目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第八章 【謝罪と感謝】



「あ、雪音ちゃん。今週末、出かけるんだけど、雪音ちゃんも来る?」


名前を呼ぶ前に、あ、がつくのが伯母の癖だった。腫れ物に触るような態度も、横目でチラチラとわたしを伺うのも、此処に来てからずっと変わらない。


「ううん、わたしバイトあるんだ。ありがとう誘ってくれて。伯父さんと楽しんでね」


「あら、そう。残念。じゃあまた次の機会にね」


残念と思ってる人は、そんな顔をしないと思うよ。もう、このやり取りにうんざりしていた。

気を使ってくれているのはわかるが、そろそろ察してくれとも思う。


母さんが亡くなってから、わたしは母方の祖父の家に世話になっていた。祖父はわたしが小さい頃に亡くなっていて、祖母と長男夫婦の3人暮らしだ。


最初にこの家に来た時の、伯母の顔は忘れられない。正直な人なんだろう、こんなに笑顔でいることに必死になっている人を初めて見た。

2人の間に子供はおらず、これは後から聞いた話だが、伯母さんが子供を欲しがらなかったという。そんな人が、年に数回会う程度の義姪と突然同居になるんだから、さぞかし嫌だったろう。


わたしは学校に通いながら、毎日のようにバイトをしていた。家に帰りなくなかったのもそうだが、高校を卒業してから一人暮らしをする為の費用も貯めたかった。


伯母に負担をかけるのが嫌で、朝食は抜いていた。ギリギリまで寝ていたいからと嘘をつき、時間になるまで部屋で過ごした。昼食は学校の購買に行き、バイト代でパンを買う。夜はバイト先の賄いだ。伯父はお小遣いを渡そうとしたが、わたしは頑なに断った。

妹の子供とはいえ、本当、可愛くない姪だったと思う。


そうやって、出来るだけみんなで共有する時間を避けていた。伯父も伯母も、決して悪い人ではない。ただ、気を使われれば使われる程、辛かった。誰もわたしに気にかける事がないように、自立していたかった。


そんな中でも、気持ちにゆとりが出来る日があった。仲の良い伯父夫婦は週末になると2人で出掛けて、夕方まで帰ってこない。伯母が子供を望まないのは、こうやって夫婦の時間を優先したいからなのかなと、ちょっと思った。



いつものように部屋でゴロゴロしながら、2人が出かけるのを待って、1階に下りた。

居間のドアを開けて、驚く。


「あれ、おばあちゃん?」


「雪音、おはよう」おばあちゃんはソファーに座り、膝掛けの上で編み物をしていた。


「今日はゲートボールに行かなかったの?」


「ああ、少し風邪気味でなあ。今日はお休みだ」


「大丈夫?」


「大丈夫だ。元気はある」


おばあちゃんは週末になると、近所のお友達と一緒にゲートボールをしに行くのが決まりだ。お昼前に帰ってきて、2人でのんびりとするのが、この家で唯一の癒しの時間になっている。

わたしはおばあちゃんの隣に座って、額に手を当てた。


「熱はないね。ご飯は食べた?」


「食べた。お前は?」


「わたしは朝食べないから」そう習慣付いてしまった。


「駄目だぞ、ご飯はちゃんと食べないと」


「大丈夫だよ。それ以外はもりもり食べてるから」


「その割に、痩せ子だなあ」


「動くからね。消費するんだよ」


おばあちゃんはおもむろにカーディガンのポケットを探ると、取り出した物を、わたしに握らせた。


「・・・1万円札?どうしたの?」


「小遣いだ。取っとけ」


「・・・おばあちゃん、大丈夫だよ。わたしバイトしてるし、お金はあるんだ」ポケットに戻そうとすると、わたしの手をぎゅっと握った。


「いいから、取っとけ。金はいくらあっても困る事はない」ただでさえ皮膚が薄いおばあちゃんの手が、力が入って血管が浮き出ている。わたしはおばあちゃんの手に、自分の手をそっと重ねた。


