"鬼火退治"から帰宅した時、時刻は午前2時を回っていた。死んだように眠っていたわたしは、窓を叩く音で起こされた。眩しいと感じたのは、電気がつけっぱなしだったからだ。
のそのそとベッドから立ち上がり、右足を庇いながら窓を開ける。
「・・・酷い顔してるわね」
空舞さんが言うのも無理はない。防火服のおかげで身体は無事だったが、顔全体が赤く腫れ上がっている。
部屋の時計は4時を回ったところ。全然寝れてないじゃん。空舞さんが部屋へ入ってから電気を消し、ベッドへ戻った。
「空舞さん、なんで昨日来なかったんですか・・・というか今日」 枕に向かって呟いた。
「行ったわよ。あなた達より先に鬼火を見つけたわ」
「えっ・・・じゃあなんで?」
「わたしは火とは相性が悪いのよ。近づけない。だから上から見守ってたわ」
「そお・・・なんですか」
確かに、空舞さんの身体に火がついたら一瞬で燃えてしまいそうだ。
「最初に言ってくれれば、何か出来る事があったかもしれないのに」
「ごめんなさい。わたしもあそこに向かう途中で聞いたので・・・」
「そう」
次からはちゃんと前もって聞いておかなければ。「あの、空舞さん、少し寝てもいいですか・・・身体が限界で・・・」
「妖怪を見たわ。別の」
──これは、寝ている場合じゃなさそうだ。眠さに抗い、上半身を起こした。
「何処でですか?」
「ここに向かう途中よ。公園にある池の中に居たわ」
「・・・どんな妖怪?」
「近づいたら潜っていなくなったからよく見えなかったけど、姿形は子供だったわ」
「子供・・・ですか」
「ええ、しばらく様子を見ていたけど、それからは姿を現さなかったわ」
「池がある公園か・・・何処だろう」
「明るくなったらまた見てくるわ。あなたはまた寝なさい」
そう言うと、空舞さんはクチバシで窓を少しだけ開け、自分が出てからまた閉めた。
これから、鍵は開けっぱなしにしておこう。
わたしはまた横になった。
また来るなら、今来る必要はあったんだろうか。というか、池って──火の次は、水か・・・。内心、げんなりした。
今はとにかく、睡眠に集中しよう。
痛い。さっきからずっと、後頭部が、痛い。
わかってる、この小刻みに突いてくる物の正体は。うつ伏せで寝ていてよかった。
「起きます・・・起きますから・・・」
気合いを入れて即座に起き上がり、ベッドにあぐらをかいた。
「顔は起きてないわよ」
「・・・ほはようございます」
「もうお昼よ」
「えっ」──本当だ。時計はもうすぐ午後を迎えようとしている。「空舞さん、その公園に行ってきたんですか?」
「その前に、鏡を見たほうがいいわよ」
「・・・そんなに酷いですか」
「ええ」
携帯のカメラを起動して自分に向け、絶句した。誰だお前は?猿みたいな赤い顔に、スーパーサ◯ヤ人のようにそびえ立つ髪。
ああ、昨日シャワーを浴びて、そのまま乾かずに寝たんだっけ。ショートヘアはクセがつきやすいのがネックだ。見るに耐えれず携帯を伏せた。
「それで、どうだったんですか?」
空舞さんは顔を背けて、何も答えない。何か問題でもあったんだろうか?
「空舞さん?大丈夫ですか?」
そのうち、空舞さんの羽が小刻みに揺れ始めた。
「いえ、ごめんなさい。だって、あなた・・・あなたのその・・・」
ああ、声も身体も震えてるのは笑ってるからね。
「顔洗ってきます」
洗面所の鏡で自分の顔を見た時、空舞さんの気持ちがわかった。誰だって、笑うわな。ここに写っているのは、妖怪か?
