットショッピングで購入した洋服が先ほど届いたからだ。

白い薄手のニットが1つに、黒いタートルネックのオーバーサイズニット。おまけに黒いニット帽も1つ。

全部着用してみたが、今回はハズレが無いようだ。2回連続で失敗してからネットショッピングは避けていたが、3度目の正直となった。


とくにこのオーバーサイズのニットはダルっとしているけどだらしなく見えないし、細見え効果があるから気に入った。


オーバーサイズといえば──わたしはクローゼットへ向かい、1つだけサイズ感の違う黒いパーカーを手に取った。モゾモゾと腕を通し、鏡の前に向かう。


これも、可愛いんだよな。おそらく、"良い物"なんだろう。生地がしっかりしているから形も崩れず、非常にあたたかい。


泳斗くんに会った時、服が濡れたわたしに早坂さんが貸してくれた物だ。洗濯をしてから返しますとメールをしたが、あげる♡とハート付きで返ってきたのだ。そして図々しいわたしはそれを素直に受け取ったのだ。


早坂さんが着ても少しゆったりしていたパーカーは、わたしが着ると膝上まで来る。しかし、それがまた可愛い。

袖の匂いをクンクンと嗅ぐと、洗濯をしたはずなのに早坂さんの匂いが残っている。

それを思いきり鼻に吸い込む───・・・って、わたし、変態ぽいな。



そうこうしているうちに、家を出る時間が近づいてきた。そう、今日は一真くんと約束をしている。前に頼まれた、凌さんの誕生日プレゼントを買いに行く日だ。

何度着ているかわからないスウェットに同じく着古したジーパン、白いスニーカーと黒いキャップ。鏡を見るまでもなく、家を出た。


待ち合わせは地下鉄で2駅目にあるデパートの入口。そこは高級品ばかり扱う百貨店だが、一真くんは大丈夫だろうか。そんな余計な心配をしているわたしは、正しく余計なお世話だ。





約束の場所に、一真くんの姿はなかった。携帯の時刻を確認すると、10分ほど早い。ここは繁華街に近いのもあって待ち合わせに利用する人が多いと春香から聞いていたが、本当にそのようだ。店の入口に1人佇み、辺りを見回している人がちらほら。



わたしは、難しい顔で携帯を操作しているスーツ姿の男性の横に陣取った。

ふと反対側に目をやると、自分と目が合った。入口に沿う壁の1スペースが、大きな鏡になっている。


──我ながら、色気というモノは皆無だ。なんならパッと見、男では?背も高く、髪も短いというのもあるが、それ以前の問題という事はないかしら?


そういえば、おばあちゃんが亡くなったのを機にバッサリと切ってから、ずっとこのままだ。たまには、伸ばしてみようかしら?──って、わたしは早坂さんか。最近、早坂さんの事ばかり考えているせいか、脳内が早坂さん化してきている。


そう、──早坂さんだ。

早坂さんと、鏡越しに目が合った。



「雪音ちゃん?」


「・・・・・・えっ!?」


「何してるの?」


わたしが見ているのは、鏡に映る早坂さん。もはや、幻覚まで始まったか?


「ちょっと、大丈夫?」


肩に触れる感触にビクッと身体が反応して後ろを振り返った。


「・・・本物だ・・・」


「ここで何してるの?」


「え・・・早坂さんこそ」


そこで、わたしの目線が早坂さんの顔より下へ移動した。正確には、後ろへ。

早坂さんの身体に隠れて見えなかったが、横からひょこっと顔を出した。とても、綺麗な女性が。


「あたしはちょっと買い物があってね。あなたも?」


早坂さんの言葉が、頭に入ってこない。わたしをジッと見つめるこの女性は?

見つめていたのはわたしもだった。気づいた早坂さんが後ろの女性を見た。


「あ、雪音ちゃん、彼女はね・・・」


「雪音さん!」


わたしを呼ぶ声に反応したのは、早坂さんのほうが早かった。一真くんがこちらへ走って向かってくるのが見えた。


「すみません!来る途中に道聞かれてっ、教えても全然わかんないから案内してたら・・・」一真くんは目の前まで来ると、呼吸を荒げながら膝に手を置いた。「もー、こんな時に限って・・・って、えっ!?・・・早坂さん!?」


一真くんは驚いて早坂さんを見上げ、早坂さんは眉間にシワを寄せて一真くんを見下ろした。


「なんで、早坂さんがいるんすか?」


早坂さんは答える代わりにわたしを見た。


「ここで何してるの?」


「えっ、あ、待ち合わせしてて・・・」そんな事より、わたしはこの女性が気になって仕方ない。胸まで伸びるストレートヘアに彫りの深い顔。華奢で背も高く、モデルみたいだ。