「ありがとう、おばあちゃん。遠慮なく頂くね。ふふ」


おばあちゃんも満足気に頷いた。しわくちゃになった1万円札を大事にポケットにしまう。


「本当はもっとやりたいんだけどなあ」


「おばあちゃんそんなにお金持ちなの?」と笑う。「1万円なんて、大金だよ。・・・あ、伯父さん達には言わないでね」


「言わないよ。貴史(たかし)からも素直に貰いなさい。アルバイトで稼いでるからって、お前はまだ子供なんだぞ?」


貴史とは、伯父の名前だ。おばあちゃんは、わたしがお金を貰ってない事、知ってるんだ。



黙っていると、おばあちゃんがわたしの髪に触れた。梳くように撫でる。

「地毛が茶色いのは、母さん譲りだな」


「・・・そうだね。母さんはもっと茶色かったよ。高校の時、先輩に呼び出されて生意気だってシメられたんでしょ?」


おばあちゃんは目の皺をさらに深くして笑った。「そうだなあ。あの時は、わたしが怒られたよ。お母さんがこんな色に生んだせいだぁ!って」


「アハハ。そうだったんだ。おばあちゃんに怒っても、不可抗力だよね」


「性格は、似てないな」おばあちゃんの手が、髪からわたしの手に移る。「お前はしっかりしてる。見ていて心配になるほどな」


「そお?」おどけて見せる。


「幸江(さちえ)は昔から繊細だった。身体も弱ければ、気持ちも弱くてな。いつも泣いていたよ。そんな母親を見て育ったお前が、こんなに立派なのは、ばあちゃんの誇りだ」


「・・・わたしは立派なんかじゃないよ」


── 立派な人間が、母さんが死んだ時、あんな事を思うわけない。


無意識に握りしめていた手を、おばあちゃんの手がほぐした。親指でわたしの手の甲を撫でる。


「いつも、しっかりしようと思う必要はないからな。甘える時は甘えて、泣きたい時は泣いて、笑う時は笑う。それが出来て、当たり前の人間だ」


「・・・・・・ふふ、おばあちゃん。それ、今、同時にやってもいい?」


おばあちゃんが微笑んでくれるから、わたしも笑う。目から溢れ出る涙には、抗わない。

おばあちゃんの膝に頭を身を預けて、子供のように甘えるよ?


何も言わず、わたしを包み込むおばあちゃんの手に、母さんを重ねた。









その日、わたしは、バターをたっぷり塗った食パンを食べながら、ベランダで揺れている一際大きいシャツを眺めていた。


早坂さんは言った。本当に要らないから、あなたの好きなようにしなさいと。

加えて、クリーニングに出して返したりなんかしたら、覚えておきなさい、と。

それには快く甘えるつもりだが、これを、わたしにどうしろと?捨てるわけにもいかないし、気になってしょうがないんだが。


あれから5日。雨天が続き、やっと洗濯が出来たところだ。それまで、早坂さんからの連絡はない。別に、用事がなければ来ないことはわかってる。静かすぎて不安になるのは、ここ最近が立て込みすぎていたからで。


携帯が鳴り、秒の速さで手に取った。

「・・・珍しい」と、口にしてしまうほどの相手だった。


【久しぶり〜、雪音、元気か〜?】


久しぶりどころか、中学以来、1度も会ってない同級生だ。むしろ、お互い、よく連絡先が残っていたと思う。


【久しぶり〜、周平(しゅうへい)、元気だ〜】と返す。


すぐに、返信があった。【今どこにいる?地元離れてるか?】


周平が言う地元は、あそこしかない。【いないよ。なんで?】


【マジか。まあいいや、雪音と連絡取りたがってる奴がいるんだけど、連絡先教えていいよな?】


──唐突に、なんなんだコイツは。【意味がわからん。誰?】


【人伝てだから俺も知らねーんだわ】


【はい?どーゆうこと?】


【とりま、教えとくな。俺今仕事中だから、検討を祈る!】


【いや、意味がわからない。ちゃんと説明しろ】


そして、連絡が途切れた。怒りに任せて電話をしてやろうと思ったが、仕事中だという言葉を思い出し、震えながら留まる。


──わたしと、連絡を取りたがってる人?