水で髪を濡らし、ドライヤーをかけると幾分マシになったが、これは出勤前にもう1度シャワーを浴びる事になりそうだ。
「足の具合はどう?」
部屋へ戻ったわたしに空舞さんが聞いた。
「あ、大丈夫です」
「大丈夫な割には、遊里に背負われてたわね」
そこまで見ていたのか。
「軽い捻挫なんで、そのうち治ります」
「あなたは、自分の事には本当に無頓着ね」
「・・・心配してくれてるんですか?」
からかうように言うと、空舞さんはわたしの肩に飛んできた。そしてクチバシでわたしの頬を撫でる。
「当たり前でしょ。あなたは友達よ」
「・・・ふふ、そうですね」ツンデレとは、こういう事なのか。わたしも空舞さんの頭を指で撫でた。
「愚かなのに変わりはないけど」
へいへい。空舞さんの憎まれ口にも、慣れてきた。
「それで、その公園には行ってきたんですか?」
「ええ、ずいぶん前にね。やっぱりそこに居たわ。でも、わたしに気づいてまた姿を見せなくなったわ。そんなに近づいたつもりはないんだけど、よほど警戒心が強いみたいね」
「ずいぶん前にって、空舞さんいつ戻ってきたんですか?」
「ここに来たのは8時くらいよ。なぜ聞くの?」
という事は、戻ってきてからわたしを起こさずに待っていてくれたのか。最終的には起こされたけど、いつもの空舞さんなら時間構わず起こしてくるのに。そんなちょっとした事が、嬉しく思う。
「特に意味はないです。空舞さん、子供って言ってましたよね」
「ええ、子供よ。遠目で見る限りは」
子供の、妖怪?思い浮かぶのは、あの化け猫くらいだ。
「その公園の名前とかわかります?」
「それも調べてきたわ。光林(みつばやし)公園という名前よ」
さっそく携帯の地図アプリで調べる。ヒットしたのは一件だけ。ここから約5キロ離れた場所にあるようだ。普段なら徒歩で行ける距離だが、この足ではさすがに厳しい。
「遊里と正輝には言わないの?」
「あー、言うのは言うんですけど・・・」
昨日の事があるし、さすがにこのタイミングでは言いづらい。2人だって相当疲れているだろうし。1人では動くなと言われているけど、見に行くだけなら大丈夫だろう。
こうなったらタクシーを使うか。しかし、わたしの移動手段にタクシーという選択肢は存在しない。何故なら、お金がかかるから。
「何を考えているの?」
「え?あ、タクシーで行こうか迷ってるんです」
「1人で?」
「はい。とりあえず見に行って、それから報告しようかなと。2人には」
「なぜ?」
「・・・昨日の今日だし、煩わせたくないんです」
「それはあなたも一緒じゃない。足も怪我しているのよ」
「まあ、そうなんですけど・・・だからタクシーで行こうかなと」
「だったらそうすればいいじゃない」
「いや、そうなんですけどぉ・・・」
空舞さんは首を傾げた。
「何か問題があるの?」
「・・・お金?タクシーは高いんです」
「ああ、そーゆうこと。あなた貧乏なのね」
「うっ」否定出来ないのが、悔しい。
「確かに、こんな家に住んでいるものね」
ここまでストレートに言われると腹も立たないが、しっかりとダメージは受けた。
「いんですぅ!わたしは気に入ってるから!」
「その公園の近くに地下鉄の駅があったわよ」
「えっ!・・・そーゆう事は早く言ってもらえると助かります」
再度地図を確認すると、本当だ、公園の目の前に地下鉄の表記がある。それに、家の近くの地下鉄と同じ路線。ここから駅までは3分、降りてからは1分と言ったところか。これならイケそうだ。
「空舞さん、これから行ってみませんか?」
「いいけど、足は大丈夫なの?」
「ゆっくり歩けば問題ないです。ごめんなさい、ノロくて迷惑かけると思いますが」
「人間がノロいのは元からじゃない。慣れてるわ」
これは空舞さんなりの優しさだと、解釈した。
右足を庇いながら地下鉄まで向かったが、意外と歩ける事に気づいた。
昨日の冷却スプレーと湿布のおかげだろうか。
早坂さんの車のトランクには、病院かと思うくらいありとあらゆる救急用品が積まれている。
そのおかげで今わたしの家には、3年分くらいの湿布が積み重なっている。
ああ──気づいたと同時に、思い出した。
今日、"絶対"病院に行くって約束してたんだっけ。これは、オカンモードが発動するのが見える。でも、こういう事情だからわかってくれるはずだ。いや、それよりも1人で行った事を怒られるか?でも、空舞さんもいるし、事実1人ではないよね。
「何をぶつぶつ言ってるの?」
「え?あ、いや、今日病院に・・・」言いかけて、ハッとした。隣に座っていた女性と目が合い、咳払いをして誤魔化す。
「空舞さん、電車では話しかけないでって言ったじゃないですか」肩にいる空舞さんに小声で囁いた。
「誰も聞いてないわよ」
「隣のおばさまとバッチリ目合いましたからッ」
マスクをしてきて良かった。独り言だと思われずに済む。