「2人で?」


「・・・そうですけど」


早坂さんが一真くんに"敏感"なのはわかっていたけど、今日は本気で苛ついているように見えた。


「なんで?」


いつものような圧は無く、冷静な口調だ。


「なんでって・・・」早坂さんこそ、この女性は誰ですか?聞きたいけど、わたしにそんな勇気はない。


「約束してたんです、雪音さんと。何か問題ありますか?」


一真くんは表情を崩さずお客さんに接するような口調だけど、早坂さんに向ける目は鋭い。

「あたしは雪音ちゃんに聞いてるのよ」


早坂さんは笑顔を見せたが、その目は冷ややかだ。

天然記念物のわたしでも、わかる。早坂さんが一真くんに"嫉妬"しているのは。でも、自分だって女性と2人でいるじゃない。モヤモヤが募り、これ以上この場に居たくない。


「一真くんの言う通りですよ。今日は約束してたんです。一真くん、行こ」


その場を去ろうと1歩踏み出したわたしは腕を掴まれ、すぐさま引き戻された。


「・・・なんですか」


「話は終わってないわ」


あまりに真っ直ぐ見てくるから、その目から逃れる事が出来ない。

早坂さんがピクリと反応した。一真くんが、わたしを掴む早坂さんの手を掴んだから。


「雪音さん困ってるんで、離してもらっていいですか?」


ドキリと心臓が跳ねた。予期せぬ一真くんの行動と、見た事のない早坂さんの顔に。こんなに怖い早坂さんは初めて見た。

これは、一触即発の雰囲気だ。わたしは掴まれた腕を振り離した。


「お互い、用事があるので、ここで失礼します。行こう一真くん」


逃げるように、その場から去った。今度は早坂さんも何もしてこない。どんな顔をしているのかわからないけど、視界の隅で早坂さんが拳を握りしめるのが最後に見えた。









「雪音さん、決まりました?」


「うん、この明太子パスタにする」


「明太子クリームもありますよ?」


「ううん、あさっりしたやつのほうが好き」


「じゃあ俺はクリームにしようかな」



買い物を終えて、わたしと一真くんは最近オープンしたばかりのイタリアンへやってきた。平日の早い時間というのもあり、わたし達はが入店した時はそれほど混んでいなかったが、徐々に席が埋まってきている。


「っていうか、なんでここにしたんだろ、俺」


「ん?なにが?」


「いや、普段、店のまかないでパスタ食べてるじゃないですか・・・すみません、全然考えてなかった」


真剣な面持ちで何を言うかと思えば、一真くんはあからさまに落ち込んでいる。


「プッ」


「今、笑いましたね?」


「いや、可愛くて。てかわたしパスタ好きだから。嫌だったら普通に言ってるよ」


「・・・良かった」


一真くんは心底安心したように笑った。大袈裟なんだから。でも、それが可愛くもある。


「それに、同じイタリアンで働く者として調査は必要だしね?」


今度は一真くんがプッと笑う。


「調査すか。確かに、そうすね。どうします?TATSUよりレベルが上だったら・・・」


「んー、その時は正直に店長に言う」


「えっ、なんて?」


「うちより美味いイタリアンが出来ましたよって」


一真くんはハハッと笑った。


「それは可哀想すぎる。店長の反応が想像出来ますね」


「あたしは春香の反応も想像出来るよ」


「なんすか?」


「そりゃあ、上には上がいるでしょうよ」


一真くんはまた盛大に噴き出した。


「確かに。春香さん言いそ〜」


こうやって見ると、一真くんってやっぱり良い男なんだなと、実感した。クシャッとした笑顔が可愛い。

それは早坂さんも──・・・脳内で笑うあの人を、すぐに消し去った。いちいち思い出す自分にうんざりする。その連鎖で頭に浮かぶ、あの女性の顔。考えるな、考えるな。


「気になりますか?」


「・・・えっ?なにが?」


「早坂さん」


「いや全然」


「雪音さん、わかりやすいから」


どんな顔をしていいかわからなかった。本音は、気になってしょうがない。一真くんが凌さんのシャツを選びながらわたしに意見を求めた時も、本当は心ここに在らずだった。一真くんの言う事が耳に入ってこなかった。

一真くんは何も言わなかったけど、わかっていたんだ。そんな自分が、そう思わせた自分が、憎い。


「ごめん・・・」


「いやっ、謝らないでくださいよ!俺、雪音さんとデート出来て嬉しいんすから」


「・・・デート」


「はい。俺はそう思ってます」


──どうすれば、こんなに真っ直ぐでいられるんだろう。わたしなんか相手の反応ばかり考えて、恐れて、何も言えないのに。


「一真くんは、純粋だね」


「いや、俺けっこう黒いっすよ」


「そーなの?」


「はい。だって、さっき雪音さんが早坂さんの手を振りほどいた時、ざまあみろって思いましたもん」


「・・・アハ」


そういえばあの時、全力で振り解いちゃったな。それほど、早坂さんの力が強かったから。

何て、思ったかな──。


「めちゃめちゃジェラシー全開でしたね。いつもニコニコ笑ってるから、あーゆう顔もするんだなって」


「ジェラシー・・・ねぇ・・・」


「雪音さんもでしょ?」


一真くんは軽い口調だが、わたしの心臓は飛び跳ねた。


「いや・・・」


「俺には隠さなくていいすよ。てか、さっきも言ったけど、雪音さんわかりやすすぎるから」


恥ずかしさと情けなさが込み上げ、何も言えなかった。


「でも俺、諦めませんから」


「・・・え?」


「俺の気持ちは知ってますよね」


「・・・一真くん」


「早坂さんと付き合ってるわけじゃないんでしょ?」


「え?うん」


「だったら俺にもまだチャンスがあるって事ですよね。いや、そう思いたいんで。俺の事振るのは、まだ待ってください」


──だから、どうしてこんなに真っ直ぐ言えるんだろう。わたしが一真くんだったら、こんなふうに相手の目を見て自分の気持ちを伝えられない。


口を開きかけたわたしを、一真くんが手で制した。


「言っときますけど、俺、わかった以外の返事聞く気ないんで。ヨロシクっす」


その堂々たる宣言に、ポカンと口が開いた。そして噴き出した。


「あー!笑ったぁ!俺、真面目に言ってるのに・・・」


「ゴメンゴメン・・・・・・"わかった"」


一真くんは一瞬目を見開き、屈託の無い笑顔を見せた。



わたしは、卑怯なのかもしれない。

一真くんの気持ちには応えられないのに、自分が傷つきたくないために、一真くんの言葉に甘えている。

正直、どうするのが一真くんのためになるのかわからない。


わかっているのは、わたしが一真くんに"救われてる"という事だけ。







あれは──・・・早坂さん?