周平からということは、中学時代の誰か?まるで、見当も付かない。






それが誰かわかったのは、夕方、店に向かう途中だった。ポケットの携帯がブブっと揺れ、歩きながら確認する。


【雪音ちゃんですか?】知らない番号からのメッセージ。


周平が連絡先を教えた人物か。【そうです。どちら様ですか?】不信感を抱きながら、返信する。──が、しばらく応答が無かった。


新手の嫌がらせか?わたし、アイツに恨みでも買ってた?後で電話して問い詰めてやろう。──・・・周平の番号、知ってたっけ?電話帳を確認しようと携帯のロックを解除すると、ピコンと新着メッセージが表示された。


イライラしながらメールを開いて、足が止まった。

画面を消し、携帯をポケットに戻す。

少し歩いて、また止まる。

再度携帯を取り出し、メールを開いた。


【こんにちは。未来です。覚えていますか?】


これまで知り合った中で、未来という名前の人物がいるか思い出す。考えるほど、知り合いがいないという事実は置いといて、──"あの"、未来ちゃんだよね。


え、なんで?周平の言ってた人って、未来ちゃんだったの?でも、周平と未来ちゃんに面識はないはず。

あの事件があってから、未来ちゃんとは、ほとんど口を利かないまま学校生活を過ごした。そして、4年生になる手前で、未来ちゃんは親の海外赴任に伴い転校することになった。


当たり前だが、それ以来、会った事はない。

なんで?今このタイミングで、わたしに連絡が?

周平のメールを読み返す。【人伝てだから俺も知らねーんだわ】


頭が混乱してきた。とりあえず、何か返信せねば。

【こんにちは。覚えています】──その後に続く言葉がない。元気ですか?と打って、すぐに消す。

久しぶりに連絡を取り合う友達でもあるまいし。──そう、友達では、ないから。


【こんにちは。覚えています。お久しぶりです】

堅いか?いや、でも馴れ馴れしいよりはね。そのまま送信ボタンを押す。


3分後、返信が来た。

【返信ありがとう。突然でごめんなさい。雪音ちゃんに会って話した事があります。無理なら、電話でもいいのですが。如何でしょうか】


わたしに、話したい事。なんだろう。今度は、動悸がしてきた。


その後のやり取りで、未来ちゃんは此処から電車で30分程の所に住んでいる事がわかった。

専業主婦をしていて、時間に融通が利くから是非、会って話がしたいと。わたしに合わせると。

正直、迷った。あの時の事は、10年以上経った今でも、わたしの中に苦い記憶として鮮明に残っている。出来れば、会いたくはない。

でも、断っても、気になってしょうがない。そうなる自分が見えている。

結局、会うという選択肢以外はないわけだ。


驚いたのは、その日を明日に指定してきた事だ。休みを聞かれ、月曜日だとは言ったが、確かに明日は月曜日だが、今日の明日で?

いやしかし、考えようによっては、下手に先延ばしするより、すぐに"決着"がつくのでは?


結果、明日の正午、早坂さん達と行ったあの喫茶店で落ち合う事になった。








「それで、何があったの?早坂さんに振られた?」


「・・・え」


春香が、わたしを睨んでいる。「反抗してこないところを見ると、よほど重要な事なのね。何があったのよ」


「・・・そんなわかりやすい?わたし」


「バカじゃない限りわかるわ」


「そうか・・・」


「さっさと片付けて飲みに行くわよ」


「えぇー?賛成」


「はーい、俺も行く行く」


そういえば、今日は店長のタバコに文句を言ってなかったな。


「今日は従業員としてなので、営業体制や賃金の話をしようと思うのですが、店長もご一緒しますか?」

よくもスラスラと出てくるなと感心したが、普段から春香が言っている事だった。酔っ払った時に。


「遠慮しときまぁす・・・」元々の撫で肩の店長が、肩を落とす。


「それは半分冗談だとして。今日は、女同士で話したい事があるんですよ。店長に奢ってもらえないのは残念だけど、次の楽しみに取っておきますね」


フォローになっているのか疑問だが、店長は親指を立てているから、グッドなんだろう。





近所の居酒屋に移動し、とりあえずビールで乾杯する。

「お疲れ〜〜」

春香はいつも通り、手品かという早さで1杯目を飲み干した。


「最初から2杯頼んどけば?」


「ぬるくなるでしょ」


「ならないと思う。絶対」


「それで?早坂さんと何があったの?」


だから、なんでいつも早坂さんが最初に出てくるんだ。「早坂さん関係ないし」


「え、そーなの?てっきり恋煩いかと思った。心ここにあらずで溜め息ばっかりついてるし」


「恋煩いって・・・」


「じゃあ何よ?」


春香のおかわりビールとチーズの盛り合わせが届き、1つ、つまむ。


「春香だったらさ、小学校の時、喧嘩別れした友達から今になって会いたいって連絡来たら、どーする?」


「喧嘩別れ?」


「向こうが転校したの」


「・・・悩みって、そんな事?まあいいわ、喧嘩の内容は?」


余計な事を口走るな、わたし。「・・・2人で公園で遊んでる時にね、向こうがジャングルジムから落ちて怪我しちゃって。それをわたしが落としたと思ってて・・・違うんだけど。そっから口利いてくれなくなっちゃって」