「別にいいじゃない。1人で喋りながら歩いてる人をよく見るわよ」
「・・・わたしはしないので」
まさか、空舞さんも一緒に地下鉄に乗るとは思わなかった。窮屈なのを1番嫌がるのに。
「こんなに人間同士が密着した乗り物によく乗るわね」
「一応、わたしも人間なので。これでもマシなほうですよ。休日の地下鉄なんて地獄絵図ですから」
「雪音、あなたも人混みは嫌いでしょう?」
「はい、出来れば乗りたくはないですね。や、絶対」
「遊里みたいに車を持てばいいじゃない」
「簡単に言いますけどね・・・車はお金がかかるんですよ。保険とか税金とか、ガソリン代、駐車場代、メンテナンス・・・」言葉にして、わたしには絶対無理だと確信した。
隣のおばさまが、またチラリとわたしを見た。
これ以上、喋らないでおこう。
【光林公園】案内表示に従って出ると、本当に目の前にあった。
地図を見るに大きな公園だと思っていたが、想像していたより広大な敷地だ。遊具などは無いが、園の中心に大きな池があり、その周りに歩道が整備されている。歩道沿いに並ぶ花壇には色とりどりの花が植えられている。
「こんなとこあったんだ・・・意外と知らないものですね」
「あなた、よく走ってるけど此処には来た事ないのね」
「わたし、家の近くの川沿いしか走らないので」
池の周りをランニングするおじさんを見て、何故か闘志が湧いてきた。決して走るのが好きというわけではないが、あの年代の人がストイックに走っているのを見ると、わたしも負けてられないと思ってしまう。足が治ったら、此処もコースに追加しよう。
「ここまで広いと、見つけられるかな・・・」
「こっちよ」 そう言うと、空舞さんは池を囲む木の柵へ飛んでいった。わたしも後を追いかける。
「なんですか?」
「あそこよ。1番手前の尖っているやつ。あの辺から顔を出したの」
空舞さんが言っているのは、池の中から突き出た岩の事だ。柵から2メートル程の所に、他より鋭い岩がある。
「出てきますかね?」
「どうかしら、わたし達に気づいていれば出てこないかもね」
「・・・あの、ちょっと思ったんですけど」
「なに?」
「その子供は、空舞さんに気づいて逃げたんですよね」
「ええ」
「人間だったら逃げないかも・・・?」
「・・・どうかしら。わたしを何と認識しているかわからないけど。離れてみましょうか?」
「そうですね、試してみる価値はあるかも」
「わかったわ。いい?あまり近づきすぎないで。子供だからといって油断は禁物よ」
「わかってます」
空舞さんはわたしの後方へ飛んで行き、大きな柱時計の上に降り立った。空舞さんは視力も良いし、あの高さならこちらの様子も見えるだろう。
──その妖怪が出てきたとして、どうすればいいものか。子供と言っていたけど、言葉は通じるんだろうか。いきなり襲ってきたりしないよね。
池を眺めながらしばらく待ってみたが、変化はない。周りを見回して、近くに誰もいないのを確認する。
「おーい、誰かいますかー」
池に向かって静かに叫んだ。
反応はナシ。空舞さんがいたら馬鹿にされていたに違いない。しかし、わたしはめげない。
「おーい、出ておいで〜」
変わらず、反応はナシ。
「怖くないよ。何もしないから」
──やっぱり、意味はないのかとへこみかけたその時、小さな気泡が水中から浮かび上がってくるのが見えた。
「あっ!」思わず大きな声を出してしまい、口を塞いだ。
それから見守る事、約20秒、それはゆっくりと水面から顔を出した。
正確には、顔半分だ。空舞さんの言う通り、子供だ。人間と違うのは、薄青色の肌。目は2つあるが、金色でギョロッとしている。髪は生えていない。
水面から目だけを覗かせ、ジーッとわたしを見つめている。
何か、言わなくては。怖がらせて逃げられないように。そう、怖がらせないように、だ。この子に対するわたしの恐怖は、まったくなかった。
「こんにちは。ボク、何してるの?」
お前は街中でナンパでもしてるのか?バカな発言しか出てこない自分に呆れる。
言葉が通じているのかわからないが、反応はない。
「人間の言葉、わかるかな?」
引き続き、反応はなし。微動だにせず、ただわたしを見ている。
「大丈夫、何もしないから、安心して。もし言葉が話せるなら、何か反応してくれるかな」
言葉通り、安心させるように、ゆっくり、穏やかに言った。すぐに、反応はなかった。わたしも辛抱強く待った。その甲斐あってか──その子はゆっくりと水面からその顔の全貌を露にした。
そう、普通の人間と違うのは薄青色の肌。そして、耳の部分にある魚のようなヒレ。鼻はない。口は人間と同じ場所にあるが、人間にある唇は見当たらない。
あれ──この感じ、前に何処かで見たような──。
「ボクが見えるの?」
驚いて、すぐに返事が出来なかった。周りを見るが、近くには誰もいない。という事は、今喋ったのは、この子?声は普通の子供と同じだ。