遠目に見る後ろ姿だが、間違いない。声をかけようと駆け寄ると、1人ではないことに気づいた。早坂さんの陰に隠れて見えなかったが、女性だ。


慌てて足を止めたが、早坂さんが気づき、こちらを振り向いた。


「雪音ちゃん?」


「あ・・・」


「こんな所で何してるの?」


「早坂さんこそ・・・」


「ああ、あたしはデートよ。雪音ちゃん、紹介するわね。あたしの彼女よ」


そう言うと、早坂さんはそばに居たロングヘアの綺麗な女性の肩を抱いた。


「彼女、いたんですか・・・」


「ええ、言ってなかったかしら?」


「言ってません。ていうか、彼女がいるのに、わたしに、あんな事してたんですか・・・?」


早坂さんは首を傾げた。


「あんな事って?あたしがあなたに何をしたの?」


わたしは彼女をチラリと見た。大きな目でわたしを興味深そうに見ている。


「首に・・・キスとか・・・」


「ああ、そんなこと?やーねぇ、あんなのただのスキンシップじゃない。とくに意味はないわよ?」


──吐き気が、した。

ああ、そういう事だったんだ。今までの発言や行動は、早坂さんにとっては何でもない。わたしだけが意味を持って捉えていただけか。


頭の中にグルグルと渦が巻いているようだ。気持ち悪い。誰か、助けて。




「・・・音・・・雪音」


──あれ、誰かに呼ばれてる?


「まったく、どうしてこうも起きないのかしら」


ああ、この声は──・・・「痛ッ!!」


「おはよう。やっと起きたわね」


──おはよう?

状況を把握するまで、時間がかかった。

わたしがいるのは、ベッド。目の前には黒いカラス。その向こうに天井。


──ああ・・・夢か・・・。


「うなされていたわよ。嫌な夢でも見たの?」


「・・・空舞さぁん・・・」


空舞さんを抱きしめようと手を伸ばすと、それを回避してわたしの胸の上に移動した。


「涙をつけないでちょうだい」


「えっ」目を触ると、目尻からこめかみにかけて濡れている。泣いてたのか、わたし。


「あまりにうなされてたから無理矢理起こしたわ」


「・・・額をつつく以外の起こし方でお願いしたいんですけど」


「あなた、声をかけても起きないんだもの。羽で顔を叩かれるのとどっちがいい?」


「どっちも嫌です・・・でも、起こしてくれてありがとうございます」


「そんなに怖い夢だったの?」


「・・・怖いというか、悲しいというか、怖かったです・・・リアルすぎて」


「リアルすぎて?」


「はい。考えてた事がそのまま出てきたというか・・・」


「単純ね。あなたなら十分あり得るけど。というか、もうお昼を過ぎてるわよ?どうやったらそんなに寝れるのかしら」


空舞さんの毒も、今なら優しさに感じる。


「昨日ちょっと飲み過ぎて・・・」


「見ればわかるわ」


空舞さんが言っているのは、テーブルに散乱したビールと酎ハイの缶の事だ。正直、どうやって寝たか記憶がない。飲み過ぎたせいで悪夢を見たのか?

コーヒーでも飲んで頭をスッキリさせよう。


「妖怪を見たわ」


ベッドから起き上がりかけたわたしは、またベッドへ仰向けに倒れ込んだ。


「・・・また・・・ですか?」


「ええ。でも今回は大した事ないわ」


「というと?」


「その辺にいる妖怪よ」


「というと?」


「人面魚よ」


「・・・その辺にいるんですか?」


「ええ。たまに見かけるじゃない」


「・・・わたしは1度も見たことがありません」


「まあ、害はないでしょうから放っておいても大丈夫でしょ」


「そうなんですか?」


「たぶん」


「たぶんって・・・」


──ああ、どんな妖怪でも、見たら報告しろと早坂さん達に言われてるんだっけ。害がないならその必要はないのでは?


「空舞さん、大丈夫だって断言してくれませんか」


「何を?」


「その人面魚、害はないって」


「そんなのわからないわ。泳いでるところしか見たことないもの。なぜそんな事を言うの?」


「そうじゃなきゃ、報告しなきゃならないんです。早坂さん達に」


「すればいいじゃない」


わたしは顔だけ起こし、ヘッドボードにいる空舞さんを見た。


「それが嫌なんですぅ!」


空舞さんが首を傾げる。


「なぜ?」


なんでも、ですぅ!」


「喧嘩でもしたの?」


「・・・喧嘩では、ないですけど」


また天井を見上げる。いや、喧嘩なのかも?


「だったら正輝にすればいいじゃない」


再度、顔を上げた。


「空舞さん、天才」


そうだ。別に、早坂さんに連絡をする必要はない。あの2人は"セット"だし、どちらに連絡しようと同じ事だ。

──我ながら、都合のいい理屈だと思う。しかし、わたしはソレを通すのだ。何故なら?早坂さんに連絡したくないからだ。


「空舞さん、その人面魚って何処で見たんですか?」


「そこよ」空舞さんは、顔をクイっと右に回した。


「そこって、えっ、この近くの川ですか?」


「ええ、餌を食べようと水面からピョンピョン跳ねてたわ」


「・・・餌?」


「さあ、その辺を飛んでる虫じゃない?」


──ピョンピョン跳ねながら飛んでる虫を食べる人面魚。人面魚というのがイマイチ想像出来ないが、人間の顔が虫を食べているところを思い浮かべ鳥肌が立った。


「とりあえず、連絡してみますね」


空舞さんの隣にある携帯を手に取り、連絡先から瀬野さんの名前を呼び出した。そのままメッセージ作成へ移動する。本文にこんにちは。と打って、すぐに削除した。

瀬野さんはメールじゃない、電話だ。


12時半になるところだ、今はお昼休憩だろう。──そういえば、瀬野さんって何の仕事をしているんだろう。これまで聞いた事なかったな。早坂さんと同じく飲食店を経営してるとか?──・・・いや、それは想像出来ない。