「なんでアンタのせいだと思うわけ?」


「・・・わかんない」としか、言いようがない。未来ちゃんが何かに引っ張られたという話は、ややこしくなるから言わない。


「わかんないって、何かがなきゃそうは思わないでしょ」


「・・・わたしが引っ張ったと思ったらしい」


「そうなの?」


「まさか!そんな事するわけない」


「そりゃそーよ。ただの言い掛かりじゃない。最悪なガキね」


──まあ、あの子が引っ張ったのは事実なんだけど。


「未来ちゃんは・・・あ、その子の名前ね。未来ちゃんはそう思ったんだよ」


「それで無視ね。そんな奴とは口利かなくていいと思うけど。ていうか、そんな事を未だに引きずってんの?」


「引きずってるというか、そんな単純な話でもないんだよねえ・・・」

いじけながら、もう1つチーズをつまむ。


「サッパリわかんないわ。まあそれで、それ以来疎遠になってた子が今になって会いたいと。それも不思議な話だけど、そこで悩む必要ある?」


「悩むっていうか、戸惑う」


「くっだらない!子供の頃の話でしょうが。そんな喧嘩、あたしなんて何回したか。嫌なら会わなきゃいいだけじゃない」春香は、心底呆れている。まあ、傍から見たら子供の頃の喧嘩を引きずる痛い女だよな。


「無視したらしたで、気になる。そして、もう会う約束した」


「あっそ、もう好きにしてくれ。くだらない。心配して損したわ」春香は2杯目のビールを飲み干した。「すみませーん!ハイボール1つ!」


2回目のくだらないは、効いた。ジメジメとビールを飲む。「なんの話だろ・・・」


「謝罪でしょ?」


「・・・・・・謝罪?」


「逆にそれ以外ある?じゃなきゃ、喧嘩別れして10年以上疎遠だった人間に会いたいなんて思わないわよ普通」


「えええ・・・そんなことある?・・・今になって?」


「まあ、あたしだったら無いわね。とっくに忘れてるか、覚えててもあんな事もあったなくらいで終わるわ。でも、その子にとっては違うんじゃない。心の中でずっと引っ掛かってたとか?まあ、憶測ですけど」


また、混乱してきた。わたしは、謝罪されるのか?いや、そうとは限らない。「・・・逆に、あの頃の恨みを再び言われるとか?」


「・・・それこそ、だいぶヤバい奴ね。逆に吹っ切れていいんじゃない?」


「他人事だと思って・・・」


「他人事だもの。まあ、会ってみない事にはわからないんだから、うだうだ考えるだけ無駄よ。そんな事より、明日は休みよ?飲むぞー!」


こやつ、単に飲みたかっただけでは?

でも、その通りだ。全ては、明日になればわかる事。

わたしは遅れを取り戻すべく、残ったビールを煽った。


「すみませーん!生おかわり!」









やってしまった──。

昨日の記憶を、呼び起こす。居酒屋を出た後・・・そうだ、ワインバーに行った。

そこは店長の知り合いの店で、帰ろうと思っていた矢先に、1杯サービスされて──・・・そこからの記憶がない。


久しぶりに、重度の二日酔いだ。こんな日に限って。昨日の自分を恨む。

わたしがこんなに酷いのに、その倍飲んでいる春香は生きてるだろうか。その通り、生きてる?とメールをしてシャワーへ向かう。


しばらく冷たい水を浴びて、幾分か頭はスッキリした。冷蔵庫を開けて、缶ビールを見た瞬間吐きそうになる。テレビをつけた瞬間、ビールのCMで追い討ちをかけられた。しばらく、ソファーで死人になる。

約束の時間までは、1時間以上ある。15分、15分だけ。アラームをかければ、大丈夫──・・・。






グァッグァッグァッ。グァッグァッグァッ。


──・・・アヒル。アヒルが鳴いている。

うるさい。しつこい。なんで、アヒル?アヒル・・・ああ、電話か。だから、なんで着信音を変えないんだ、わたし。手探りで耳元の携帯を手に取る。


「・・・あい」


「もしもし、雪音ちゃん?」


視界が鮮明になり、勝手に身体が起き上がる。クラクラして、携帯を床に落としてしまった。


「もっ、もしもし・・・すみません早坂さん」


「・・・大丈夫?声が枯れてるわよ?」


ゴホンと咳払いする。「寝起きだったもので」


「あら、そうなの。もうお昼よ?お寝坊さんね」


そう、もう・・・お昼・・・?