「あ・・・うん、うん。見えてるよ」
「・・・人間?」
「えっ?わたし?・・・うん、人間です」
「・・・なんで話しかけるの?」
「えっ」それに対する返事は、考えていなかった。「あの・・・あっ、キミはここに住んでるの?」
返事は返ってこなかった。わたしを見る目で、警戒しているのがわかる。
「住んでるって言ったら、怒るの?」
「えっ、いや、怒らないよ!ただ聞いただけだから!」
そして、沈黙が生まれる。
待て待て、動揺するな。わたしには確認しなきゃならない事があるだろう。冷静に話をするんだ。
「ねえ、キミに名前はあるの?」
「・・・ないよ」
「そっか。人間の事は知ってるんだよね?」
「知ってるよ。だって、毎日ここにいるもん」
「そっか、そうだね。じゃあさ、その人間に・・・」その先を、どう切り出せばいいのか──正解がわからない。「人間に、何かした事とか、あるかな?」
「何か、したこと?」
「うん・・・例えば、傷つけちゃったりとか。間違えて」
「ないよ」
即答だった。これは、どっちだろう。嘘をついてる?でも、そんなふうには見えない。
「人間と話をした事はある?」
その子は首を横に振った。
「わたしが初めてって事かな」
今度は、縦に。
「そっか・・・わたしが怖い?」
少し間が空き、その子は小さく頷いた。
「どうして?」
「・・・ボクに話しかけたから」
「そっか。そうだよね。あのね、わたしはただキミと話がしたいだけなんだ。傷つけたりしないから、安心して」
わたしに向ける眼差しから、僅かに警戒の色が消えた──気がした。
「なんで話しがしたいの?」
「うーん、そうだね、キミがどーゆう子なのか知りたい。のかな」
「なんで?」
「なんでだろう・・・仲良く、なりたいのかな」
その子の耳のエラがピクっと動き、照れたように顔を伏せた。
「なんで、仲良くなりたいの?」
自然と笑いが出た。「理由が必要?」
「・・・だって、変だもん」
「変じゃないよ」
目が合い、すぐにまた俯く。
この子から感じるのは、孤独と恐怖。何を信じていいのかわからないんだろう。
わたしは柵に肘をつき、ヒョイと身を乗り出した。その子は驚いたように鼻まで身を沈めたが、またすぐに顔を出してくれた。
「わたしね、雪音って言うんだ」
「・・・ユキネ?」
「うん、わたしの名前。キミは名前が無いから、キミとしか呼べないなぁ」
妖怪とはいえ、反応は子供そのものだ。あからさまにしょぼんとする。
「だからさ、名前を決めない?」
今度はパッと目を見開く。
「ボクの・・・名前?」
「そう。わたしが決めてもいいかな?」
最初は戸惑っているように見えたが、そのうちコクりと小さく頷いた。それが可愛くて、また自然と笑みが出る。
「そうだなぁ・・・何がいいかなぁ」
言ったはいいが、困った。そういうセンスは皆無なんだよな、わたし。なら、相談相手を呼ぼう。
「あのね、今からわたしの"友達"が来るけど、怖がらなくていいからね」
後ろを振り向き、「空舞さーん!」
空舞さんはものの数秒でこちらへ飛んできた。柵へ降り立つが、あの子の姿がない。
「あれっ!」
「潜ったわ」
「なんで!?おーい、ボクー、大丈夫だから出ておいで〜」
しかし、姿を見せない。
「・・・空舞さん、何かしたんじゃないですか?」
「してないわよ。何をするって言うの」
「なにか、怖がらせるようなこと」
「何もしてないわ」
少しして、ポチャリと水面が盛り上がった。さっきと同じように、目だけを出してこちらを伺っている。
「ボク!怖くないから出ておいで!この・・・鳥さんはね、空舞さんって言うの。わたしのお友達」
最初は警戒していたようだが、徐々に顔全体を見せてくれた。
「・・・鳥が喋ってる」
「そう!この鳥さんはね、喋れる鳥さんなの!」
「あなただって喋ってるじゃない」
空舞さんの言い方が威圧的だったのか、また顔を隠した。
「空舞さんっ、もっと優しく言ってくださいよ。ボク、怖くないから大丈夫だよ!優しい鳥さんだから!」
「あなた、さっきからボクって言ってるけど、この子は男なの?」
「えっ!違うんですか?」
「わたしに聞かれてもね」
「声の感じからそうかなと思ってたんですけど・・・キミ、男の子・・・だよね?」
反応がない。ということは──。
「そうだよ」
「・・・ああ、よかった」
「男じゃなかったらダメなの?」
「えっ、あ!違う違う!女の子だったら失礼だったなって!それだけ!他に意味はないよ!」
「・・・あなた、少し落ち着いたら?」
テンパっている自覚があるだけに、何も言えず──妙な沈黙に包まれた。
話題を切り替えるためにパンと手を叩いた。
「そうそう空舞さん、今ね、この子の名前を決めるって話をしてたんですよ」
「聞いてたわ」
「何か、いい名前ありませんか?」
空舞さんはわたしに何か言いたげだったが、それは飲み込んだようだ。この"間"でわかる。