そんな事を考えていると、コール音が途切れた。


「もしもし」


「・・・あ、もしもし、瀬野さんですか?」


「・・・誰の携帯にかけたんだ?」


瀬野さんだ。


「今ちょっと、大丈夫ですか?」


「何があった?」


──まだ、何も言ってないんですが。すでに臨戦態勢に入っているのは、それほどわたしからの電話が珍しいからだろう。


「ええと、今、空舞さんといるんですけど、妖怪を見たらしく・・・その事で電話しました」


少し間があった。「なんで俺にかけてくるんだ」


「えっ!いやっ、それはですね・・・」


今までの事を考えれば瀬野さんが不思議に思うのも当然で、そこまで想定をしていなかった。


「誰?」


微かだが電話の向こうで馴染みのある声が聞こえ、わたしは石化した。


「中条だ」


その言葉で、石化にヒビが入った。

瀬野さんが中条と言ってわかるのは、1人しかいない。


一緒に・・・いるのか・・・。


「空舞が・・・」瀬野さんの声は、雑音と共に途切れた。


「もしもし雪音ちゃん?」


Oh──No──!!

わたしは携帯をベッドに放り投げ、頭を抱えた。


「どうしたの?」今のは早坂さんではなく、空舞さんだ。わたしは涙目で携帯を空舞さんに向けた。


「なに?」


「空舞さんが話してくださいッ」早坂さんに聞こえないように、ヒソヒソと言った。


「声が小さすぎて聞こえないわ」


絶対聞こえてるよ、この鳥(ひと)。


「もしもーし、雪音ちゃん?聞こえる?」


わたしは観念して、携帯を耳に当てた。


「もっ、しもし」


「もしもし?何かあったの?」


声を聞いて、自分の態度に少し罪悪感を覚えた。早坂さんは本気で心配している。


「あの・・・空舞さんが妖怪を見たって言ってて」


「どんな?」


「人面魚・・・?らしいです」


「あー・・・なるほど。何処で?」


なるほどとは、なんぞ?


「あ、うちの近くの川です。いつもの」


「ちょっと待って」


そう言うと、早坂さんは電話の先で瀬野さんと何かを話し始めた。会話までは聞こえない。


「雪音ちゃん、空舞ちゃんそこに居るのよね?見たのはいつの話?」


「ついさっきよ。ここに来る前」


わたしが聞く前に、空舞さんが答えた。

近くにいるわたしの声は聞こえないのに、電話越しの声は聞こえるんですね。

そしてまた瀬野さんと会話が始まる。


「これから向かうわ」


「・・・えっ!」


「まだそこにいるとは限らないけど、聞いたからには一応ね。あなたも、来る?」


来る?の前に、妙な間があった。今は普通に話せているけど、早坂さんも多少なりとも気まずさを感じているんだろうか。


「行きます」


「了解。じゃあ・・・そうね、30分後にいつもの場所で」


「了解です」


通話を終え、ベッドの上でうずくまった。まさか、早坂さんがいるとは──想定出来なかったわけでもあるまい、自分の浅はかさがほとほと嫌になる。今更後悔しても遅いが──。


瀬野さんに連絡したこと、早坂さんは何て思っているかな。怒ってはいなかったけど、良い気はしないよね。わたしだったらそうだ。


「あなた、大丈夫?遊里たちは何て?」


「来るそうです、これから」


「そう、だったらあなたも早く支度をしたら?その酷い格好で行くつもり?」


ハッと、我に返った。そうだ、こんな所でうずくまってる場合じゃない。

昨日、シャワーを浴びずに寝てしまった自分を恨む。しかし場所はすぐそこだ、10分で浴びれば余裕で間に合う。服を脱ぎながら洗面所へ向かった。


シャワーの後は5分で化粧もどきを済ます。

浮腫んだ自分の顔を見て、更に後悔が増した。昨日の飲酒+つまみにカリカリ梅を食べ過ぎたせいだ。

こうなったら、昨日と同じキャップ+マスクで家を出る。





「なぜマスクをしているの?もう顔の腫れは引いているじゃない」


「いや、顔がちょっと・・・」


「腫れているから?」


「その通りです!聞く必要ありましたかね!」


「これから遊里に会うから気にしているの?」


「・・・人に会うからです。空舞さん、人面魚を見た所ってどの辺ですか?」


「もう少し先よ」


「この先にあるベンチが待ち合わせの場所なんですけど、その辺りかな」


「2つ並んだベンチ?」


「あ、そうです。中間にあるそこだけ2つあるんですよ。よくわかりましたね」


「わかるもなにも、あなたと最初に会った場所じゃない」


「えっ!そうでしたっけ?」


「ええ。隣のベンチからわたしにヤッホーって声かけたじゃない」


「・・・そこだけ聞くと凄くアホっぽいですよね」


「初めて遊里と正輝に会ったのもそこよ。忘れたの?」


「あー、確かに」


「アルコールの飲み過ぎで記憶力が低下しているんじゃない?」


空舞さんは、飲酒=愚かな人間がする事だと認識している。最近は部屋に来ると必ず空き缶専用のゴミ袋をチェックされるのだ。だから最近はこまめに缶を捨てるようにしている。