時計を見て、全身の血の気が引いた。

「どわぁ─────!!!」


待て待て待て!

11時45分!?待ち合わせまで、あと15分しかないじゃん!

落ち着け。ここからダッシュで10分。今すぐ出れば、ギリギリ間に合う。


「早坂さん!待ち合わせに遅れそうなのでかけ直します!すみません!」捲し立て、向こうの返事も聞かずに電話を切った。


シャワー後、化粧と着替えは済ませてある。

あとは、髪だけだ。洗面所の鏡で自分の姿を見て、愕然とした。ソファーに仰向けで寝ていたせいで、後頭部が荒地と化している。これだからショートは!直してる時間はない。水で濡らし、ワックスをベッタリとつける。

高速で歯を磨き、家を出た。





いつもより身体が重いのは、昨日の酒が残っているからだ。二度寝のおかげで多少はマシになったが、さすがに全力疾走はキツイ。


途中何度か倒れそうになったが、なんとか店まで辿り着いた。11時59分。ギリギリセーフだ。カフェの入り口で大汗をかきながら息を切らしている女に向けられる好奇の目は、気にしない。

ハンカチで汗を拭き、呼吸を整える。そういえば、早坂さん達と待ち合わせた時も大汗かいてたな、わたし。あの時と違うのは、"引き返したい"という感情。しかし、そんな事を感じている暇はない。前回より重く感じる扉を開けて、中へ入った。


一通り、店内を見回す。そして、すぐにわかった。奥の2人掛けの席にこちらを向いて座っているのが、未来ちゃんだ。

向こうはキョロキョロしているが、わたしに気づかない。まあ、この距離で顔が認識出来るのは、わたしくらいだ。


ゆっくり向かうと、途中でわたしに気づいた未来ちゃんが席を立った。そして、すぐに気づいた。ゆったりとしたワンピースを着た未来ちゃんのお腹が大きい事を。


「雪音ちゃん」名前を呼ばれ、声があまり変わっていない事に内心驚いた。


「未来ちゃん」


わたし達は立ったまま、お互いの顔を見つめた。未来ちゃんは、全然変わっていない。あの頃のままだ。


「久しぶりだね。来てくれてありがとう、雪音ちゃん」


「久しぶり・・・全然、変わってないね」


「それ、今わたしも言おうと思ってた」


2人で笑い、無性に懐かしさが込み上げる。「とりあえず、座ろっか」


「あ、そうだね」ここがカフェだという事を忘れていた。


「雪音ちゃんご飯食べた?」


「あ、ううん。食欲ないからの飲み物だけでいいや。未来ちゃん気にしないで食べてね」今何か食べたら、間違いなく吐く。


「ううー、わたしも体重制限かかっちゃって。飲み物だけにしとこうかな」


「妊娠してる・・・よね?何ヶ月?」


「6ヶ月だよー」嬉しそうに笑う顔も、あの頃と変わらない。


「そうなんだ。性別は?」


「男の子!旦那さんは女の子が欲しかったみたいなんだけどね。わたしは最初は女の子がいいと思ってたから、嬉しくって」本当、言葉通りの顔をしている。


「そっか。良かったね」


──・・・なんだろう、この、"違和感"は。

言葉を交わす度に、押し寄せてくる。わたし達、こんなに普通に話せるんだ。話せていいの?


「アンタは全てが顔面に出るから、そこだけは気をつけなさいよ」

ふと、昨夜の記憶が脳裏に甦る。

「まあ、無理だろうけど」と、真っ赤な顔でワインを飲む春香の姿も。


「あ・・・ごめん。喋りすぎだよね、わたし」


「えっ?」自分を、殴りたくなった。「・・・いや、わたしこそ、ごめん。昨日ちょっと飲みすぎちゃってさ。実は、絶賛二日酔い中。わたし酒臭くない?」


「そうなんだ。全然臭くないよ」笑ってくれて、ホッとする。


「・・・いつ、海外から戻ってきたの?」


「高校に上がる時だよ。それまで、年に数回は帰ってきてたんだけどね。・・・突然、連絡してごめんね」


「ううん。ただ、よくわかったなって、わたしの連絡先」


「・・・高校で仲良くなった子に地元の子がいて、いろいろ聞き回ってもらったの。わたし達が住んでた所って田舎でしょ、学生時代に雪音ちゃんが地元を離れてなければ、もしかして辿り着けるんじゃないかって。そしたら、思いのほかすぐに共通の人物がわかって・・・雪音ちゃん、美人で運動神経抜群って有名だったみたいだから」