「わたしは空を舞うから空舞(あむ)よ」
優子さんがつけてくれた名前だ。本当に素敵だと思う。なるほど、空舞さんなりにヒントをくれているのか。
「そうですね。空舞さんは空を舞うからアム。この子は、水の中にいるから・・・」水に関連する、男の子っぽい名前──・・・「水太郎(すいたろう)?」
再び流れる、沈黙。今の空気を文字にしたら、何だろう。興醒めといったところか。
「ごめんなさい。あなたの冗談では笑えないわ」
「いえ、気にしないでください」
「ボク、それでいい」
──空舞さんと同時に、同じ方向を見た。
今言ったの、この子だよね。
「やめときなさい」
「なんで?変なの?」
「もっと良い名前があるわ」
「じゃあ、なに?」
空舞さんは、わたしを見た。気温は涼しいくらいなのに、汗が出てきた。
「えっと・・・ボクは・・・泳げるんだよね?」
「水の中にいるのよ」
「泳ぐ・・・男の子・・・泳ぐ・・・」その時ふと、ある顔が脳裏に浮かんだ。そう、あれは中学の時の担任だ。あの人の名前は、泳に斗と書いて──・・・「泳斗(えいと)!・・・は、どうですか?」
「・・・いいんじゃない。水太郎よりは」
ホッと胸を撫で下ろす。頭に浮かんでくれた担任に感謝だ。陸上部の顧問も兼任していて、毎日嫌と言うほどスカウトされていた事は水に流そう。
「エイ・・・ト・・・?」
「うん!泳斗くん。どうかな?」
微かにだが、口角が上がったように見えた。
「いいよ」
「良かった・・・じゃあこれから泳斗くんって呼ぶね」
泳斗くんは照れたように1度頷いた。その仕草が可愛らしくて自然と笑みが出る。
「ところであなた、なんの妖怪?見た事ないわね」
空舞さんの問いに泳斗くんは戸惑っているようだった。その時ふと、思い出した。
「あの、わたし、前に泳斗くんに似た妖怪に会った事あります」
「わたしと会う前?」
「はい、家の近所の川で。泳斗くんとはちょっと違うんですけど、あの時見たのは全身が緑色で顔は本当の魚みたいに平たくて、瀬野さんが半魚人って言ってました」
耳のヒレやギョロっとした目は泳斗くんも同じだが、泳斗くんの輪郭は人間そのものだ。それに、子供というのもあってか恐怖は微塵も感じない。
「半魚人・・・ね。わたしは見た事がないわ。あなた、そうなの?」
泳斗くんは答えない。答えないと言うより、答えられないように見える。
「なぜ黙っているの?あなた、喋れるんでしょう?」
「空舞さん。たぶん、本人もよくわかってないんじゃないですか」
「そんなことある?」
「なんとなく、そんな気が・・・ねえ泳斗くん、そこの岩に登れるかな?」
返事はないが、動きは速かった。両手で岩を掴み、ヒョイと水中から飛び上がる。その全貌が明らかになった。
「なんと・・・」
泳斗くんの身体は、薄青色という以外、普通の子供と同じだった。エラなどは無く、ツルッとした肌に小さな乳首が2つ。そして、脚と脚の間には、男の子特有のものがついている。
「泳斗くん、手見せて」
わたしが手を広げると、泳斗くんも同じように小さなを手を広げて見せた。指の間に薄いヒレのような物が見える。それは足も同じだ。
「後ろ向けるかな?」
言われた通り、クルりと背中を見せる。プリッとした可愛らしい小振りなお尻も人間そのもの ・・・人間みたい」
「というか、人間ね。顔と手足を除いては」
「泳斗くん、キミはいつからここにいるの?」
「・・・ずっと」
「他に・・・えと、お友達はいる?」
泳斗くんは首を横に振った。
──はて、どうしたものか。姿を確認するだけのつもりだったけど、まさかこんなに""意思の疎通"が出来る妖怪だったとは。
この先は、わたし1人ではどうも出来ない。
「遊里たちに報告したら?」
「そうですね」
バッグから携帯を取り出し、画面をつけた瞬間、振動と共に表示される名前。
"早坂さん"
「ギャッ」手から携帯が滑り落ち、慌ててキャッチする。
──えええ、このタイミングでかかってくる?わたしは辺りを見回した。まさか、何処かで見ていたんじゃ?
「何をキョロキョロしてるの?電話に出ないの?」
「いや、出ます」一呼吸置き、無駄にドキドキしながら通話ボタンを押した。「もしもし」
「あ、もしもし雪音ちゃん?今どこ?」
「・・・え──、外?です」
「外?あ、病院?」
「いや、えと・・・公園?」
「公園?どこの?」
「ええと・・・ここは・・・何処だ?」
「・・・何してるの?」
「・・・えと、それが・・・その・・・」
「何してるの?」
一瞬、背筋が寒くなった。
「・・・怒らないって約束してくれます?」
「怒られるような事なのね」電話の向こうから溜め息が聞こえた。「何をしたの?」
「え──、今日は朝方、空舞さんに起こされまして・・・」
それから今に至るまでの経緯を説明する間、早坂さんは何も言わず黙って聞いていた。泳斗くんの事もわかっている事は全て伝え、話し終えたところで、──呻くような溜め息が1度。