なんというか、口うるさい嫁さんを持つ旦那になった気分だ。


「何度も言いますけど、そんなに飲んでるわけじゃないですから」


「テーブルに缶が6本あったけど、それはそんなにと言えるの?」


しっかり数えられていた。そういえば、この前2日連続で部屋に来た時も、昨日より3本増えてるわねって言われたっけ。


「昨日はたまたまです!普段は飲んでも2本ですから」


「人間が好きなヤケ酒というやつ?遊里と喧嘩したから?」


「好きでヤケ酒をする人はいないと思うけど・・・そして喧嘩じゃありません」


前から歩いて来た中年の女性が、すれ違いざまにわたしをジロジロと見て行った。

たぶん、何を1人で喋っているんだと思ったんだろう。最近は、こんなのばかりだ。気を抜くと、自分が"普通と違う"事を忘れてしまう。



「あなたも、変わったわね」


「えっ、何がですか?」


「最初の頃より、堂々としてるじゃない」


「・・・堂々、ですか」


「ええ。出逢った頃は常に挙動不審だったのに」


わたしの中の挙動不審のイメージは、今にも何かをしでかしそうな怪しい人。つまり、わたしはそう見えていたのか?


「そうですね。前よりは、気にならなくなりました。いろいろと。それは、理解してくれる人がいるからで・・・」わたしは頭の上にいる空舞さんを見上げた。「空舞さんとか」


「2人はまだ来てないみたいね」


わたしがラブ(ハート)を示すと、空舞さんは決まって塩対応だ。でも、それは空舞さんの照れ隠し──・・・と思いたい。


「もう見えますか。さすが、神の眼」


わたしも"人間基準"ではかなり視力は良い方だが、空舞さんはその50倍だと聞いている。50倍って、見えすぎて逆に怖そう。



空舞さんの言う通り、2人はまだ来ていなかった。先客もいなく、わたしは川に向かって右側のベンチに腰掛けた。


ここに来るのも、久しぶりな気がする。最近はいろいろあったし、走りに出ることもなかったからな。つい最近までは鬼のように暑かったのに、今はもう半袖では震えてしまう。


──なんというか、早坂さん達に出逢ってからあっという間に時が流れた気がする。それだけ、怒涛の日々を送ってきたという事か。


突然、横風がひゅうっと流れ、身震いした。バタバタと家を出たけど、もう1枚着てくればよかった。


「空舞さん、寒くないですか?」


「わたしは羽で覆われてるのよ、寒くないわ。それに、体内から熱を放出してるから」


「いいな・・・確かに、空舞さんがそうやって頭の上にお腹つけてると、あったかいですもんね」


「あなたは寒くないの?」


「上着着てくればよかったって後悔してます」


「取りに行ってあげましょうか?」


「えっ、空舞さんだけ?」


「ええ、ベランダの鍵は開いてるじゃない。すぐに戻って来れるわよ」


空舞さんの言葉に甘えようと思ったが、すぐに考え直した。


「ダメですよ、はたから見たら服が空を飛んでるじゃないですか」


「人間は風で飛んでいると思うんじゃない?」


「いやぁ・・・さすがに強風でもない限り無理があるかと。大丈夫です、動けば暖まりますから」


その時、空舞さんがわたしの頭から膝へと移動した。そして、空舞さんではない何かがわたしの頭を覆う。


「わっ!」驚いて顔を上げると、早坂さんが後ろにいた。

頭を覆ったのは早坂さんの服だ。


「聞き捨てならないわね」


早坂さんは何故か、お怒りモードだ。


「え?」


「ベランダの鍵は開いてるですって?」


──あ、ヤベ。というか、いつから居たんだろう。



「あなた、いつも開けっぱなしなの?」


「・・・いやぁ・・・」


毎回朝早く空舞さんに起こされるので、鍵を開けぱなしにするという選択をしたのは最近である。


「たまたま?です、たまたま」


早坂さんは目を細めてわたしを見下ろした。


「あなたの家は2階なのよ?入ろうと思えば誰でも入れるってわかってる?」


いつもなら、この過保護モードにやれやれと思うところだが、今日はなんでか嬉しかった。早坂さんはいつもと変わらない。普通に話せている事が泣きそうなほど嬉しい。


「それより、コレ、わたしは大丈夫なんで早坂さん着てください」


「話を逸らしたわね?──いいから早く着なさい。まったく・・・なんでいつも薄着なのかしら」


こういう場合、早坂さんが譲らないのは知っている。だからわたしは大人しくその黒いマウンテンパーカーに袖を通した。

なんか、早坂さんの服ばかり着てないか?わたし。


「なんで、マスクしてんだ。まだ腫れてんのか?」


早坂さんの後ろから瀬野さんが顔を出した。


「ヤケドの腫れは引いたんですけど、別の腫れが・・・」


「別の腫れ?」瀬野さんは怪訝そうに眉を寄せた。


「アルコールの大量摂取よ」


グハッ──空舞さんめ!余計な事を・・・。


「昨日は嫌な事があって、ヤケ酒していたのよね?」


──このひと、絶対わざと言ってるよ。

早坂さんの前で何を言うかな。気まずくて顔を上げられない。


「コイツもらしいぞ」


「えっ」顔を上げられないは、撤回だ。


「二日酔いだろ、なあ」


「あんたね・・・」


早坂さんはバツが悪そうに顔を背けた。まさか、わたしと同じくヤケ酒を?