「・・・いや、そんなことは・・・」後者は認めるが。「そっか、そうなんだ」


「雪音ちゃん」


「ん?」


突然、未来ちゃんが頭を下げた。「あの時は、ごめんなさい」


「・・・え」


「公園で遊んでた時、わたしが落ちたのを雪音ちゃんのせいにした。本当にごめんなさい」


──・・・春香の、言う通りだった。

テーブルにギリギリの所まで頭を下げる未来ちゃんの身体が、僅かに震えている。

わたしは、未来ちゃんの額にそっと触れた。


「未来ちゃん、顔上げて」


ゆっくりと顔を上げた未来ちゃんは、目に涙を浮かべている。


「そういえば、そんな事もあったね。未来ちゃんに言われるまで忘れてたよ。てか、子供の頃の話でしょ。そんな事気にしてたの?」



未来ちゃんは、指で涙を拭った。「雪音ちゃんは、優しいね。あの時と変わらない。あの時も、わたしを責めなかった。悪いのは、わたしなのに」


──何も、言えなかった。


「わたしね、本当はわかってたの」


「え?」


「雪音ちゃんがやったんじゃないって。でも、怖くて・・・あの時、わたしは何かに引っ張られた。絶対、あそこに何かが居たはず。そうでしょ?」


──何も、言えない。何て、答えたらいいの。未来ちゃんがどこまで本気で言っているか、わからない。


「あの時、雪音ちゃん、誰かに喋りかけてたよね。自分の足元指して、ここに居るって」


あの時は、わたし自身も、何かわかっていなかった。わたしにしか見えないという事実に恐れるわけでもなく、ただ不思議に思うだけだった。


「雪音ちゃん、"見える"んでしょ?」


とぼける事も出来た。でも、未来ちゃんの表情は真剣そのもので、本当の事を言わなければと思った。


「うん。見えるよ」


未来ちゃんは一点を見つめ、固まった。そうだと思っていても、核心を突かれると恐怖を感じるんだろう。信じているから、そう思うんだ。


「幽霊・・・?」


やっぱりそう来るかと、少し笑ってしまった。「正確には違うけど・・・」


「ごめん!やっぱいい!そこは知りたくないかも・・・」


「うん」わたしも、伝える気はない。


「・・・あの時、雪音ちゃんはわたしより上に居たのにね。わたしを引っ張れるわけないのに。何かが居たっていう事実を認めるのが怖くて・・・雪音ちゃんのせいにした。本当にごめんなさい」


わたしは今まで、未来ちゃんの立場になって考えた事があるだろうか。目に見えない何かが、自分を襲ってきたら?もしかしたらそれは、見えるよりも恐怖なのでは?


「・・・もう、謝らないで。未来ちゃんが怖かったのも、わかるから。誰も悪くないよ」


「言えなくて、辛かったよね。言っても、誰も信じてくれないから・・・あの時の雪音ちゃんの気持ちを考えると、本当に辛かったと思う。ごめんね、信じてあげれなくて」未来ちゃんの目から、涙がこぼれ落ちた。


「未来ちゃん、お願いだから、謝らないで。あの時は、お互い子供だったんだし、どうにも出来なかったよ。それより、泣かないで。わたしが泣かせてるみたいじゃん」笑いながら言うと、未来ちゃんもごめんと、笑った。



「・・・未来ちゃん」


「ん?」


「信じてくれて、ありがとう」


わたしが未来ちゃんだったら、同じ事は出来なかったと思う。遥か昔の事をこんなに気に病み、理解するのも簡単ではなかったはずなのに、わたしを探してまで謝ろうとするのは、優しさ以外に何があるだろう。


「ありがとうは、わたしだよ。正直、会ってくれないと思ってたから・・・本当に、嬉しかった。ありがとう、雪音ちゃん」


「・・・なんかわたし達、ごめんとありがとうしか言ってなくない?」


未来ちゃんは、プッと笑った。「確かに」




それからは、これまでのお互いの歴史の報告会へと変わった。

未来ちゃんは日本語の他に英語と中国語が堪能らしく、ごちゃ混ぜになるから普段の会話に支障をきたしていると、笑いながら言っていた。わたしみたいな平凡な人間にとっては、尊敬以外の何者でもないが、本人にしかわからない苦労があるんだろう。