「いや、その、早坂さんに電話しようと思ったところに、早坂さんから電話がありまして」
我ながら、言い訳じみている。
「思うのが遅いのよ」
「うっ・・・スミマセン」
「何処の公園?」
「え?っと・・・」公園の名前と最寄りの駅を伝えると、了解とだけ言い、通話が切断された。
来ーる!きっと来る!頭の中であるテーマ音が流れた。
「なんだって?」
「たぶん、今から来ます。ぜったい」
それから15分も経たずして、早坂さんはやって来た。向こうから歩いてくる姿が炎をまとっているように見えて、思わず逃げ出しそうになった。やたらゆっくりなのも逆に怖い。
目の前まで来た時、もはやわたしの目は泳ぎまくっていた。
「こんにちは。いいお天気ですね」
「曇ってるわよ」
目を合わせられないわたしの顎を掴み、早坂さんは自分に向かせた。
真っ直ぐに見つめられ、わたしの目はそれから逃れようと勝手に閉じる。
「なに、キスして欲しいの?」
「違います!」
早坂さんは溜め息を吐き、わたしの頭に手を置いた。
「足の怪我はどう?」
いつもの優しい口調だ。すぐに説教タイムが始まるかと思ったのだが。
「大丈夫です。ここまで来れたので」
「病院には?」
「・・・こーゆう事情だったので。それに行くまででもないので大丈夫です」
「それはあなたが決める事じゃないわ。まったく、大丈夫しか言わないんだから」
今のわたしに反論できる余地はない。
「早坂さん、1人ですか?」
「ええ、瀬野は連絡つかないからメールだけ入れといたわ。それで──この子が例の子ね」
早坂さんは岩場にちょこんと座ってる泳斗くんを見た。
「泳斗くんです。泳斗くん、この人は早坂遊里さんだよ。身体は大きいけど怖くないからね」
「あらあら、ずいぶん可愛らしいのね。色んな意味で」
早坂さんは泳斗くんの全身をまじまじと見た。とくに、下の方を。
「ですよね。わたしもビックリしました」
「泳斗くん、ね。ずいぶん良い名前をつけてもらったじゃない」
泳斗くんは照れたように俯いた。それが可愛いったら。
「最初は水太郎って言ってたわよ」
「空舞さんシャラップ。それで、どう思いますか?前に川で見た妖怪と似てるなって思ったんですけど・・・」
「そうねぇ、目と耳は同じように見えるけど、アレとはちょっと違うわね」
ちょっとどころか、アレとは一緒にしてほしくない。
「人間に害を与えるようには思えないんですけど、どうするべきですか・・・?」
早坂さんは柵に肘をかけて身を乗り出した。「ねえ泳斗くん、あなたそこから出て歩いたことはある?」
「あるよ。ダメなの?」
「ダメじゃないわ。人間に近づいたことはある?」
泳斗くんはすぐに首を横に振った。「ボクがここから出るのは人間がいなくなってから」
「そう。ここから出て何をしてるの?」
「走るの!人間みたいに!」
「今やってみてって言ったら、できる?」
「できるよ!」嬉しそうに言うと、泳斗くんはチャポンと池にダイブした。
それから動きはなく、水面が静かになる。どこに行ったんだろう。早坂さんの隣から池を覗き込んだその時、バシャッ!と水しぶきが上がった。
「ギャーッ!」
そして次の瞬間には、泳斗くんが目の前の柵にしがみついていた。驚いて退いた分、水の被害は最小限にとどめられた。
「ビッ、ビックリした・・・」
「凄いジャンプ力ね」早坂さんは冷静だ。
泳斗くんは手足を使って器用に柵をよじ登り、わたしの前に着地した。
至近距離で見る泳斗くんは、とても小さかった。身長は100センチ前後だろうか。人間で言ったら3、4歳といったところだ。
泳斗くんはまじまじとわたしを見上げた。この距離といい、さっきまでの警戒心はだいぶ薄れたようだ。驚かせないようにゆっくりとしゃがむ。いつもなら早坂さんが動きを見せるが、今日は黙っている。こちらもそこまで警戒する必要はないということか。
目線を合わせ、手を伸ばす。泳斗くんの大きな目に、わたしが映っている。
「握手。わかるかな?」
泳斗くんは首を傾げたが、すぐにわたしの手を取った。ヒレのある小さな手はとてもヒンヤリしている。
「ユキネ」泳斗くんが言った。
「そう。わたしはユキネ、だよ」
次に、空舞さんを指差す。「アム!」
空舞さんにこれといって反応はない。そして早坂さんを見上げる。
「ハヤサカユーリ!」
早坂さんは片眉を上げてニヤッと笑った。
「頭が良いのね。ユーリでいいわよ」
「ユーリ!」泳斗くんが復唱した。
「凄いね。泳斗くん、わたしより頭いいよ」
そのツルッとした頭に触れようとすると、泳斗くんがわたしの手をグッと掴んだ。早坂さんがピクリと動く。
「あ、ごめ・・・」
驚いたのは、次の泳斗くんの行動だった。早坂さんが1歩踏み込むのが見えたが、その前に、泳斗くんがわたしの首に巻きついた。
──あら?これは、ハグというやつ?