「二日酔いになるほど酒を喰らう理由は知らんがな」


ニヤニヤする瀬野さんを早坂さんが睨む。


「あんたはその顔を日常で見せなさいよ。さて空舞ちゃん、その人面魚を見たっていうのは何処かしら?」


この人も今、話逸らしたよな。


「そこよ。ほら、いるわ」


「えっ!」 早坂さんとハモり、空舞さんのクチバシの方を向く。


「跳ねているのが見えない?」


「あ・・・見えます。跳ねてるっていう高さじゃないけど」


わたしが目で捉えているソレは、水面から3メートルは高く飛び上がっている。


「あー、あたしもギリ見えるわ。なんかいるわね」


早坂さんは目を細めて注視している。


「俺にはサッパリ見えん」小野さんはそう言い、1人川へ向かって歩き出した。わたし達も後に続く。



川岸まで行くと、その姿がハッキリと見えた。

忙しなく飛び跳ねる人面魚。そう、それは本当に人の面をした魚だった。人間のような肌色ではなく、色は体と一体化している。体長はおよそ1メートル。思っていたより大きい。


なんというか──「鮭?」


「そうね。この人面魚は体が鮭だわ。美味しそうね」


「・・・わたしはそう思えませんが」


「空舞、お前目良いだろ。どんな顔してる」


「どんな顔?言うなら、老人ね」


「・・・わたしも、おじいさんに見えます。おじいさんが必死に跳ねてますね」


「老人面魚は初めて見たわ」と、早坂さん。


「違う人面魚も見たことあるんですか?」


「ええ、何度かね。前に見たのは若かったわ」


「へえ・・・」空舞さんの言う通り、人面魚はその辺にいるのか?そして、歳をとるのか?


「しかし、さっきから何を必死に飛び跳ねてんだ。俺たちに気づいてないだろ」


「だいたいすぐ逃げるのにね。ここまでじっくり見たのは初めてだわ」


「捕まえようとしてるのよ」空舞さんが言った。


「何を(だ)?」早坂さんと瀬野さんが同時に発した。


「飛んでいる虫よ。今、向こうから飛んでくる蝶が見えるかしら?」


「俺には無理だ」瀬野さんはよく見る前に諦めた。


「んー、あたしもそこまでは見えないわ」


「・・・わたしは見えます」嫌な予感がしてきた。


ひらひらと風に乗ってこちらへ飛んでくる蝶。

人面魚は気づいているのかいないのか、跳ねては潜りを繰り返している。

そして、人面魚が潜ったタイミングで蝶が真上にやって来る。水面から飛び出した人面魚は空中でそれを──パクリと──咥えた。


「うっ・・・」昨日の酒を戻しそうになり、手で口を塞いだ。


「あー、なんか食べたわね。それは見えたわ。美味しいのかしら?」


「やめてもらっていいですか・・・」


24年間生きてきて、自分の視力を初めて恨んだ。


獲物を仕留めた人面魚は水中に戻ると静かになった。


「出てこなくなったわね」


空舞さんの言葉に安堵したのも束の間、突如、おじいさんが水面から顔を出した。人間の顔だけを。その口からは蝶の胴体と白い羽が半分程見えている。それをムシャムシャと噛み締めるように食べている。


「オエ・・・」わたしは気を失いそうになり、隣にいる早坂さんの腕にしがみついた。


「あらあら、ちょっと、大丈夫?」


「・・・無理です」なんなら、気を失ってしまいたい。


「視力がいいのも考えもんだな」


同情する瀬野さんに、わたしの半分でも視力を分けてあげたい。



そこで、動きがあった。

いや、動きが止まったと言うべきか。人面魚は川岸にいるわたし達に気付き、みるみると表情を変えた。それはもう絵に描いたような驚きぶりで、目玉が飛び出そうなほど大きく目を見開き、顎が外れそうなほど口を開け、その顔にハッキリと書いてある。