子供の話をする時は、必ずお腹に手を当て、まだ見えないその子に対して、母親の顔になる。

その姿が、とても微笑ましいと思った。



その後、未来ちゃんを駅まで送り届け、わたし達は別れた。

未来ちゃんは改札を抜けようとして、引き返し、こう言った。


「また、連絡してもいい?」


「もちろん。子供の顔も見なきゃいけないでしょ」


未来ちゃんは、やはりあの頃とまったく変わらない笑顔をわたしに向けると、姿が見えなくなるまで何度も振り向き、手を振っていた。





──・・・わたしも、帰ろう。


駅の階段を上る途中、息がしづらくなって足を止めた。

やめろ。考えてもしょうがない事を、考えるな。平常心、平常心。

自動販売機で水を買い、いつもの河原へ向かった。



今日は風が強いせいか、いつもより人が少ない。大きなキャリーケースを引いたお姉さんとすれ違い、思わず振り向いた。この河川敷でキャリー引いてる人、初めて見た。何処へ行くんだ?

今度は、自転車の荷台にCDプレイヤーを固定し、爆音を流しながら走行しているおじいさんとすれ違い、振り返る。ポータブルプレイヤー、知らないのか?


今日は、変な人に会う日だ。



ベンチに腰掛け、水で喉を潤す。二日酔いじゃなければ、ビールでも良かったな。今日は人がいないから、周りの目を気にせず飲めた。


ボディバッグから携帯を取り出し、着信をチェックする。

春香から返信が来ていた。


【半分死んでる。さすがに今日は飲まないつもり。アンタは?】


つもり?飲む可能性もあるということか。【久しぶりの二日酔い。さすがに今日は絶対飲めない】と返す。


そういえば、早坂さんから電話あったんだ。慌てて切って失礼な事しちゃったな。履歴から、早坂さんの名前を押す。



「もしもし?」


── 今、コール鳴ったか?「もしもし、早坂さん?」


「ん?何かしら、もしもーし、雪音ちゃん?」


「もしもし?聞こえませんか?」


「あ、聞こえたわ。なんか雑音が入るわね」


「あ・・・風の音だと思います」マイク部分に手を当て、風を防ぐ。


「外にいるの?」


「はい」


「どこ?」


どこって──「家の近くの河原です」


「なんで?」


──尋問か?「人と会ってて、その帰りです。さっきはすみませんでした。慌てて電話切っちゃって」


「待ち合わせに遅れるとか言ってたものね。大丈夫だったの?」


「はい、ギリギリ1分前でしたけど」


「そう。誰と?」


──尋問だ。「誰とって、友達ですよ」


「この前の子じゃないの?今日からバイトに入ったって言ってた」


「あー、一真くんのことですか?違います、昔の友人です」そこまで聞く意味、あるのか?


「そっか」


そっか、って──。「それで、電話、なんでした?」


「やあねえ、用がなければしちゃいけないの?」


「・・・いや、そうじゃないですが・・・」


「久しく会ってないから、元気かなあと思って」


「・・・久しくって、1週間も経ってないですけどね」


「あら、そうだっけ?もっと経ってるような気がするわ」


それに関しては同感だったけど、あえて言わない。「元気ですよ。早坂さんは元気ですか?」


「ぼちぼちね。じゃああとは宜しくね」


「えっ?」


「あ、ごめんごめん、こっちの話よ」


誰かといるんだろうか?後ろで微かに話し声が聞こえる。


「ていうか、あなた、こんな強風の時にそこで何してるの?飛ばされて川に落ちるわよ」


「落ちません。ちょっと、休憩です」


「何かあった?」


完璧に意表を突かれた。「・・・なんでですか?」


「声がいつもとちょっと違うから」


──わたし、顔だけじゃなく、声にも出るの?単純人間にも程があるだろう。


「何もないです」


「あたしで良かったら聞くわよ」


「何もないですって」


「言って、スッキリする事もあるんだから、言ってみなさい」


この人、耳が聞こえてないのか?