早坂さんと目を合わせる。不安そうに眉間を寄せているが、手は出さない。
なんだか母性本能をくすぐられ、わたしは泳斗くんの頭を撫でた。甘えたい・・・んだろうか。
「懐かれたわね」気づけば空舞さんも頭の上にいて、臨戦体制に入っていたのが伺える。
泳斗くんは、なかなか離れようとしなかった。その分、わたしの服は濡れていく。
「くっつきすぎじゃない?」早坂さんの指摘は無視する。
泳斗くんはわたしから離れると、その場から走り出した。子供とは思えない速さで池の周りを1周し戻ってくる。その顔は興奮気味で、息1つ切れていない。
わたしは拍手で称えた。「わー、凄い!わたしより速いよ泳斗くん」
褒められた泳斗くんは得意げだ。
「それで、どうするの?この子」痺れを切らした空舞さんが言った。
「そうねえ・・・1度、財前さんのところに連れて行こうかしら。陸でも動けるようだし」
「これからですか?」
「いえ、今は留守にしてるのよ。明日の夜戻ってくるとは言ってたけど。後で連絡してみるわ」
「わたしも行きます」
「ええ、もちろん」
「前にあなた達が言っていた男ね。大蛇の呪いを受けているっていう」
「・・・あ、空舞さんは会ったことないですもんね。一緒に行きますか?」
早坂さんに目で確認すると、頷いた。
「空舞ちゃんの事は彼も知っているから。1度会ってみるといいわ」
「そうね。考えておくわ」
空舞さんはあまり乗り気じゃなさそうに見えるが、何か理由があるんだろうか。
「よし、今日は一旦撤収しましょう。泳斗くん、明日迎えに来るから此処にいてくれるかしら?」
泳斗くんはわたしと早坂さんの顔を交互に見た。
「迎えにくる?」
「うん、泳斗くんにね、会わせたい人がいるんだ。ここから移動しなきゃならないんだけど、いいかな?」
泳斗くんがどこまで意味を理解しているかはわからないが、コクンと頷く。
「良かった。じゃあ、明日また来るからね」
また来るという言葉に喜んでいるのは、泳斗くんの表情でわかった。
「明日!待ってる!」
「うん、そうだね」
また頭に触れようと手を伸ばすと、今度はすんなり受け入れてくれた。よしよしと撫でると、泳斗くんは気持ちよさそうに目を細めた。
正直、泳斗くんを1人残して去るのは心が痛んだ。何度も振り返ったが、泳斗くんはポツンとそこに立ち、しばらくこちらを見ていた。わたしが手を振ると、寂しそうに手を振り返す。引き返したい衝動を必死に抑えた。
「何度振り返れば気が済むの?」
言い方にトゲがあるのは、わたしが振り返るたびに頭にいる空舞さんもそちらを向くからだ。
「スミマセン・・・」
「置いて行きたくないのよね。あたし達がいなければ引き返してるわ」
「うっ・・・」 たぶん、その通りだ。「でもあの子、不思議な妖怪ですよね・・・喋れるし、人間ぽいし」
「あら、それを言うなら財前さんと美麗ちゃんだってそうじゃない?」
「そうですけど、泳斗くんの場合はなんていうか・・・」その先を、言葉で説明する事が出来ない。あの子を見た時からあるこの妙な違和感は何処から来るんだ?
「妖怪みたいな、人間?」
言ったのは早坂さんで、納得したのはわたしだ。
「ッ・・・そう!それだ!」
言葉で説明するなら、今早坂さんが言った事が1番近い。そう、あの子に対する違和感の正体はソレだったんだ。見た目は誰が見ても妖怪なのに、それ以上にあの子には"人間"を強く感じてしまうんだ。
「でも、それは何でだろ・・・」
「あなた、今頭の中でまとめたわね」
「えっ、あ、ごめんなさい。早坂さん天才ですね」
「あら、褒められちゃったわ」
「そうなんですよね、泳斗くんはどっちかというと人間みたいで・・・」
「雪音ちゃん、中に何か着てる?」
「・・・はい?」
「その服の中」
「・・・え、あ、はい。中はTシャツですけど」薄手のパーカーの中は、昨日寝る時に着ていた物だ。
「そう、じゃあ脱いで」
「はい?」
早坂さんは自分が着ていた黒いトレーナーを脱ぎ始めた。チラリとお腹が見えて、まさか、裸に!?──と思ったが、中にはシッカリと白いTシャツを纏っている。
「今日に限って車に替えの服がないのよ。これ着なさい」
「え、いやでも、わたし濡れてるから・・・」
「だから着るんでしょう」
「でも、早坂さんの服が濡れちゃうし」
「脱がされたい?」
「お言葉に甘えます!」
渋々パーカーを脱いだわたしに早坂さんは自分の服を着せてくれた。まるで子供のように。
前回同様、トレーナーというよりワンピース状態だ。そしてあったかい。そして、とてつもなく良い匂いがする。
早坂さんがギョッとして、自分が無意識に袖の匂いを嗅いでいた事に気づく。
「臭う?」
「はい。良い匂いがプンプンと」
早坂さんはプッと笑った。「あなたには負けるわよ」
──どういう意味だ?わたしは臭うのか?何臭だ?