"えっ、見えてるの?"と。


早坂さんが手を振ると、人面魚は慌てて水中へ潜った。


「あら、隠れちゃった。別に何もしないのに」


「すんごいビックリしてましたね。さっきの顔、見ました?」 


早坂さんは思い出したようにプッと笑った。後で思い出しても、絶対笑ってしまう。


「言葉、話せると思うか」


「話せるような見た目はしてるけどね。人間の口が付いてるんだから話せるんじゃない?」


「中条、なんか話しかけてみろ」


「・・・えっ」鬼火の時といい、何故わたしばっかりこんな役目なんだ?「話しかけろって、何を?」


「なんでもいい」


なんでもいいと言われても──ふむ。両手を口に添える。


「お〜〜い!こんにちは〜!言葉わかりますかぁ〜〜!?」


──・・・聞こえてくるのは、川の流れる音、のみ。


「あの!やっぱりわたし凄くアホっぽくないですか!」


「ヤッホーじゃないのね」


空舞さんは時々、馬鹿にしているのか本音なのかわからない時がある。


「まっ、問題はないでしょ。怯えて逃げるくらいだし、何か悪さをするとは思えないわ」


「だから言っただろ、放っておいても問題ないって。それをお前が確かめるだの言うから」


「まあまあ、こんなに近くで見れたんだし、ラッキーと思うことにしましょ」


「俺には顔もよく見えなかったけどな。クソ、またコンタクト合わなくなったか」


瀬野さんは目頭をぎゅっと押さえた。そんなに目が悪いんだろうか。


「老化?」


「・・・お前と同じく歳をとってるはずなんだがな」


「アンタ、昔から目ェ悪かったものね。ろくに勉強もしてないのに」


「少なくとも、お前よりはしてたけどな。よし、俺は帰るぞ。そのまま眼科に行ってくる」


「えっ・・・もお?」思わず心の声が漏れた。こんなに早い解散は初めてだ。


「遊里、お前は残るんだろ?"ついで"に人面魚も見れたしな。中条、またな。気をつけろよ、いろいろと」


「ちょっと!どーゆう意味よソレ!」


「あっ・・・瀬野さん!また、です!」


瀬野さんは後ろ向きで手を上げ、土手道を戻って行った。


「バレてたか・・・意外とするどいとこあるのよね」


早坂さんが瀬野さんの後ろ姿に呟いた。


「何がですか?」


「え?あ、ううん」


「わたしも失礼するわ」頭上の空舞さんが言った。


「えっ!行くんですか?」


「ええ。言ったでしょ、あなた達と一緒にいるのは苦痛だって。それじゃあまた」


「またね、空舞ちゃん」


早坂さんはすんなり受け入れ、空舞さんは川の渡り遠くの空へと飛んで行った。


「いいわねぇ・・・あたしも空を飛びたいわ」


「まったく同じこと、前も言ってましたよ」


「あら、そうだったかしら?」


「あはは」



──そして、2人の間に沈黙が流れる。

なんだろう。今の今まで普通に話せていたのに、突然スイッチが切り替わったように緊張が押し寄せる。

何か、言わなくちゃ──沈黙が続くほど、緊張感が高まる。


「昨日と同じ帽子ね」


──追い討ちを、かけられた。

昨日の事がよみがえり、この場から走って逃げたい衝動に駆られた。昨日の話をするのが怖い。でもそれと同時に、ちゃんと話を聞きたい思う自分もいる。


「独り言、言っていい?」


早坂さんはポケットに手を入れ、空舞さんが飛んで行った方向を見ている。そして、独り言って、許可を得るものなのか?


「あい・・・」


「昨日の彼女は、店の従業員。お得意様の誕生日の買い物に付き合ってもらったの。そのお得意様はゴルフ好きでね、でもあたしはやらないし?何をチョイスしていいかわからないし?昨日の彼女は若いのにゴルフ歴も長くてね、店でそのお得意様と何度も接してるから好みもわかるんじゃないかって。まあそれだけなのよ」


──ずいぶん、長い独り言だったな。

でも、店の従業員と聞いて心からホッとした。


"あ、雪音ちゃん、彼女はね・・・"

昨日の事を思い出した。そういえば、早坂さんは彼女の事を紹介しようとしていたんだ。その続きは、"従業員"だったのか。


「わたしも、独りごと言いますけど・・・昨日は一真くんの買い物に付き合ってたんです。共通の知り合いがいて、誕生日プレゼントに何を買っていいかわからないからってお願いされて・・・」


「そう・・・同じ状況だったのね」


早坂さんは、まだこちらを見ない。


「はい・・・」


「あの子・・・一真くん、あなたのこと好きなのね」


否定は出来ない。嘘になるから。ハッキリと言われたわけではないけど、一真くんの好意はわたしに伝わっている。


「あなたは?」


「・・・えっ?」


ここで、早坂さんがわたしの目を見た。


「あの子のこと、どう思ってるの?」


「・・・一真くんはなんて言うか・・・可愛い弟みたいな感じで。あんな弟がいたら良かったなぁって心から思います」


早坂さんが真っ直ぐわたしを見るから、正直に答えた。


「ちょっとわかるわ」早坂さんはフッと笑った。「子犬みたいだものね、あの子」


「そうなんですよ。すがるような上目遣いとか、見てるとホント子犬みたいでほっとけなくなっ・・・」


早坂さんの手が唇に触れ、言葉が遮られた。


「それでも、そんなふうに笑ってあの子のことを話すのは聞きたくないわ」 


早坂さんは微かに微笑んでいるように見えるが、その目は怖いくらいに真剣だった。

鼓動が早まる──。

わたしは口に触れている早坂さんの手をどけて、そのまま握った。


「なんでですか?」


また、困惑の顔を見せる。そう思ったのに、早坂さんはわたしから目を離さなかった。


「なんでだと思う?」



───えっ。

予想外の反応だった。そして、聞き返す?それって、アリ?

答えが聞きたいのに、今度はわたしが戸惑ってしまう。


「なんでって・・・」


早坂さんはわたしが掴んでいる手を、そのままわたしの頬へ持っていった。


「あなたの事をこんなに考えて・・・苛立って、それでも、考えるのをやめられないのは、なんで?」


早坂さんの目は少し虚ろで、わたしに対してというより、自分に問いかけているように感じた。


「なんでか、わからないんですか?」


早坂さんはわたしを見つめると、頬に添えた手を下ろし、横顔を見せて切なそうに微笑んだ。


「あたしには、さらけ出す勇気がないわ」



──それは、わたしの事を好きだと言っているようなものだった。

でも、わたしは嬉しいと思わない。早坂さんがあまりにも苦しそうに笑うから。その内側に隠された何かが、早坂さんを蝕んでいるのは明確だった。


この人に、いったい何が起きたんだろう。

"ミハル"という名前が脳裏を過ぎる。その名前の女性が関係しているのは、おそらく、間違いない。

踏み入りたい気持ちと、聞いてはいけないと思う自制心が葛藤する。


でも、それ以上にわたしを占めたのは──これ以上、早坂さんの辛そうな顔を見たくない。


わたしは1歩踏み出し、早坂さんの身体ギリギリの所まで近づいた。そして早坂さんを見上げる。


早坂さんはギョッと驚き、少し身を引いた。

こんな顔の早坂さんは中々拝めるものではない。


「ん?なに?」


自分で何かをしようと思って動いたわけじゃない。わたしは勝手に早坂さんのシャツを掴み、つま先立ちになり、近くにあるその首元に自分の唇を押し付けていた。


早坂さんがピタリと静止したのがわかった。

"気が済んだ"わたしは、早坂さんの胸を支えに踵を地につけた。


早坂さんは固まっていた。まるで一時停止した映画のようにポカーンと口を開けている。こんな顔も初めて見る。それが可笑しくて、思わず笑ってしまった。


「えっ・・・なに?」


「早坂さんの真似です」


自分では考えられないほど大それた事をしたのに、何故か平静を保てる自分がいた。

早坂さんは突然、我に返ったようにわたしの手首を掴んだ。


「今の、なに?」


そして、わたしの平静は終わった。


「だから、早坂さんの真似です・・・」


「今、何したの?」


いや、そんなマジマジと言われても──・・・


「何したのって・・・ぅわっ!」


早坂さんが掴んだわたしの手首をグイッと引き寄せた。勢い余って早坂さんの胸にぶつかる。早坂さんはビクともせず、すぐにわたしの顎を掴んで上を向かせた。


「雪音ちゃん、今のはなに?」


──この人、"大丈夫"だろうか?