──なんで、いつも見抜かれるんだろう。単にわたしがわかりやすいだけかもしれないが、早坂さんに誤魔化しは通じない気がする。



「・・・初めて見た妖怪が、友達に怪我させたって話、覚えてますか?」


「ええ、小学生の時よね」


「はい。その子とはそれがキッカケで疎遠になってたんですけど、今になって会いたいって連絡が来て・・・さっき会ってきました」


「そうだったの。それで?」


「・・・謝られました。あの時、怪我したのをわたしのせいにしてごめんなさいって」


「うん」


「あの時、あそこには確実に何かがいて、わたしにはそれが見えるんでしょって」


「なんて言ったの?」


「迷ったけど、本当の事を言いました。そうだよって」


「相手の反応は?」


「固まってました。幽霊?って」わたしが笑うと、早坂さんも同調した。「まさか、向こうからそんな事言われると思ってなかったので、ビックリしました。信じてくれたのは嬉しかったです・・・」


「うん」


未来ちゃんが、信じてくれるとは思わなかった。信じてくれた事は、嬉しい。嬉しいはずなのに、心の何処かで、ずっとわたしのことを恨んでてほしかったと思う自分もいる。


どうしても、考えてしまう。なんで、母さんは信じてくれなかったんだろう。わたしが本当に信じてほしかったのは、母さんだったんだと。

今更そんな事を思っても、どうしようもない。どうにも出来ないのに、押し寄せる自分の中の闇を、どうしても拭う事が出来ない。



「雪音ちゃん」


ベンチに足を乗せて丸くなる。「・・・母さんが生きてて、今、本当の事を言ったら、信じてくれたと思いますか。大人になったわたしが言ったら、信じてくれたかな」


早坂さんは、何も言わない。

そりゃあそうだ。わけのわからない事を言って、困らせてる。


「すみません。気にしな・・・わっ!」


突然、頭に触れる何か。振り向き、固まる。

「え・・・なんで?」


"本物の早坂さん"が、そこにいる。

「ベンチで体育座り?」早坂さんは優しく微笑み、わたしの涙を手で拭った。そして隣に座る。わたしの頭に触れ、自分の肩に寄せた。


「1人で泣くのはダメよ」


「な、なんで、いるんですか?」


「あら、いたらダメ?さっきまで店にいたからね」


「・・・店って、仕事中では?」


「あたしはフリーなの」


「この近くなんですか?」というか、この体勢落ち着かないんだが。顔が見えないのが救いだ。


「あなたのお店からそう遠くないわ」


「そうなんですか・・・」


早坂さんがわたしの髪を梳くように撫でる。「あなたが今、伝えたら、お母さんは信じてたと思うわ」


「・・・そうでしょうか」


「うん」


「・・・なんで?」


「だって、あなたの言う事だもの」


「・・・理由になってませんけど」


「どうして?あなたが言う事を、お母さんが信じないわけないじゃない。子供の時の事は、しょうがないと思うわ。あたしもそうだったもの。今のあなたを、お母さんはちゃんと受け入れてたわ」


「・・・断言ですか」


「ええ」


思わず、笑ってしまう。早坂さんは身体を離し、わたしの頬を両手で包んだ。「あたしも、あなたを信じてるわ。この先、どんな事があっても、あなたの事を信じる」


触れられた頬が、熱い。「・・・じゃあ、わたしが少々無茶しても信じてくれますか」


「それとこれとは別よ」早坂さんはすぐさまそっぽを向いた。


「なんでですか!信じるってそういう事では?」


「信じると心配は別ものよ。あなたの暴走に目を瞑る気はないわ」


「暴走って・・・まあ、そうですけど」今までの事を考えると、反論出来ない。


「鍵付きの檻でも買おうかしら?」


「なんのために?」


「あなたを監禁するのに」


──そんな真顔で言われても、怖いんだが。


「リードでもいいわね」


「・・・わたしは猛獣じゃありません」


「サイズは小型犬よね。ふふ、可愛いわ」


「わたしを小さいって言うの、早坂さんくらいですけどね」


「そお?」


──・・・さっきまで、押しつぶされそうだったのに、いつの間にか、とても穏やかな気持ちになっている。それは、さっき早坂さんの顔を見た瞬間にも感じた事だ。

本当に、不思議だ。


「やっぱり良いとこね〜。風がなければ最高だわ」


「早坂さん」


「ん?」


「ありがとうございます」


早坂さんはいつものように優しく微笑み、いつものように、わたしの頭に触れた。


これからも、こうやって、わたしに触れてほしい。

それを言ったら、早坂さんはどう思うだろうか──。










































































































この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?