「早坂さん寒くな・・・」言いかけて、ハッと気づいた。早坂さんの腕に巻かれている包帯に。
「なんですか、ソレ」
「え?」本人も言われて気づいたようだ。「ああ、ちょっとね」
「ちょっと、なんですか」
「料理中にミスって切っちゃったのよ。大した事ないわ」
「包丁で?」
「ええ」
「どうやったらソコを切るんですか」包帯が巻かれているのは、右肘から前腕にかけてだ。
「よく覚えてないわ。よそ見してたのかしら」
なんて、白々しい。それに、普段意味もなくわたしを見てくるくせに、目を合わせない。これはバツが悪い時の早坂さんだ。
「やっぱり、昨日怪我してたんですね」
「違うわよ」
わたしは、早坂さんに"された"事を真似した。早坂さんの両頬を押さえ、無理矢理自分に向かせる。
「正直に言ってください」
早坂さんは虚を突かれたように固まっている。
「なんで、嘘つくんですか・・・わたし嫌なんです、そうやって平気なフリして・・・わたしだけ知らないで・・・守られて・・・」
声が震えて、それ以上言えなかった。自分の情けなさに涙が込み上げてくる。泣くな。早坂さんを困らせるだけだ。
早坂さんの力強い腕が、わたしを抱き寄せた。
それによって、更に涙腺が弱くなる。
「・・・ムカつく」
「ゴメン。怒らないで」耳元で早坂さんが囁いた。
「怒ってないです」
「ムカつくんでしょ」
「自分にです」情けなくて泣き虫な自分に。
「だから嫌なのよ」早坂さんの吐く息を耳の中に感じてゾクッとした。「あなたは何かあると自分を責めるから。自分がこうしてたらって、思うでしょ」
事実、そうだった。あの時、車に刀を取りに行った時、2人の姿がなくて自分を責めた。もっと早く戻っていればと。
「あなたにそう思われるのが、あたしは1番堪えるのよ」
「わたしは、早坂さんが怪我をしてるのに知らないでいるのが1番イヤです・・・」
「あたしの事は心配しなくていいのよ」
「ムリです・・・怪我してるのに、わたしをおんぶして・・・」
「あのね、あなたを運ぶくらい両手が無くたって出来るわ。それに怪我なんて大袈裟なもんじゃないのよ。ほんのかすり傷」
早坂さんから離れ、その腕に触れた。硬くガッシリとした腕に重なると、自分の手がとても華奢に見える。
「いつ怪我したんですか?」
「・・・吹き飛ばされた時よ」早坂さんは観念したように言った。「一緒に飛んできた木か何かに当たったのね」
「傷は深いんですか?」
「全然?」
その軽さが、全く信用出来ない。
「包帯取れたら、チェックさせてください」
早坂さんはフフッと笑った。「チェックされるの?」
「はい」
「わかったわ」
早坂さんはわたしの顎をコロコロと撫でた。猫にするみたいに。ああ、撫でられて目を閉じる猫の気持ちがわかった。
「気持ちぃ・・・」
「そーゆう顔でそーゆうこと言わないでくれる」
「え?」
目を開けて、息が止まった。
早坂さんの顔が目の前にあったから。視界がボヤけるほど近くに。
「あ、ヤバ・・・」
言ったのは、早坂さんだ。顔に息がかかり、思考が停止する。
早坂さんはわたしから離れ、口元を押さえた。
「危ないところだったわ」
──「なにが?」無意識に口から出ていた。
「ゴメンね」
「いや、なにがですか?」
早坂さんがわたしの頭にポンと手を置く。
いや、答えになってないんですが。
「・・・睨まれてる?」
「たらし」ボソリと呟いた。
「出た!またそれ?違うって言ってるでしょ」
「・・・何がどう違うか説明してもらいたいのですが」
早坂さんは、黙った。はいはい、始まった。またそれ?は、わたしのセリフですが。思わせぶりからの無言。これで何回目ですか?
「雪音ちゃん、顔に薬塗ってる?」
「えっ?・・・あ"っ!!」
自分の顔の事をスッカリ忘れていた。ここに着いた時にマスクを外したままだった。つまり、この悲惨な顔をずっと晒していたということか。もう手遅れだが、バッグからマスクを取り出してつけた。
「なにそれ」
「マスクです」
「それはわかるけど、擦れて悪化するんじゃない?」
「この醜い顔を晒すよりマシです」
「醜いどころか可愛いわ。でも、昨日より酷くなったわね。病院に行って薬を貰いましょう」
「いや、大丈夫です。そのうち・・・」
「ダメよ。女の子なんだから、顔に痕が残ったらどうするの」
「少しくらいは気にしません」
それより、わたしが今気になっているのは別の事だ。どうも、上手くはぐらかされた感が否めない。
「あなたねぇ、もうちょっと女の子っていう自覚を持ちなさい?ホントに自分の事には無頓着なんだから」
「悩みが尽きないもので、それどころじゃないんです」
今のは最大限の嫌味のつもりだ。
「あら、何か悩み事があるの?あたしで良かったら聞くわよ?」
その、あたしの事ですけどね!
「結構です。空舞さん帰りましょう・・・アレ?」 空舞さんが、何処にもいない。思わず頭を触って確かめた。
「空舞ちゃんならとっくの前に飛んでったわよ」
「えええ!?」
なんでだろう、気を利かせてくれたとか?いや、空舞さんに限ってそんな事はないか(失礼)。
「さ、行きましょう」
「・・・病院にですか?」
「ええ」
「だとしても、1人で行けます」
「行ける行けないの問題じゃないの」早坂さんはわたしの手を取り、車へ連行した。「反抗したら担ぎ上げるわよ」
そう言えば、従うと思って──いや、従うけども。本当に実行するから、怪我を負っている早坂さんに反抗は出来ない。
「ムカつく・・・」
「聞こえなかったことにするわ」
早坂さんはわたしを握る手にギュッと力を込めた。──ムカつく。でも、それ以上に安心する。
昔、母さんが言っていた事を思い出した。
若い頃は好きっていう気持ちが先走るけど、最終的に大事なのは、一緒にいて安心出来る人よ。雪音も、そう思える人と出逢えるといいわね。
──・・・母さん、わたし、そう思える人と出逢ったかも。先の事はわからないけど、わたしはこの人がそばにいると、強くなれる。出来ない事は無いと思えるんだ。
でも、なんでかなぁ。
わたしには、この人の考えてる事がさっぱりわからないよ。