何をそんなに必死になって聞いてくるんだろう。わたしは早坂さんがした事を真似しただけなのに。

そんな態度に出られると、わたしは正気に戻って行き、わたしの心臓は正常ではいられなくなる。


「はっ、早坂さんが前にわたしにしたのと同じ事をしたんですっ!」


「なんで?」


「なんでって・・・ちょっ、早坂さんっ」 早坂さんはわたしの頬を両手で挟み、動けないようにした。

近い。このままでは首どころか口にキスしてしまいそうだ。


「なんで?」


早坂さんは、それしか言わない。わたしはそんなに重大な事をしてしまったのだろうか。わたし達の顔の距離は10センチもない。


「ごっ、ごめんなさい!謝ります!」


早坂さんは眉間にシワを寄せた。「なんで謝るの?あたしは、今のはどーゆう意味か聞いてるの」


──ダメだ、全然引かない。わたしは何て答えるのが正解なんだ。その前に動悸の激しさで爆発してしまいそうだ。


「今のは・・・アレです、アレ!その・・・あっ!人面魚!」


「えっ!?」


早坂さんが川に目を向けたと同時に、わたしはその場からダッシュで駆け出した。


「あっ・・・コラッ、待ちなさい!」


「イヤだー!帰ります!」


「イヤだって・・・なんで逃げるのよ!」


早坂さんが追いかけてくるのがわかった。


「圧が・・・っ」


「あつ?」


声の近さにギョッとした。こんなにすぐ、追いつかれるとは。


「圧が、怖いから!」


叫んだと同時に足が地面から離れ、わたしは諦めた。


「わかった、わかったから、逃げないでちょうだい」


耳に、早坂さんの荒い息を感じる。


「・・・おろしてください。人が見てます」


「逃げないって約束するなら」


後ろから抱きかかえられ、わたしに自由はない。背中に早坂さんの体温を感じる。


「逃げません。ほら、今のおじさんもこっち見て笑って・・・」


早坂さんは、わたしを降ろした。でも、腰に回された腕は離さない。そのまま腕を掴み、自分に向かせた。


「別に、誰が見てようと構わないわ」


早坂さんは微笑んでいて、いつもの優しい笑顔がわたしを落ち着かせた。


「あなたは、そんなに人目が気になるの?」 どこか、面白がってる口調だ。


「いや、そーゆうわけでは・・・」


早坂さんの腕が背中に回り、わたしは一瞬にしてその腕の中に包まれた。


「・・・やっぱり、気になります」


頭の上で、クッと笑うのが聞こえた。


「ゴメンね。ちょっと我を失ってたわ。あなたが・・・」そこまで言いかけて、早坂さんは続きをためらった。その代わりに、もっと強く、わたしを抱きしめる。


わたしの手は、勝手に早坂さんの背中に回っていった。今日は、自分の意思とは関係なく身体が動く日だ。


少しして、早坂さんは身体を離した。その手はシッカリとわたしの腕に添えたまま。

何か、言いたそうな表情だ。


「雪音ちゃん」


「はい?」


「あなた、他の人にしてないわよね」


「・・・なにを?」


「いや、さっきの事とか、今のとか」


──つまりは、首にキスとか、背中に腕を回したり、ということか。この人がどういう意味で聞いてるのかは知らないが、わたしはムカっとした。


「・・・してるって言ったら?逆に、早坂さんは?誰にでもしてるとか、ありえます?」


早坂さんの顔に、焦りが見えた。


「怒ってる?ゴメン、変な意味はないの」


「変なってどんなでしょう。ちなみに、わたしはたらしじゃないので、誰彼構わずそんな事はしません」 言い終わる前に背を向け、歩き出した。


「また始まったわね!違うって言ってるでしょ!ちょっ、待って雪音ちゃん」


わたしは無視して歩き続けた。早坂さんがすぐ、わたしの隣に並ぶ。


「ゴメン、怒らないで?今のはあたしが悪かったわ」


「別に怒ってません」


「いや、怒ってほしいんだけど」


「・・・意味がわからないんですが」


「そんなふうに冷めた目で見られるほうが堪えるのよ!」


「へえ・・・」


「可愛い可愛い雪音ちゃん、こっち向いて?」


「へえ・・・」


「あたし、あなたに嫌われたら生きていけないのよ!」


「へえ・・・」




早坂さんとの攻防は、わたしの家に着くまで続いた。

頭にはきたが、別に本気で怒っていたわけではない。流れを変える"キッカケ"に便乗しただけだ。


わたしと早坂さんの間に、確信的なものは何もない。早坂さんの思わせぶりな言葉も態度も、わたしにどうこう言う権利はない。わたしは、自分の気持ちを早坂さんに伝えていないのだから。


この曖昧な関係にストレスを感じていないと言ったら嘘になる。

でも、今はそれでいい。早坂さんの辛そうな顔を見るくらいだったら、今のままでいい。

それもまた、自分が傷つきたくないが故の解釈かもしれない。でも、いいんだ。


どんな関係でも、わたしはこの人のそばにいたい。





















































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